2018 |
02,19 |
何から書こうか…。うむ……そう…なんだよな…。
なんというか、戦時中というと常に鬱屈していて辛くて…というイメージがあるんだけど、人はそんな中でもきっとこう…それだけじゃなかったんだよな。戦時中だって、晴美ちゃんのような子供の笑顔に救われたり、料理の嵩を増すためにいろいろと工夫したり、大切な人がちゃんと仕事場から戻ってきたり…といった救いや笑顔は確かにあったんだよな。
ただ、言うまでもないし作中でもすずさんが「良かった、良かったって…全然良くない!」みたいな事を言っていたように、これは本当にただの「不幸中の幸い」で、決してプラスではない。戦時中という状況を「良し」としてる訳ではない。
とはいえ、その時代にだって確かにあったはずの、その当時を生きた人たちの思いを全て黒く塗りつぶしてもいいのか?そういう葛藤とゆらぎが優しい絵柄で描かれている。
まずは何と言ってもすずさんのキャラが素晴らしい。あの時代を描くにあたって、こういうのほほとしたキャラクターを主軸に置くというが既にものすごい。幼少の頃の可愛いすずさんが感じた一つ一つの小さな思い出、出会い、経験に触れて、ずぶずぶと世界観に浸っていく。沼でこけたこと、お兄ちゃんにいじわるされたこと、ノートに自作のお話を描いたこと…。
作品の傾向的にハッピーエンドではないことが確定している中で、それでもすずさんが幸せにこのままと過ごせますように、と祈らずにはいられない描写の連続。この手法はどう考えてもひどい。ひどいけど「上手い」。
それでも、イメージよりもずっとすずさんは持ち前ののほほとした性格で作品は明るさを保ち続けていた。周作もあの時代の男にしては…現代の基準で考えたってかなりいい夫だったと思う。きちんとすずさんの事を愛して、大事にしていたし。何よりも最後まで生き残ってくれた。これは本当に大きい。
径子さんのツンツン態度なんて可愛いものだ。むしろ径子さん居なかったら「ハーイ!あっこです」よりもほのぼのとしてしまう。そしてなによりも晴美ちゃんがめちゃくちゃ可愛い。晴美ちゃんの無邪気なキャキャキャという笑い声がじわりじわりと日常を侵し続ける戦火の中で救いにもなっていた。
増える空襲といつの間にか日常になる空襲警報。この辺りの「日常が壊れ始める」描写もすごい。なにが日常で何が日常でないのか。気が付いたら戦火の真っ最中、というこの感じが怖い。
晴美ちゃんとすずさんの右手が失われた場面は本当につらい…。映画館で見てても声を上げたと思ったくらい衝撃だった。晴美ちゃんによって救われていた場面が相当あっただけに、それと同時に絵を描くことが好きなすずさんの右手まで持っていく容赦のなさ。晴美ちゃんを失ってすずさんに当たってしまう径子さんの気持ちも分かるよな…。何かを責めないと自分の心に折り合いがつかないんだろうな…というのが、径子さん自身も分かっているのがつらい。ただ、多分すずさんが右手を失ってなかったら、径子さんの…その…すずさんに対する憤りはもっと強かったんだろうな、とも思う。
終戦時のすずさんの慟哭もすごい。あの温和なすずさんの叫びだからこそ、余計に響く。あの放送でそれまでの「価値観」が全て崩れちゃったんだよな。右手を失ったことも、晴美ちゃんを失ったことも、戦争によるそれこそ様々な抑圧があれですべて無くなってしまった。すずさんの正確な心情を汲むことはできないのだけど、昨日までどんどん来ていた空襲が「戦争が終わったので、もう空襲はありません」とか言葉で言われてもなかなか落とし込むことはできないよな…。
それだけに、終戦を迎えた瞬間よりも、終戦日から日が進むにしたがってだんだんと「敗戦」を受け入れている描写が重かった。終戦の放送で劇的に終わるのではなく、その後の描写でじわじわとその日常をしみこませていく、というのが実にこの作品らしかった。
結局のところ、この作品はたぶん原爆が落とされた街に居たり、そういう戦争のド中心に「いなかった」人たちの物語だったのだと思う。そういう本当の中心にいた人たちは、数で言えば少数なんだけど、こういう「作品」では取り上げられやすかった。
でも、本当に大多数の人が経験した戦争というのは、こんな風に広島に新型爆弾が落とされた「らしい」とか、そういう位置だったんじゃないかな。けして戦争の「主人公」ではない人々。その様子を描いた作品だったと思う。
なんというか、戦時中というと常に鬱屈していて辛くて…というイメージがあるんだけど、人はそんな中でもきっとこう…それだけじゃなかったんだよな。戦時中だって、晴美ちゃんのような子供の笑顔に救われたり、料理の嵩を増すためにいろいろと工夫したり、大切な人がちゃんと仕事場から戻ってきたり…といった救いや笑顔は確かにあったんだよな。
ただ、言うまでもないし作中でもすずさんが「良かった、良かったって…全然良くない!」みたいな事を言っていたように、これは本当にただの「不幸中の幸い」で、決してプラスではない。戦時中という状況を「良し」としてる訳ではない。
とはいえ、その時代にだって確かにあったはずの、その当時を生きた人たちの思いを全て黒く塗りつぶしてもいいのか?そういう葛藤とゆらぎが優しい絵柄で描かれている。
まずは何と言ってもすずさんのキャラが素晴らしい。あの時代を描くにあたって、こういうのほほとしたキャラクターを主軸に置くというが既にものすごい。幼少の頃の可愛いすずさんが感じた一つ一つの小さな思い出、出会い、経験に触れて、ずぶずぶと世界観に浸っていく。沼でこけたこと、お兄ちゃんにいじわるされたこと、ノートに自作のお話を描いたこと…。
作品の傾向的にハッピーエンドではないことが確定している中で、それでもすずさんが幸せにこのままと過ごせますように、と祈らずにはいられない描写の連続。この手法はどう考えてもひどい。ひどいけど「上手い」。
それでも、イメージよりもずっとすずさんは持ち前ののほほとした性格で作品は明るさを保ち続けていた。周作もあの時代の男にしては…現代の基準で考えたってかなりいい夫だったと思う。きちんとすずさんの事を愛して、大事にしていたし。何よりも最後まで生き残ってくれた。これは本当に大きい。
径子さんのツンツン態度なんて可愛いものだ。むしろ径子さん居なかったら「ハーイ!あっこです」よりもほのぼのとしてしまう。そしてなによりも晴美ちゃんがめちゃくちゃ可愛い。晴美ちゃんの無邪気なキャキャキャという笑い声がじわりじわりと日常を侵し続ける戦火の中で救いにもなっていた。
増える空襲といつの間にか日常になる空襲警報。この辺りの「日常が壊れ始める」描写もすごい。なにが日常で何が日常でないのか。気が付いたら戦火の真っ最中、というこの感じが怖い。
晴美ちゃんとすずさんの右手が失われた場面は本当につらい…。映画館で見てても声を上げたと思ったくらい衝撃だった。晴美ちゃんによって救われていた場面が相当あっただけに、それと同時に絵を描くことが好きなすずさんの右手まで持っていく容赦のなさ。晴美ちゃんを失ってすずさんに当たってしまう径子さんの気持ちも分かるよな…。何かを責めないと自分の心に折り合いがつかないんだろうな…というのが、径子さん自身も分かっているのがつらい。ただ、多分すずさんが右手を失ってなかったら、径子さんの…その…すずさんに対する憤りはもっと強かったんだろうな、とも思う。
終戦時のすずさんの慟哭もすごい。あの温和なすずさんの叫びだからこそ、余計に響く。あの放送でそれまでの「価値観」が全て崩れちゃったんだよな。右手を失ったことも、晴美ちゃんを失ったことも、戦争によるそれこそ様々な抑圧があれですべて無くなってしまった。すずさんの正確な心情を汲むことはできないのだけど、昨日までどんどん来ていた空襲が「戦争が終わったので、もう空襲はありません」とか言葉で言われてもなかなか落とし込むことはできないよな…。
それだけに、終戦を迎えた瞬間よりも、終戦日から日が進むにしたがってだんだんと「敗戦」を受け入れている描写が重かった。終戦の放送で劇的に終わるのではなく、その後の描写でじわじわとその日常をしみこませていく、というのが実にこの作品らしかった。
結局のところ、この作品はたぶん原爆が落とされた街に居たり、そういう戦争のド中心に「いなかった」人たちの物語だったのだと思う。そういう本当の中心にいた人たちは、数で言えば少数なんだけど、こういう「作品」では取り上げられやすかった。
でも、本当に大多数の人が経験した戦争というのは、こんな風に広島に新型爆弾が落とされた「らしい」とか、そういう位置だったんじゃないかな。けして戦争の「主人公」ではない人々。その様子を描いた作品だったと思う。
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2018 |
02,18 |
久しぶりのえいがのじかんだ~!!
いい……素晴らしい…休日の朝から映画を見ると一日が充実して始まる…。続けたい…この習慣……。
昨日(土曜日)は本当はシュガー・ラッシュを見るつもりで借りて来たんだけどBDデッキが壊れてしまってBDが読み込めなくなってしまった…。まあ、6年も使ってるのでしょうがないといえばしょうがないんだけど。週明けにBDクリーナーを買ってきてダメだったらもう買い替えだな…。
という訳で、バタフライ・エフェクト。
いや~、映画はやっぱりすごいな…。たった二時間でこんなに「試行錯誤を繰り返した男の挑戦」を描けるなんてな…。
描写やシーンがガンガン切り替わるのでかなり気合を入れて見ないとついていけないんだけど、ちゃんと面白かった。しかも、見てるときには矛盾に気付かないんだけど、見終わった後に思い返してみるとあそこおかしかったよな…?と思うことってよくあるけど、この映画はこうやって感想書こうと思っていろいろな要素を思い出してみると全部パチパチとパズルが組み合うようにちゃんとお互いの要素が補完し合ってキッチリ噛み合ってるんだよな…。
丁寧な脚本は見終わった後にこそ真価が分かる、これはわりとシナリオの真理なんじゃないかなあ。
「バタフライ・エフェクト」というタイトルも素晴らしい。何かの要素を変えようとして行動をするんだけど、それが巡り巡って全く違う結果が生まれてしまう、まさにこの作品を表すのにこれ以上ないタイトルだ。
「過去を改変して愛する女性を救う」というプロットを見ると、「君の名は」とか「シュタインズゲート」をまあ、やっぱり思い出すんだけど「君の名は」が滝君が三葉ちゃんにどこで惚れたんだ…?という問題があった。(個人の感想です)
でも、ケイリーはそもそも家庭環境からしてあまりにも可哀想で、この子は救ってあげなきゃいけないな!という気にさせられるのも大きい。未来が切り替わるたびに薬に溺れたり、自殺したり…と「恋愛」を抜きにしてもなんとかしてあげなきゃな…という感じである。
トミーはほんとマジでお前…ナチュラルに人を角材で殴るんじゃないよ…。躊躇が無さ過ぎて怖いよ!プロシュート兄貴かよ!でもあれはあの親父のせいで性格がゆがんだっぽいので、それはそれで可哀想な気がしないでもない。あの親父をダイナマイトで吹っ飛ばしていれば全てが解決したんじゃなかろうか。そういえば最初、トミーとケイリーが兄妹だって気づかなくてケイリーが好きな男の子だと思ってた。
レニーの巻き込まれぶりもすごい。ただただトニーとクラスが一緒になっていじめられていたというだけで、すさまじい運命が待っていた。レニーの「なんでおれこんなことになっちゃったんだろう」感はまさにバタフライ・エフェクト感たっぷりである。
やっぱり、ラストがすごいな。日記をつける前まで戻っちゃったから日記が消失したんだけど、親父が過去戻りに使っていたアイテムが「アルバム」ってことに気が付いて、(私はここで「親父はアイテムがアルバムだったんだ~。(昔はスマホとかないし、現像もあるし)写真撮るの大変そうだな…」としか思わなかったんだけど)、過去戻りのキーアイテムが「過去に関連するものならなんでもよい」(いや、「抜け落ちた記憶の周辺と関連する記録物かな…」)という隠しルールが提示されて、ホームビデオを持ってきてケイリーとの出会いのシーンに戻って、「出会った時から好きだった」という情報を元にケイリーを遠ざけてEND。うーん、流れるような収束が素晴らしい。なにより、ケイリーを守るために、彼女との関係を全て捨てるという選択をしたのが泣ける…。エヴァン、お前は漢だよ…。
まあ、いろいろ言いたいこともある。消えた記憶の断片部分に飛べるのは一回だけなのかと思ったら何回も飛べてるし、最後のケイリーとの出会いのシーンの記憶を失ってる描写もなかったし、そもそもホームビデオが唐突だし…。さらに言うと、あの殺人の絵は結局なんだったんだろうとか、親父は別に自殺しないでも良かったのでは(エヴァンを殺そうとしたのはわかる)…とかあるんだけど、まあまあ、そこら辺はいいじゃないか。エヴァンの漢気に免じて目をつぶろう。
いい……素晴らしい…休日の朝から映画を見ると一日が充実して始まる…。続けたい…この習慣……。
昨日(土曜日)は本当はシュガー・ラッシュを見るつもりで借りて来たんだけどBDデッキが壊れてしまってBDが読み込めなくなってしまった…。まあ、6年も使ってるのでしょうがないといえばしょうがないんだけど。週明けにBDクリーナーを買ってきてダメだったらもう買い替えだな…。
という訳で、バタフライ・エフェクト。
いや~、映画はやっぱりすごいな…。たった二時間でこんなに「試行錯誤を繰り返した男の挑戦」を描けるなんてな…。
描写やシーンがガンガン切り替わるのでかなり気合を入れて見ないとついていけないんだけど、ちゃんと面白かった。しかも、見てるときには矛盾に気付かないんだけど、見終わった後に思い返してみるとあそこおかしかったよな…?と思うことってよくあるけど、この映画はこうやって感想書こうと思っていろいろな要素を思い出してみると全部パチパチとパズルが組み合うようにちゃんとお互いの要素が補完し合ってキッチリ噛み合ってるんだよな…。
丁寧な脚本は見終わった後にこそ真価が分かる、これはわりとシナリオの真理なんじゃないかなあ。
「バタフライ・エフェクト」というタイトルも素晴らしい。何かの要素を変えようとして行動をするんだけど、それが巡り巡って全く違う結果が生まれてしまう、まさにこの作品を表すのにこれ以上ないタイトルだ。
「過去を改変して愛する女性を救う」というプロットを見ると、「君の名は」とか「シュタインズゲート」をまあ、やっぱり思い出すんだけど「君の名は」が滝君が三葉ちゃんにどこで惚れたんだ…?という問題があった。(個人の感想です)
でも、ケイリーはそもそも家庭環境からしてあまりにも可哀想で、この子は救ってあげなきゃいけないな!という気にさせられるのも大きい。未来が切り替わるたびに薬に溺れたり、自殺したり…と「恋愛」を抜きにしてもなんとかしてあげなきゃな…という感じである。
トミーはほんとマジでお前…ナチュラルに人を角材で殴るんじゃないよ…。躊躇が無さ過ぎて怖いよ!プロシュート兄貴かよ!でもあれはあの親父のせいで性格がゆがんだっぽいので、それはそれで可哀想な気がしないでもない。あの親父をダイナマイトで吹っ飛ばしていれば全てが解決したんじゃなかろうか。そういえば最初、トミーとケイリーが兄妹だって気づかなくてケイリーが好きな男の子だと思ってた。
レニーの巻き込まれぶりもすごい。ただただトニーとクラスが一緒になっていじめられていたというだけで、すさまじい運命が待っていた。レニーの「なんでおれこんなことになっちゃったんだろう」感はまさにバタフライ・エフェクト感たっぷりである。
やっぱり、ラストがすごいな。日記をつける前まで戻っちゃったから日記が消失したんだけど、親父が過去戻りに使っていたアイテムが「アルバム」ってことに気が付いて、(私はここで「親父はアイテムがアルバムだったんだ~。(昔はスマホとかないし、現像もあるし)写真撮るの大変そうだな…」としか思わなかったんだけど)、過去戻りのキーアイテムが「過去に関連するものならなんでもよい」(いや、「抜け落ちた記憶の周辺と関連する記録物かな…」)という隠しルールが提示されて、ホームビデオを持ってきてケイリーとの出会いのシーンに戻って、「出会った時から好きだった」という情報を元にケイリーを遠ざけてEND。うーん、流れるような収束が素晴らしい。なにより、ケイリーを守るために、彼女との関係を全て捨てるという選択をしたのが泣ける…。エヴァン、お前は漢だよ…。
まあ、いろいろ言いたいこともある。消えた記憶の断片部分に飛べるのは一回だけなのかと思ったら何回も飛べてるし、最後のケイリーとの出会いのシーンの記憶を失ってる描写もなかったし、そもそもホームビデオが唐突だし…。さらに言うと、あの殺人の絵は結局なんだったんだろうとか、親父は別に自殺しないでも良かったのでは(エヴァンを殺そうとしたのはわかる)…とかあるんだけど、まあまあ、そこら辺はいいじゃないか。エヴァンの漢気に免じて目をつぶろう。
2018 |
01,21 |
いや、おいちょっと待て…。こ、これ…ロックマンじゃねえか…!?
CMはガンガンやってたので断片的には見たことがあったけど、常にマシュマロみたいなベイマックスがぷよぷよしてるだけで、一度たりともあのアイアンマンマンモードを見たことがなかった気がするぞ…??
もちろん、あの姿を「ネタバレ」と認識するなら当然隠すべきものだとは思うんだけど、この映画はジャンル的に言えば完全にスパイダーマンとかのヒーローものに属するものだと思うので、それを「隠してる」ようなプロモーションはどう…なんだろう…。いや、まあ、ヒロとタダシの絆もこの作品のテーマではあると思うので完全にミスリード、という訳ではないと思うんだけど…。
こんな議論は公開時にさんざんやられたと思うのだけど、結局日本のプロモーターがディズニーでヒーローものをやるのが「怖かった」んだろうね。スタッフはそこに「挑戦」してこの作品を作ったのだと思うけど、商業的視点を持つプロモーターはそんな冒険怖くてできなかった、と。そんであえて兄弟の絆の方に大きくスポットを当てた(というかヒーロー要素は隠した)宣伝を行ったんだろう。興業的には成功していたので、その宣伝方法は結果的に見れば「正しかった」となるんだろうけど、昨日のマッドマックスとは対照的に「思ってたのと違うな…」と思った人も少なからずいたとは思う。
プロモーションはともかく、ベイマックス。とにかくベイマックスが可愛くてカッコイイ。胴体が風船で膨らんでるという事をしらなかったのだけど、あの「キュッキュ」という風船音はすごく可愛い。新幹線ナレーションの様な落ち着いた声も良い。英語版で見たのだけど、吹き替えだとどんな感じだったんだろうか。
アイアンマンモードは強そうだ。物語のクライマックスでも使われる「ロケットパンチ」のカッコよさは別格。空手を取り入れた動きも、ベイマックスのあの体形でやると「動けるデブ」感があってすごくいい。
あとは何といっても、ヒロと一緒に空を飛ぶシーン。あのベイマックスが「空を飛ぶ」というアイデアだけでも鳥肌モノだけど、あの描写はめちゃくちゃすごい。子供の頃にあれを見せられたら、ずっと頭の中に残って離れないと思う。街を縫うようにして飛び回る動き、上昇して橋の先の海まで見通すあの景色。めちゃくちゃ素晴らしかった。やはり「空を飛ぶ」というのは永遠の子供の憧れなのだ。新エンジンを採用したという背景、特に空の綺麗さはすごかった。
マイクロボットも「画期的」感があってよかった。ただあれ、攻撃方法というか発想はスパイダーマンのサンドマンとかNARUTOの我愛羅の砂とあまり変わらなかったりする。
しかし、ストーリーはディズニーにしてはかなり疑問に思うところが多かった。そもそも、あの火事が一体なんで起こったのか良く分からなかった。結局、クレイは悪いやつであることに間違いはないんだけど、あの火事を引き起こした犯人じゃないんだろうし。もちろん、文脈から判断すればクレイが火を放って…というヒロの推察はあり得ることなんだけど、よくよく考えるとクレイがそこまでしてあの技術を欲しがる理由はないんだよな…。
いや、まあ、あそこは様々な新発明のお披露目の場だったので、そのうちの一つが原因で…とか、いくらでも脳内補完は可能とはいえ、ストーリー上の超重要事項が「なんとなく自然に起こりました」はなかなか受け入れられないところがある。
もっと言えば、あの火事が不慮の事故だったとするなら、キャラハン教授も被害者な訳でヒロに恨まれる理由もない。キャラハン教授も火に包まれて「やむなく」マイクロボットをつかったのはしょうがないと思うし、画面を見ている限りでは、タダシが教授を救いに行った直後にラボが爆発してて教授が「見捨てた」とかそんな描写はなにもなかったんだよな…。むしろ、キャラハン教授にしてみればタダシがラボに助けに来てくれたことすら知らなかった可能性すらあるタイミングだった。(のちの葬儀で死んだことは知ってたみたいだけど)完全に逆恨みの様な気が…しないでもない…。
さらに言うとキャラハン教授が復讐を実行するためにテレポーテーション装置を再起動することで、結果的に「娘の救出が行えちゃった」んだよね。「No!復讐」が基本なはずなんだけど、結果的に「復讐してよかった」になっちゃってる。だってあの装置、教授が当てつけ(「失敗」したテレポーテーション装置であえて本社を破壊する)で起動しなかったら永遠に再起動することはなかったんだし。
ぶっちゃけ、「仲間みんなでヒーローをやる」という必然性もかなり薄く感じるんだよな。ただ、これはマジでプロモーションの方向性のせいで、この映画が「ベイマックスと四人のヒーローアクション」!!って認識して映画に入ってれば、ヒーローモードの六人が揃ったところで「待ってました!」ってなるはずが、画面の前のめくるめく展開に「冷めた」目で見ちゃったことは事実としてあるとは思う。ただ、仲間みんなでヒーロをやってる描写自体は楽しかったし、「タダシを失ったヒロには仲間が必要」という要素としては理解できる。
あ、でも「心の中で生きてるって言われたって居ないものはいないんだ!」ってヒロが悲しみにくれるシーンはよかった。いや、実際ほんとうにその通りだと思う。でも、いつかは喪失に決着をつけなくちゃいけない。ヒロも最後はベイマックスの中にあるタダシのビデオで復讐をやめるわけで、あれを見たところで言ってしまえば「タダシを失った」という現状になにも変わりはないんだけど、それを「受け入れる」事が出来た。
言葉の意味を受け入れられるときと受け入れられない時がある、ということ。受け入れられないときは無理をしないでいったん距離を置けばいいと思う。いつか、必ず受け入れられる時が来るのだから。
CMはガンガンやってたので断片的には見たことがあったけど、常にマシュマロみたいなベイマックスがぷよぷよしてるだけで、一度たりともあのアイアンマンマンモードを見たことがなかった気がするぞ…??
もちろん、あの姿を「ネタバレ」と認識するなら当然隠すべきものだとは思うんだけど、この映画はジャンル的に言えば完全にスパイダーマンとかのヒーローものに属するものだと思うので、それを「隠してる」ようなプロモーションはどう…なんだろう…。いや、まあ、ヒロとタダシの絆もこの作品のテーマではあると思うので完全にミスリード、という訳ではないと思うんだけど…。
こんな議論は公開時にさんざんやられたと思うのだけど、結局日本のプロモーターがディズニーでヒーローものをやるのが「怖かった」んだろうね。スタッフはそこに「挑戦」してこの作品を作ったのだと思うけど、商業的視点を持つプロモーターはそんな冒険怖くてできなかった、と。そんであえて兄弟の絆の方に大きくスポットを当てた(というかヒーロー要素は隠した)宣伝を行ったんだろう。興業的には成功していたので、その宣伝方法は結果的に見れば「正しかった」となるんだろうけど、昨日のマッドマックスとは対照的に「思ってたのと違うな…」と思った人も少なからずいたとは思う。
プロモーションはともかく、ベイマックス。とにかくベイマックスが可愛くてカッコイイ。胴体が風船で膨らんでるという事をしらなかったのだけど、あの「キュッキュ」という風船音はすごく可愛い。新幹線ナレーションの様な落ち着いた声も良い。英語版で見たのだけど、吹き替えだとどんな感じだったんだろうか。
アイアンマンモードは強そうだ。物語のクライマックスでも使われる「ロケットパンチ」のカッコよさは別格。空手を取り入れた動きも、ベイマックスのあの体形でやると「動けるデブ」感があってすごくいい。
あとは何といっても、ヒロと一緒に空を飛ぶシーン。あのベイマックスが「空を飛ぶ」というアイデアだけでも鳥肌モノだけど、あの描写はめちゃくちゃすごい。子供の頃にあれを見せられたら、ずっと頭の中に残って離れないと思う。街を縫うようにして飛び回る動き、上昇して橋の先の海まで見通すあの景色。めちゃくちゃ素晴らしかった。やはり「空を飛ぶ」というのは永遠の子供の憧れなのだ。新エンジンを採用したという背景、特に空の綺麗さはすごかった。
マイクロボットも「画期的」感があってよかった。ただあれ、攻撃方法というか発想はスパイダーマンのサンドマンとかNARUTOの我愛羅の砂とあまり変わらなかったりする。
しかし、ストーリーはディズニーにしてはかなり疑問に思うところが多かった。そもそも、あの火事が一体なんで起こったのか良く分からなかった。結局、クレイは悪いやつであることに間違いはないんだけど、あの火事を引き起こした犯人じゃないんだろうし。もちろん、文脈から判断すればクレイが火を放って…というヒロの推察はあり得ることなんだけど、よくよく考えるとクレイがそこまでしてあの技術を欲しがる理由はないんだよな…。
いや、まあ、あそこは様々な新発明のお披露目の場だったので、そのうちの一つが原因で…とか、いくらでも脳内補完は可能とはいえ、ストーリー上の超重要事項が「なんとなく自然に起こりました」はなかなか受け入れられないところがある。
もっと言えば、あの火事が不慮の事故だったとするなら、キャラハン教授も被害者な訳でヒロに恨まれる理由もない。キャラハン教授も火に包まれて「やむなく」マイクロボットをつかったのはしょうがないと思うし、画面を見ている限りでは、タダシが教授を救いに行った直後にラボが爆発してて教授が「見捨てた」とかそんな描写はなにもなかったんだよな…。むしろ、キャラハン教授にしてみればタダシがラボに助けに来てくれたことすら知らなかった可能性すらあるタイミングだった。(のちの葬儀で死んだことは知ってたみたいだけど)完全に逆恨みの様な気が…しないでもない…。
さらに言うとキャラハン教授が復讐を実行するためにテレポーテーション装置を再起動することで、結果的に「娘の救出が行えちゃった」んだよね。「No!復讐」が基本なはずなんだけど、結果的に「復讐してよかった」になっちゃってる。だってあの装置、教授が当てつけ(「失敗」したテレポーテーション装置であえて本社を破壊する)で起動しなかったら永遠に再起動することはなかったんだし。
ぶっちゃけ、「仲間みんなでヒーローをやる」という必然性もかなり薄く感じるんだよな。ただ、これはマジでプロモーションの方向性のせいで、この映画が「ベイマックスと四人のヒーローアクション」!!って認識して映画に入ってれば、ヒーローモードの六人が揃ったところで「待ってました!」ってなるはずが、画面の前のめくるめく展開に「冷めた」目で見ちゃったことは事実としてあるとは思う。ただ、仲間みんなでヒーロをやってる描写自体は楽しかったし、「タダシを失ったヒロには仲間が必要」という要素としては理解できる。
あ、でも「心の中で生きてるって言われたって居ないものはいないんだ!」ってヒロが悲しみにくれるシーンはよかった。いや、実際ほんとうにその通りだと思う。でも、いつかは喪失に決着をつけなくちゃいけない。ヒロも最後はベイマックスの中にあるタダシのビデオで復讐をやめるわけで、あれを見たところで言ってしまえば「タダシを失った」という現状になにも変わりはないんだけど、それを「受け入れる」事が出来た。
言葉の意味を受け入れられるときと受け入れられない時がある、ということ。受け入れられないときは無理をしないでいったん距離を置けばいいと思う。いつか、必ず受け入れられる時が来るのだから。
2018 |
01,20 |
V8!!V8!!
最初のシーン、ビルが倒壊し、大津波に街が込みこまれていく様をみて、ああこうやって世界が崩壊したんだなあと思って見てたら、別の作品の予告編だった。おいいい、ワーナー!!レンタルBDでまで予告編を入れるんじゃない!(それとも、これが普通なのか…??)
こんどこそ本当に本編が始まったと思ったら「という訳で世界は滅んだ」というテロップのみで処理されていて、これはものすごい期待が出来るぞ!という感じだった。そう、こんなところに時間と予算をかけている場合ではない。おれたちはマッドな世界の爆走ショーを見に来ているんだ。
いまさら映画の内容を語るのもヤボというものだけど、とりあえず奇抜なマシンに、ブッとんでる人物たち、砂漠!!女!!ガソリン!!ヒャッハーこれぞ世紀末!!という感じの画面がほぼ二時間ひっきりなしで続いて、「こういうのが見たいんだよこういうのが」という期待は確実に満たされると思う。少なくともこの映画を見ようと思って、この映画をみた感想が「思ってたのと違う」となる事はまずないだろう。
基本的に背景が砂漠しかないのも、逆にメカや人物のアクションが映えるというもの。
ただ、画面の派手さとは裏腹、マックスもフュリオサもどちらかというと冷静なタイプの知性派で行動理念的にはかなり筋が通っているため、ストーリー的にしっちゃかめっちゃかになっている感じはしない。はっきり言ってしまえば、ストーリーラインとしては行って帰ってきてるだけなので、これ以上ないほどの一本道(物理)である。
フュリオサのいう「緑の地」というのはなんかこう…「約束の地」的なもっと象徴的な土地なのかと思っていたらちゃんと存在していたのには驚いたし、途中に通ってきた毒の沼っぽいところが「緑の地」のなれの果て、というオチも普通にビックリした。
というか、映画の基本構成として3/4を超えたあたりで主人公たちに最大のピンチが訪れるものなんだけど、私はこの映画において「主人公たちの最大のピンチ」というのは「車(ウォー・リグ)を失う事」だと思っていたので、失うのが「目的地」というのがビックリした。(というか、そもそも「目的地」は曖昧でずっと走り続けるものだと思っていた)
でも、やっぱり「逃走」を続けるのは不可能ということ。やはり敵とは「対決」し倒さねばならないのだ。通る道は同じだけど、その道を通る意味合いは前半と後半ではまるで違う。この時点でフュリオサの故郷で合流したばあさんズが加わって戦力もアップしていたのは非常に大きい。
ジョーの五人の妻はそれまでの登場人物とは明らかにパッと見ただけで「別格」な美人(というか生活環境が整ってたというのが大きいと思うけど)が揃っていて、これはジョーが必死に取り返しに来るのも分かるな…という感じで非常によかった。あと、砂と油にまみれた世界でもマックスの周りはこの五人の美女(とフュリオサ)が揃っていてFF5の様なハーレムパーティだったのもちょっと面白かった。
中盤からパーティに加わるニュークスくんはものすごい重要人物だ。最初はマックスを水筒がわりに持ってきた敵として登場し、ジョーに狂信的に忠誠を誓い、裏切られ、真実の愛(ぬくもり?)を知り爆散する…というこの映画のアンコウ(皮も肉も内臓も全部おいしく頂かれる)ポジションだ。孤高すぎるきらいのあるマックスやフュリオサよりも一番人間味にあふれていたのは彼だったと思う。
この映画は本当に説明がなくてほとんどが「考えるな感じろ」で構成されている。それゆえのスピード感というのも確かにあるし、それだけ画面で「世界観」を見せているという自信もあるのだと思う。(実際問題、それで成立しているのだからすごい)
フュリオサの義手という超重要要素もほぼスルーだ。もちろん、攫われてきたフュリオサが大隊長までになったのだ。それは筆舌に尽くしがたい苦労があったんだろうな…という事があの義手から伝わってくるのだけど、普通、こう…なんか…語りたくなるのが人情というものなんだけど、それらを全てのみ込み、駆け抜けたのがこの映画なんだ。
マックスのフラッシュバックもなにも解決しないまま終わった気がしないでもないけど、あれは…こう…過去作を見ていないのが悪いのではないか…という気がしないでもないので、そういうことにしておこう…と思う。
最初のシーン、ビルが倒壊し、大津波に街が込みこまれていく様をみて、ああこうやって世界が崩壊したんだなあと思って見てたら、別の作品の予告編だった。おいいい、ワーナー!!レンタルBDでまで予告編を入れるんじゃない!(それとも、これが普通なのか…??)
こんどこそ本当に本編が始まったと思ったら「という訳で世界は滅んだ」というテロップのみで処理されていて、これはものすごい期待が出来るぞ!という感じだった。そう、こんなところに時間と予算をかけている場合ではない。おれたちはマッドな世界の爆走ショーを見に来ているんだ。
いまさら映画の内容を語るのもヤボというものだけど、とりあえず奇抜なマシンに、ブッとんでる人物たち、砂漠!!女!!ガソリン!!ヒャッハーこれぞ世紀末!!という感じの画面がほぼ二時間ひっきりなしで続いて、「こういうのが見たいんだよこういうのが」という期待は確実に満たされると思う。少なくともこの映画を見ようと思って、この映画をみた感想が「思ってたのと違う」となる事はまずないだろう。
基本的に背景が砂漠しかないのも、逆にメカや人物のアクションが映えるというもの。
ただ、画面の派手さとは裏腹、マックスもフュリオサもどちらかというと冷静なタイプの知性派で行動理念的にはかなり筋が通っているため、ストーリー的にしっちゃかめっちゃかになっている感じはしない。はっきり言ってしまえば、ストーリーラインとしては行って帰ってきてるだけなので、これ以上ないほどの一本道(物理)である。
フュリオサのいう「緑の地」というのはなんかこう…「約束の地」的なもっと象徴的な土地なのかと思っていたらちゃんと存在していたのには驚いたし、途中に通ってきた毒の沼っぽいところが「緑の地」のなれの果て、というオチも普通にビックリした。
というか、映画の基本構成として3/4を超えたあたりで主人公たちに最大のピンチが訪れるものなんだけど、私はこの映画において「主人公たちの最大のピンチ」というのは「車(ウォー・リグ)を失う事」だと思っていたので、失うのが「目的地」というのがビックリした。(というか、そもそも「目的地」は曖昧でずっと走り続けるものだと思っていた)
でも、やっぱり「逃走」を続けるのは不可能ということ。やはり敵とは「対決」し倒さねばならないのだ。通る道は同じだけど、その道を通る意味合いは前半と後半ではまるで違う。この時点でフュリオサの故郷で合流したばあさんズが加わって戦力もアップしていたのは非常に大きい。
ジョーの五人の妻はそれまでの登場人物とは明らかにパッと見ただけで「別格」な美人(というか生活環境が整ってたというのが大きいと思うけど)が揃っていて、これはジョーが必死に取り返しに来るのも分かるな…という感じで非常によかった。あと、砂と油にまみれた世界でもマックスの周りはこの五人の美女(とフュリオサ)が揃っていてFF5の様なハーレムパーティだったのもちょっと面白かった。
中盤からパーティに加わるニュークスくんはものすごい重要人物だ。最初はマックスを水筒がわりに持ってきた敵として登場し、ジョーに狂信的に忠誠を誓い、裏切られ、真実の愛(ぬくもり?)を知り爆散する…というこの映画のアンコウ(皮も肉も内臓も全部おいしく頂かれる)ポジションだ。孤高すぎるきらいのあるマックスやフュリオサよりも一番人間味にあふれていたのは彼だったと思う。
この映画は本当に説明がなくてほとんどが「考えるな感じろ」で構成されている。それゆえのスピード感というのも確かにあるし、それだけ画面で「世界観」を見せているという自信もあるのだと思う。(実際問題、それで成立しているのだからすごい)
フュリオサの義手という超重要要素もほぼスルーだ。もちろん、攫われてきたフュリオサが大隊長までになったのだ。それは筆舌に尽くしがたい苦労があったんだろうな…という事があの義手から伝わってくるのだけど、普通、こう…なんか…語りたくなるのが人情というものなんだけど、それらを全てのみ込み、駆け抜けたのがこの映画なんだ。
マックスのフラッシュバックもなにも解決しないまま終わった気がしないでもないけど、あれは…こう…過去作を見ていないのが悪いのではないか…という気がしないでもないので、そういうことにしておこう…と思う。
2018 |
01,14 |
ディ、ディズニー~!!!!なんちゅうもんを見せてくれたんや…なんちゅうもんを…。
最初(パッケージ)の印象で「がんばりウサギとニヒルなキツネのバディもの」なのかな、と思ってたんだけど(その要素もあるんだけど)、それだけにとどまらない、さまざまな要素が詰まった作品だった。しかも、その要素が全部複雑に絡み合ってるのに総合的に味わうと「おいしい」になってて、高級ホテルのソースみたいな仕上がりになってた。
バディものの味だってするし、がんばりジュディの女性活躍奮闘ものの味もするし、偏見や差別などの社会問題の味もする。色んな味がするんだ、この映画…。
「アナ」を昨日見たのでどうしてもいろいろ比較して見てしまうんだけど、「アナ」は登場人物を絞りまくって展開をシンプルにしてたのとは逆に、ズートピアはいろいろな人物、場面が登場する。これはもちろん意図的で、ズートピアにはいろいろな動物たちが居て生活している、という世界観の説明も兼ねているんだ。「アナ」は基本的に人間しか登場しないのでこれをやる必要がない。だから人物は絞る。絞った方が貴重な時間を特定の人物にそそぐことが出来るからだ。いろいろなエリア、動物を見るのは楽しくてワクワクする。氷に閉ざされたアナは割と画面的には不利な状況で戦っていたんだな、ということが分かる。
「Try Everything」もいい。これこそ、本当に応援歌というかポジティブが詰まった歌だなと思う。上手く行かないことばかりだけど、失敗することもあるけど、それでも頑張っていこうと明るく歌い上げるのがいい。でも、日本語訳は「TRY」が「やるのよ」になってて、聞くたびに「わかるわ」って言ってる川島さんの顔が浮かんで来てしょうがない。
肉食(大型)動物たちの偏見(チビなウサギに警官はムリ)に晒されてきたジュディも、肉食動物たちに対して本能的には襲おうとしてるのではないかという「偏見」を晒してしまうあの会見は歌の中にあるような「失敗」なんだけど、あれは強烈だった。これまで偏見に憤っていたジュディの怒りが自分自身に帰ってくるという強烈なカウンター。パートナーのニックを失うほどの破壊力。
展開上、キャラに「やらかし」をさせたい時というのはあるんだけど、あの会見は意図的な「やらかし」には全然見えなかった。実際にジュディは子供の頃に暴れキツネに暴力を振るわれているわけだし。(というところまで書いて気が付いたけど、だから田舎に帰った時にあのいじめっ子キツネに謝罪させたのか…なるほど…)
ジュディがバッチを取って帰省してた時間って劇中だとマジで5分に満たないと思うんだけど、その間で「実家に帰ってからの無為な時間(これが一番すごい)」「過去のいじめっ子キツネからの謝罪」「事件の手がかり及び矛盾点(「夜の遠吠え」の存在と、これの影響は肉食動物のみではないということ)」という重要要素がぎゅっと詰まってて鳥肌立った。
特に「無為な時間」の表現がすごくて、結局「実際の経過時間」とみてる側の「体感時間」の間には差があるんだけど、物語の間には「そしてしばらく後」を表現したい時がどうしてもある。これがないと、出来事が立て続けに起こって「なんか畳みかけるみたいに終わってしまった」という印象をあたえてしまう。スピード感を重視しているときはこれでいいんだけど、この場合、ジュディは自分の失言を反省して頭を冷やすクールダウンの「時間」が必要だった。それを実時間では「5分」で済ませているんだけど、あの「実家に帰って無為に過ごしました」という時間の体感は数日~数週間、もっと言っちゃえば数カ月くらいの時間の経過を「感じる」ことが出来た。この余白の時間というのは本当に大切で、これがあるから物語に「時間の厚み」が生まれるのだ。
あっ、それでそうか、ジュディが「いじめっ子キツネを許す」ということが、ニックがジュディの失言を「許す」ことに繋がってるんだ。過去の過ちはある、でもそれを「許す」ことが大切なんだって言ってるんだ。
副市長黒幕うううううう~!!!!!!お、おめえ~!!二日連続(ハンス君)でこんな裏切り見せられたら人間不信になるわ!
まったく意識してなかったから、今回もしてやられた…。あの、野生を取り戻させる毒薬作ってる工場にいるのが「羊」って言われるまで全く、疑いもしなかった。完全にズートピアを楽しんでしまった…。最高だぜ…。
副市長は途中まで捜査に協力的(カワウソ捜査に加わることを推進したり、監視カメラの映像を見せたり)なんだけど、あれはそうなんだよな。真の黒幕である副市長としては市長が「野性に目覚めた動物を監禁している」という失踪事件の「偽の真相」(「偽」というよりも真相の途中と言った方がいいか…)にまでは早く辿り着いてくれないと困るんだ。
市長の副市長に対する傲慢な態度もすべてはこの黒幕展開に繋がっていたんだな…。ライオンの市長はわりと市長としては立派に勤めていたと思うんだけど、成り行き上、監禁していたことは事実なのでたぶん、最後市長に戻ったとかじゃなくて普通に牢屋に入ったままだったぽいよな。ちょっと可哀想だな…。
「偽の真相に辿り着いての一件落着」→「ジュディの失言(真の真相が分かっていないための無知と偏見ゆえの発言)」→「コンビ解散、警官やめて田舎暮らし」→「ヒント、過去の清算を経て復帰」→「黒幕を暴いての真相解明」。美しい。流れが美しすぎて感動するわ…。
そう、物語そのもの、テーマや人物のやりとりにも感動するんだけど、こういう美しい物語構成にもすごい感動するんだよな…。キャラの上手い使い方とか、伏線の使い方とか…。
ズートピア、基本的に大満足なんだけど、一個だけジュディが駐禁の仕事をイヤがってるのは微妙なんだよな…。別にどんな仕事だって一生懸命やればいいと思うし、駐禁だって大事な仕事だと思う。「職業に貴賎なし」とは思うものの、ここは何らかの解釈の違いがあるのかもなあ。
(追記)
ジュディの駐禁のことずっと考えてたんだけど、あれは「駐禁がイヤ」というよりも「ウサギには駐禁くらいしかできないだろう」とナメられてたのがイヤだったんだろうなあ。きっと駐禁の仕事であっても劇中であったみたいに「君の耳を生かせる」とか言ってくれればちゃんとジュディも納得して勤務してくれたんだと思うな。 ふう〜、唯一引っかかってたところが解決してスッキリした。
最初(パッケージ)の印象で「がんばりウサギとニヒルなキツネのバディもの」なのかな、と思ってたんだけど(その要素もあるんだけど)、それだけにとどまらない、さまざまな要素が詰まった作品だった。しかも、その要素が全部複雑に絡み合ってるのに総合的に味わうと「おいしい」になってて、高級ホテルのソースみたいな仕上がりになってた。
バディものの味だってするし、がんばりジュディの女性活躍奮闘ものの味もするし、偏見や差別などの社会問題の味もする。色んな味がするんだ、この映画…。
「アナ」を昨日見たのでどうしてもいろいろ比較して見てしまうんだけど、「アナ」は登場人物を絞りまくって展開をシンプルにしてたのとは逆に、ズートピアはいろいろな人物、場面が登場する。これはもちろん意図的で、ズートピアにはいろいろな動物たちが居て生活している、という世界観の説明も兼ねているんだ。「アナ」は基本的に人間しか登場しないのでこれをやる必要がない。だから人物は絞る。絞った方が貴重な時間を特定の人物にそそぐことが出来るからだ。いろいろなエリア、動物を見るのは楽しくてワクワクする。氷に閉ざされたアナは割と画面的には不利な状況で戦っていたんだな、ということが分かる。
「Try Everything」もいい。これこそ、本当に応援歌というかポジティブが詰まった歌だなと思う。上手く行かないことばかりだけど、失敗することもあるけど、それでも頑張っていこうと明るく歌い上げるのがいい。でも、日本語訳は「TRY」が「やるのよ」になってて、聞くたびに「わかるわ」って言ってる川島さんの顔が浮かんで来てしょうがない。
肉食(大型)動物たちの偏見(チビなウサギに警官はムリ)に晒されてきたジュディも、肉食動物たちに対して本能的には襲おうとしてるのではないかという「偏見」を晒してしまうあの会見は歌の中にあるような「失敗」なんだけど、あれは強烈だった。これまで偏見に憤っていたジュディの怒りが自分自身に帰ってくるという強烈なカウンター。パートナーのニックを失うほどの破壊力。
展開上、キャラに「やらかし」をさせたい時というのはあるんだけど、あの会見は意図的な「やらかし」には全然見えなかった。実際にジュディは子供の頃に暴れキツネに暴力を振るわれているわけだし。(というところまで書いて気が付いたけど、だから田舎に帰った時にあのいじめっ子キツネに謝罪させたのか…なるほど…)
ジュディがバッチを取って帰省してた時間って劇中だとマジで5分に満たないと思うんだけど、その間で「実家に帰ってからの無為な時間(これが一番すごい)」「過去のいじめっ子キツネからの謝罪」「事件の手がかり及び矛盾点(「夜の遠吠え」の存在と、これの影響は肉食動物のみではないということ)」という重要要素がぎゅっと詰まってて鳥肌立った。
特に「無為な時間」の表現がすごくて、結局「実際の経過時間」とみてる側の「体感時間」の間には差があるんだけど、物語の間には「そしてしばらく後」を表現したい時がどうしてもある。これがないと、出来事が立て続けに起こって「なんか畳みかけるみたいに終わってしまった」という印象をあたえてしまう。スピード感を重視しているときはこれでいいんだけど、この場合、ジュディは自分の失言を反省して頭を冷やすクールダウンの「時間」が必要だった。それを実時間では「5分」で済ませているんだけど、あの「実家に帰って無為に過ごしました」という時間の体感は数日~数週間、もっと言っちゃえば数カ月くらいの時間の経過を「感じる」ことが出来た。この余白の時間というのは本当に大切で、これがあるから物語に「時間の厚み」が生まれるのだ。
あっ、それでそうか、ジュディが「いじめっ子キツネを許す」ということが、ニックがジュディの失言を「許す」ことに繋がってるんだ。過去の過ちはある、でもそれを「許す」ことが大切なんだって言ってるんだ。
副市長黒幕うううううう~!!!!!!お、おめえ~!!二日連続(ハンス君)でこんな裏切り見せられたら人間不信になるわ!
まったく意識してなかったから、今回もしてやられた…。あの、野生を取り戻させる毒薬作ってる工場にいるのが「羊」って言われるまで全く、疑いもしなかった。完全にズートピアを楽しんでしまった…。最高だぜ…。
副市長は途中まで捜査に協力的(カワウソ捜査に加わることを推進したり、監視カメラの映像を見せたり)なんだけど、あれはそうなんだよな。真の黒幕である副市長としては市長が「野性に目覚めた動物を監禁している」という失踪事件の「偽の真相」(「偽」というよりも真相の途中と言った方がいいか…)にまでは早く辿り着いてくれないと困るんだ。
市長の副市長に対する傲慢な態度もすべてはこの黒幕展開に繋がっていたんだな…。ライオンの市長はわりと市長としては立派に勤めていたと思うんだけど、成り行き上、監禁していたことは事実なのでたぶん、最後市長に戻ったとかじゃなくて普通に牢屋に入ったままだったぽいよな。ちょっと可哀想だな…。
「偽の真相に辿り着いての一件落着」→「ジュディの失言(真の真相が分かっていないための無知と偏見ゆえの発言)」→「コンビ解散、警官やめて田舎暮らし」→「ヒント、過去の清算を経て復帰」→「黒幕を暴いての真相解明」。美しい。流れが美しすぎて感動するわ…。
そう、物語そのもの、テーマや人物のやりとりにも感動するんだけど、こういう美しい物語構成にもすごい感動するんだよな…。キャラの上手い使い方とか、伏線の使い方とか…。
ズートピア、基本的に大満足なんだけど、一個だけジュディが駐禁の仕事をイヤがってるのは微妙なんだよな…。別にどんな仕事だって一生懸命やればいいと思うし、駐禁だって大事な仕事だと思う。「職業に貴賎なし」とは思うものの、ここは何らかの解釈の違いがあるのかもなあ。
(追記)
ジュディの駐禁のことずっと考えてたんだけど、あれは「駐禁がイヤ」というよりも「ウサギには駐禁くらいしかできないだろう」とナメられてたのがイヤだったんだろうなあ。きっと駐禁の仕事であっても劇中であったみたいに「君の耳を生かせる」とか言ってくれればちゃんとジュディも納得して勤務してくれたんだと思うな。 ふう〜、唯一引っかかってたところが解決してスッキリした。
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