2020 |
08,10 |
そうね、この映画に関して感想を書くにはまず自分の状況を書いておかないといけないと思う。
まず、旧作のブロリー映画見てなくて、ブロリーっていうなんかスゴイ奴がいるっていう事だけは知ってる。あと、ブロリーこそが本当の「伝説の超サイヤ人」というのは風のウワサで聞いた。「ドラゴンボール超」もほぼ見てない。なので、超サイヤ人の赤くなったり青くなったりするやつが良く分かってない感じで、なんならウイスやビルスに関しても良く分かってない。フリーザがなんかの大会要員で生き返ったのもなんとなく聞いてた。漫画はめちゃくちゃ読んでいた。
こういう状況の人間の感想という事でご了承下さい。
さて、この映画はぶっちゃけ過去作に居た人気キャラのブロリーと現代の設定で強くなった悟空たちが戦う所が見たい…見たくない…?というコンセプトで作られているので悟空たちとブロリーがバチバチに戦闘してる所が見れればストーリーはよそに置いておいて大抵満足、という感じなのだと思う。
その割に前半のおぜん立てパートとでも言うべき「ブロリーが地球に来るまで」がかなり丁寧に作られてて驚いた。はっきり言えば「宇宙船ポッドでなんか飛んできたブロリーが悟空たちと戦う」だけでもまあまあOKな映画なのである。それを真面目に筋立てすると、ブロリー、悟空たち、そこにフリーザも絡んできてかなり状況とドラマが複雑な印象を受ける。それを一つ一つ丁寧に描写して行く事で分かりやすく処理していたと思う。
とは言え、深く考えると例えばブロリーの因縁は「ベジータ王」に絡んでいるので本来なら悟空はおろかベジータすらブロリーとなんら関係なかったりする。それをめちゃくちゃ頑張って「ベジータが生まれたことでベジータ王に保身の心が芽生えてブロリーとバラガスが迫害される」というなんかこう…ベジータに因縁…ある…?あるかも…??レベルに持って行ってる。こういう気をつけないと一瞬で流れが破たんする地雷がいくつもあってストーリー構成はかなり大変だったんだろうな…という苦労が見える。
フリーザの願いは「身長を伸ばす」だったんだけど、ここで部下から「いや第二形態とか普通にデカいやん…」というツッコミを入れるところとか、何だかんだブロリーを地球に連れてきた落とし前としてフュージョン待ちの一時間の間ブロリーにタコ殴りにされ続けるという「おしおき」もフリーザは受けてたりしてストーリー上の違和感をなるべく消そうという丁寧な仕事ぶりが伺える。
惑星ベジータ崩壊前のバーダックの描写とか、惑星ベジータが壊れた後の若き日のナッパ、ラディッツ、ベジータのやりとりもファンには嬉しい。
いや、ほんとラディッツって惜しいキャラなんだよな。悟空の兄貴という恵まれた経歴からは考えられないような不遇。もちろん初登場時、悟空とピッコロが手を組んでなお圧倒するというZ時代の戦闘力インフレの先陣というインパクトはあるんだけど、生き返ってその後もパワーアップを繰り返していればベジータのポジションを食ってた可能性すらあると思う。
ファンサービスと言えばさっきのフリーザの身長を伸ばすという願いも多分レッド総帥のパロだし、フュージョン前のデブ→ガリ→完成の流れもお約束でファンがニヤリとできる要素がいくつもあってよかった。
ただ、久しぶりにドラゴンボールの映画を見て改めて思ったんだけど最初から本気にならないの、あれはなんなんだろうね。最初のブロリーVSベジータでベジータが通常→超サイヤ人→赤い超サイヤ人ってギアを上げていくのはギリギリ分かるとして、赤い超サイヤ人状態で戦っていたベジータとバトンタッチ(ここで素直に引くベジータにもビックリしたけど)した後に、悟空が通常状態でブロリーと戦いだして「それは流石に無理だろう…」と思ってしまった。
せめて赤い超サイヤ人状態でバトンタッチしても良かったのではないだろうか。超サイヤ人と通常の間には10倍だか100倍だかの差がある訳なので下手したらパンチ一発で消し炭になってしまう可能性もある。(にも関わらず雰囲気でそこそこ戦えてしまうのも問題がある)
とはいえ、基本的に不意打ちとだまし討ち、初見殺しが基本の能力バトルに慣れた現代ジャンプっ子にとって純粋なパワーとパワーがぶつかり合う展開は見ていて爽快感がある。これは鬱屈しがちな能力バトルにはない魅力だと思う。劇場クオリティの超作画も相まって「ブロリーと悟空たちの超バトルが見たい」という欲求には100%、120%応えているのでこの映画が好評だったのも頷ける。
最終的にブロリーと同じ映画発祥キャラであるゴジータで戦う所もニクイ。あとフリーザが悟空と再戦する事を考えた時に悟空・ベジータを相手取ると2-1になってしまうからあともう一人味方が欲しいって言ってたのもよかった。ブロリーの因縁は(頑張れば)ベジータに結びつくので悟空とフリーザ、ベジータとブロリーという構図はなかなか熱い。
最後の最後にチライが悟空に「あんたおかしいよ」という指摘をしてくれたのも良かった。いやほんと、ドラゴンボールから距離を置いて初めて認識出る。悟空おかしいんだよな。マジで普通に戦闘狂の類。
まず、旧作のブロリー映画見てなくて、ブロリーっていうなんかスゴイ奴がいるっていう事だけは知ってる。あと、ブロリーこそが本当の「伝説の超サイヤ人」というのは風のウワサで聞いた。「ドラゴンボール超」もほぼ見てない。なので、超サイヤ人の赤くなったり青くなったりするやつが良く分かってない感じで、なんならウイスやビルスに関しても良く分かってない。フリーザがなんかの大会要員で生き返ったのもなんとなく聞いてた。漫画はめちゃくちゃ読んでいた。
こういう状況の人間の感想という事でご了承下さい。
さて、この映画はぶっちゃけ過去作に居た人気キャラのブロリーと現代の設定で強くなった悟空たちが戦う所が見たい…見たくない…?というコンセプトで作られているので悟空たちとブロリーがバチバチに戦闘してる所が見れればストーリーはよそに置いておいて大抵満足、という感じなのだと思う。
その割に前半のおぜん立てパートとでも言うべき「ブロリーが地球に来るまで」がかなり丁寧に作られてて驚いた。はっきり言えば「宇宙船ポッドでなんか飛んできたブロリーが悟空たちと戦う」だけでもまあまあOKな映画なのである。それを真面目に筋立てすると、ブロリー、悟空たち、そこにフリーザも絡んできてかなり状況とドラマが複雑な印象を受ける。それを一つ一つ丁寧に描写して行く事で分かりやすく処理していたと思う。
とは言え、深く考えると例えばブロリーの因縁は「ベジータ王」に絡んでいるので本来なら悟空はおろかベジータすらブロリーとなんら関係なかったりする。それをめちゃくちゃ頑張って「ベジータが生まれたことでベジータ王に保身の心が芽生えてブロリーとバラガスが迫害される」というなんかこう…ベジータに因縁…ある…?あるかも…??レベルに持って行ってる。こういう気をつけないと一瞬で流れが破たんする地雷がいくつもあってストーリー構成はかなり大変だったんだろうな…という苦労が見える。
フリーザの願いは「身長を伸ばす」だったんだけど、ここで部下から「いや第二形態とか普通にデカいやん…」というツッコミを入れるところとか、何だかんだブロリーを地球に連れてきた落とし前としてフュージョン待ちの一時間の間ブロリーにタコ殴りにされ続けるという「おしおき」もフリーザは受けてたりしてストーリー上の違和感をなるべく消そうという丁寧な仕事ぶりが伺える。
惑星ベジータ崩壊前のバーダックの描写とか、惑星ベジータが壊れた後の若き日のナッパ、ラディッツ、ベジータのやりとりもファンには嬉しい。
いや、ほんとラディッツって惜しいキャラなんだよな。悟空の兄貴という恵まれた経歴からは考えられないような不遇。もちろん初登場時、悟空とピッコロが手を組んでなお圧倒するというZ時代の戦闘力インフレの先陣というインパクトはあるんだけど、生き返ってその後もパワーアップを繰り返していればベジータのポジションを食ってた可能性すらあると思う。
ファンサービスと言えばさっきのフリーザの身長を伸ばすという願いも多分レッド総帥のパロだし、フュージョン前のデブ→ガリ→完成の流れもお約束でファンがニヤリとできる要素がいくつもあってよかった。
ただ、久しぶりにドラゴンボールの映画を見て改めて思ったんだけど最初から本気にならないの、あれはなんなんだろうね。最初のブロリーVSベジータでベジータが通常→超サイヤ人→赤い超サイヤ人ってギアを上げていくのはギリギリ分かるとして、赤い超サイヤ人状態で戦っていたベジータとバトンタッチ(ここで素直に引くベジータにもビックリしたけど)した後に、悟空が通常状態でブロリーと戦いだして「それは流石に無理だろう…」と思ってしまった。
せめて赤い超サイヤ人状態でバトンタッチしても良かったのではないだろうか。超サイヤ人と通常の間には10倍だか100倍だかの差がある訳なので下手したらパンチ一発で消し炭になってしまう可能性もある。(にも関わらず雰囲気でそこそこ戦えてしまうのも問題がある)
とはいえ、基本的に不意打ちとだまし討ち、初見殺しが基本の能力バトルに慣れた現代ジャンプっ子にとって純粋なパワーとパワーがぶつかり合う展開は見ていて爽快感がある。これは鬱屈しがちな能力バトルにはない魅力だと思う。劇場クオリティの超作画も相まって「ブロリーと悟空たちの超バトルが見たい」という欲求には100%、120%応えているのでこの映画が好評だったのも頷ける。
最終的にブロリーと同じ映画発祥キャラであるゴジータで戦う所もニクイ。あとフリーザが悟空と再戦する事を考えた時に悟空・ベジータを相手取ると2-1になってしまうからあともう一人味方が欲しいって言ってたのもよかった。ブロリーの因縁は(頑張れば)ベジータに結びつくので悟空とフリーザ、ベジータとブロリーという構図はなかなか熱い。
最後の最後にチライが悟空に「あんたおかしいよ」という指摘をしてくれたのも良かった。いやほんと、ドラゴンボールから距離を置いて初めて認識出る。悟空おかしいんだよな。マジで普通に戦闘狂の類。
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2020 |
02,08 |
この映画を2020年に見るにあたって、意識しなければならないのは公開が2001年、つまり20年以上前のことだ、ということだろう。冒頭から始まるインターネット掲示板の書き込みに一種の「アングラ感」が残っていた時代だ。リアルで追い詰められている雄一が「自分を出せる」と思っている場所もまた「閉塞感」のある場所なのだ。描写として取り上げられている援助交際や校内での激しいいじめなどが社会現象として本格的に取り上げられていた時代でもあったと思う。今見ると懐かしささえ感じる描写も当時としてはかなり最先端だったと思われる。
それこそ、思春期時代にこれを見たら「他人ごと」とは思えないようなリアルさを感じられたのではないかと思う。もちろん描写としては映画的なデフォルメが行われているので身近で殺人や自殺あったとはではなく、そういう息苦しさは感じられるのではないだろうか。
そういった時代的な要素は排除するとして、この作品のコアは何かというと現実で追い詰められている雄一が歌(創作)を拠り所にし、それを破壊するもの(星野)を許さなかったということだと思う。
星野によるリリイ・シュシュの「破壊」は「CD」と「ライブチケット」の二回行われている。ライブチケットの時は「CD」とは違い、雄一は掲示板「リリフィリア」で得たと思っていた理解者「青猫」をも同時に失っている。理解者だと思っていた「青猫」は自分を追いつめている星野であり、さらに星野はリリイ・シュシュの「破壊者」だった。二度と同じ時間が手に入らない「ライブ」をも破壊された雄一はそれを許すことが出来なかった。
それは、自分を少し頼ってくれた女の子(津田)が自殺しても、自分にリリイ・シュシュを教えてくれた女の子(久野)が強姦されても燃え上がらなかった激情を焚き付けるには十分だった。つまり、二人の女の子よりも、雄一にとっては「リリイ・シュシュ」が上位の存在だったということだ。
「リリイ・シュシュのすべて」が誰をターゲットに作成されたのかは良く分からないけれど、こういう青春邦画を見るような層よりも、「創作を拠り所にしている」という点ではむしろオタク視点の方がストーリーに入りやすいのではないかと思う。
ただ、ラスト、星野という障害を取り除いた雄一は髪を染めて髪を失った久野と改めて向き合う事になるが、彼はきっともう「リリイ・シュシュ」を聞いていないと思う。「拠り所」を必要としなくなったのだろう。いつまでも創作にズブズブ埋まってるオタクとはやっぱりそこが違うんだなと思った。
余談だけど、「リリイ・シュシュ」がチャート一位を獲得するようなメジャー歌手なのはちょっと違う気がするんだよなあ。こういう思春期時代にカルト的にはまるとしたらもっとインディーズの音楽とは洋楽とか「俺だけが分かってる」感のある歌手だと思うんだけどね。
それこそ、思春期時代にこれを見たら「他人ごと」とは思えないようなリアルさを感じられたのではないかと思う。もちろん描写としては映画的なデフォルメが行われているので身近で殺人や自殺あったとはではなく、そういう息苦しさは感じられるのではないだろうか。
そういった時代的な要素は排除するとして、この作品のコアは何かというと現実で追い詰められている雄一が歌(創作)を拠り所にし、それを破壊するもの(星野)を許さなかったということだと思う。
星野によるリリイ・シュシュの「破壊」は「CD」と「ライブチケット」の二回行われている。ライブチケットの時は「CD」とは違い、雄一は掲示板「リリフィリア」で得たと思っていた理解者「青猫」をも同時に失っている。理解者だと思っていた「青猫」は自分を追いつめている星野であり、さらに星野はリリイ・シュシュの「破壊者」だった。二度と同じ時間が手に入らない「ライブ」をも破壊された雄一はそれを許すことが出来なかった。
それは、自分を少し頼ってくれた女の子(津田)が自殺しても、自分にリリイ・シュシュを教えてくれた女の子(久野)が強姦されても燃え上がらなかった激情を焚き付けるには十分だった。つまり、二人の女の子よりも、雄一にとっては「リリイ・シュシュ」が上位の存在だったということだ。
「リリイ・シュシュのすべて」が誰をターゲットに作成されたのかは良く分からないけれど、こういう青春邦画を見るような層よりも、「創作を拠り所にしている」という点ではむしろオタク視点の方がストーリーに入りやすいのではないかと思う。
ただ、ラスト、星野という障害を取り除いた雄一は髪を染めて髪を失った久野と改めて向き合う事になるが、彼はきっともう「リリイ・シュシュ」を聞いていないと思う。「拠り所」を必要としなくなったのだろう。いつまでも創作にズブズブ埋まってるオタクとはやっぱりそこが違うんだなと思った。
余談だけど、「リリイ・シュシュ」がチャート一位を獲得するようなメジャー歌手なのはちょっと違う気がするんだよなあ。こういう思春期時代にカルト的にはまるとしたらもっとインディーズの音楽とは洋楽とか「俺だけが分かってる」感のある歌手だと思うんだけどね。
2020 |
01,19 |
いかつい掃除屋(殺し屋)と少女の映画。設定だけ見るとそのままオタク向けにしてもいけるような気がする。
うーーーーん。はっきり言うとマチルダは可愛かった。ロリコン目線で言うならシャツ越しの膨らみかけの胸には言及せざるを得ない。あれを大画面で映しちゃったの??すごい時代である。
ただ、レオンがマチルダに銃の取り扱いをさせたり、タバコを厳格に辞めさせなかったり、お遊びの様に掃除の現場に連れて行く「甘さ」が私の趣味と合わなかった。子供を巻き込まないなら完全にシャットアウトして欲しいし、本当に鍛えるつもりならスタンスフィールドは彼女がやるべきだった。このどっちつかずな曖昧な空気が好きな人もいるとは思うけど、イマイチ乗る事が出来なかった。
ストーリーの大枠はめちゃくちゃ単純なので、レオンとマチルダの奇妙な日常の様子をなんの憂いも無く楽しめればシチュエーションムービーとしては良かったと思う。暗殺シーンも時間をかけてたっぷりと楽しむ(?)事が出来る。最初の仕事シーンはぶっちゃけ「レオンがスゴイ」という事を伝えるだけの役割しかないわりにかなり時間を贅沢に使っていた。アクションは激しいものの、ゆったりな気分で見るにはちょうどいい映画なのかもしれない。
マチルダの復讐の理由が「弟のため」なのはかなり上手かったと思う。なにせ見てる側にとってマチルダの弟なんて画面に映っていたのはほんの数分程度で、どちらかと言えば他の家族、マチルダと不仲だったメンバーの方が印象に残っている。ただ、家族の不仲さを強調すればするほど、その中で幼い弟がマチルダの心の支えであったという事実が浮かび上がってきて彼女の復讐心の補強をしている、という構図になっていた。描かない事で視聴者の想像力に補強させる上手い手だった。
そんなら家族みんな仲良しにして「家族の復讐」にした方が良いような気もするが、そうなると今度は今回の発端である「麻薬」に「善良な家族」が手を出していた事になってしまうので、具合が悪い。「弟以外が悪人」である必要があったのだ。(そんなら「麻薬」の要素を別に置き換えれば良い気もするけど…)
気になるのは話運びや設定の唐突さ。マチルダがスタンスフィールドに勝算もないのに急に特攻しだすし、スタンスフィールドは何の権限があるのか(刑事ではあるけど)、最終戦に人呼び過ぎだし、重火器ぶっぱなすしあの物量作戦が大仰すぎて気分としては引いてしまった。いくらなんでもやりすぎだろう。「掃除屋」という影の仕事なんだからもっとひっそりとしたシチュエーションの方が映えたのでないだろうか。
レオンがきっちり死んだのはよかった。なんだかんだマチルダは手を汚さなかった(片目を開けて寝ることはない)ので、最後に学校に戻る事が出来た。
しかし、今度から少女の肢体について語る時に「「レオン」見たことある?」と聞くのは常套句になってしまいそうである。
うーーーーん。はっきり言うとマチルダは可愛かった。ロリコン目線で言うならシャツ越しの膨らみかけの胸には言及せざるを得ない。あれを大画面で映しちゃったの??すごい時代である。
ただ、レオンがマチルダに銃の取り扱いをさせたり、タバコを厳格に辞めさせなかったり、お遊びの様に掃除の現場に連れて行く「甘さ」が私の趣味と合わなかった。子供を巻き込まないなら完全にシャットアウトして欲しいし、本当に鍛えるつもりならスタンスフィールドは彼女がやるべきだった。このどっちつかずな曖昧な空気が好きな人もいるとは思うけど、イマイチ乗る事が出来なかった。
ストーリーの大枠はめちゃくちゃ単純なので、レオンとマチルダの奇妙な日常の様子をなんの憂いも無く楽しめればシチュエーションムービーとしては良かったと思う。暗殺シーンも時間をかけてたっぷりと楽しむ(?)事が出来る。最初の仕事シーンはぶっちゃけ「レオンがスゴイ」という事を伝えるだけの役割しかないわりにかなり時間を贅沢に使っていた。アクションは激しいものの、ゆったりな気分で見るにはちょうどいい映画なのかもしれない。
マチルダの復讐の理由が「弟のため」なのはかなり上手かったと思う。なにせ見てる側にとってマチルダの弟なんて画面に映っていたのはほんの数分程度で、どちらかと言えば他の家族、マチルダと不仲だったメンバーの方が印象に残っている。ただ、家族の不仲さを強調すればするほど、その中で幼い弟がマチルダの心の支えであったという事実が浮かび上がってきて彼女の復讐心の補強をしている、という構図になっていた。描かない事で視聴者の想像力に補強させる上手い手だった。
そんなら家族みんな仲良しにして「家族の復讐」にした方が良いような気もするが、そうなると今度は今回の発端である「麻薬」に「善良な家族」が手を出していた事になってしまうので、具合が悪い。「弟以外が悪人」である必要があったのだ。(そんなら「麻薬」の要素を別に置き換えれば良い気もするけど…)
気になるのは話運びや設定の唐突さ。マチルダがスタンスフィールドに勝算もないのに急に特攻しだすし、スタンスフィールドは何の権限があるのか(刑事ではあるけど)、最終戦に人呼び過ぎだし、重火器ぶっぱなすしあの物量作戦が大仰すぎて気分としては引いてしまった。いくらなんでもやりすぎだろう。「掃除屋」という影の仕事なんだからもっとひっそりとしたシチュエーションの方が映えたのでないだろうか。
レオンがきっちり死んだのはよかった。なんだかんだマチルダは手を汚さなかった(片目を開けて寝ることはない)ので、最後に学校に戻る事が出来た。
しかし、今度から少女の肢体について語る時に「「レオン」見たことある?」と聞くのは常套句になってしまいそうである。
2020 |
01,13 |
タイトルだけなら誰でも知っている現在の「ヤクザ」のイメージのステレオタイプとなった作品なので、一度通して見たいなと思ってたんだけど、初代シリーズだけで5本あるためなかなか腰を上げることが出来なかったのだけど、ようやく通して見ることが出来た。
「実録」という事もあり、物語の構成ととしてはかなり歪というかはっきり言うとストーリーのお約束が全く通用しない。広能が町のチンピラ(にすらもなってない風来坊?)からヤクザの道に入り、のし上がっていくまではともかく山守組で幹部となってからのほとんどの物語の発端は親分(そういえば、「親分」というのは「兄弟分」と一緒で親の分、つまり親↑分↓のはずなんだけど、親↓分↓って発音するのもおかしい気もするけど、もう単語になっちゃってるんだろうね)山守義雄がまさに「仁義」のない、自分の事しか考えず、都合の悪い時だけ泣き落としする最悪の人物であるために発生しているのであって、物語として締めるためには当然、主人公広能によって山守が倒されなければ「ならない」はずなんだけど、結局、山守は一時期の逮捕はあったものの完結編では出所し最後までのうのうと暮していた。カタルシスの開放なく終わって行ったのでここはなかなかすごい。同じようにずる賢く上手い事世渡りをしていた槙原は最後の最後で殺されているだけに余計に山守の「一人勝ち」感が半端じゃない。
初期の戦後の混乱期、広能はヤクザの道に入ったのだけど最初に広能が持っていた能力は殺人を躊躇なく実行する「度胸」だけと言ってしまえばそれだけだった。それでも最初はのし上がる事が出来た。時代が下り、昔の広能のような「度胸だけ」の若者が次々と利用され、犠牲になっていく様は「時代が変わった」という事もあるけど、やはりどんな社会、市場、組織でも「最初に来た奴が強い」のは変わらないということだろう。
個人的に一番好きな「代理戦争」の図式(神戸の神和会と明石組の勢力争いが山守組の内部抗争のそれぞれの後ろ盾となる図)もアメリカとソ連、ロシアが延々と繰り返してきた事と全く同じで、どの時代にも通じる真理が描かれている作品であると思う。
流血のシーンや過激なシーンは確かに多いんだけど、「仁義」の場合、冒頭でいきなりアメリカ兵がレイプしてるわ、日本刀で腕がぶった切られて血が噴き出るシーンが出てくるわで一作目が一番過激な気がする。あと嘔吐のシーンも妙にリアリティがあるので、あれはマジなんじゃないかと思う。なんというかシリーズを重ねると前作よりも過激なシーンを入れないといけないみたな強迫観念が生まれやすい中で、流血シーンがエスカレートしなかったのは誰かが抑えていたのかなと思った。
大友勝利は第二部の時だけでも強烈なキャラクター性を発揮していたんだけど、「完結編」での再登場時、時代が変わってきていてものすごい空回りをしてるのも印象深い。大友自身の気質は変わっていないにも関わらず、第二部の時のギラつきが全く受け入れられなくなってしまっているのだ。時の流れの残酷さを感じる。その時その時に輝くキャラクター性というものがあるのだろう。本人の気質と時代があうかどうかは完全に運だ。
あと、今だとヤクザで真っ先にイメージに上がる「黒服」がほとんど登場しない。なんというか、権力があり、豪邸があり、「黒服」の舎弟が固めてるというあのイメージはどこから来ているんだろう。「杯」や「兄弟分」などの組織的なつながりは確かに描かれているのだけど、このビジュアルイメージは仁義なき戦いには一切ない。ただ、本当にキャラが殺されまくる上に律儀に葬式シーンが延々と描かれるので、舞台の3割は葬式会場なんじゃないかと思うほど葬式シーンが多い。そうなると確かにみんな黒服(袴も居るけど)で出てくるので、もしかしてこれが黒服のイメージの原型なのかもなあと思った。
「実録」という事もあり、物語の構成ととしてはかなり歪というかはっきり言うとストーリーのお約束が全く通用しない。広能が町のチンピラ(にすらもなってない風来坊?)からヤクザの道に入り、のし上がっていくまではともかく山守組で幹部となってからのほとんどの物語の発端は親分(そういえば、「親分」というのは「兄弟分」と一緒で親の分、つまり親↑分↓のはずなんだけど、親↓分↓って発音するのもおかしい気もするけど、もう単語になっちゃってるんだろうね)山守義雄がまさに「仁義」のない、自分の事しか考えず、都合の悪い時だけ泣き落としする最悪の人物であるために発生しているのであって、物語として締めるためには当然、主人公広能によって山守が倒されなければ「ならない」はずなんだけど、結局、山守は一時期の逮捕はあったものの完結編では出所し最後までのうのうと暮していた。カタルシスの開放なく終わって行ったのでここはなかなかすごい。同じようにずる賢く上手い事世渡りをしていた槙原は最後の最後で殺されているだけに余計に山守の「一人勝ち」感が半端じゃない。
初期の戦後の混乱期、広能はヤクザの道に入ったのだけど最初に広能が持っていた能力は殺人を躊躇なく実行する「度胸」だけと言ってしまえばそれだけだった。それでも最初はのし上がる事が出来た。時代が下り、昔の広能のような「度胸だけ」の若者が次々と利用され、犠牲になっていく様は「時代が変わった」という事もあるけど、やはりどんな社会、市場、組織でも「最初に来た奴が強い」のは変わらないということだろう。
個人的に一番好きな「代理戦争」の図式(神戸の神和会と明石組の勢力争いが山守組の内部抗争のそれぞれの後ろ盾となる図)もアメリカとソ連、ロシアが延々と繰り返してきた事と全く同じで、どの時代にも通じる真理が描かれている作品であると思う。
流血のシーンや過激なシーンは確かに多いんだけど、「仁義」の場合、冒頭でいきなりアメリカ兵がレイプしてるわ、日本刀で腕がぶった切られて血が噴き出るシーンが出てくるわで一作目が一番過激な気がする。あと嘔吐のシーンも妙にリアリティがあるので、あれはマジなんじゃないかと思う。なんというかシリーズを重ねると前作よりも過激なシーンを入れないといけないみたな強迫観念が生まれやすい中で、流血シーンがエスカレートしなかったのは誰かが抑えていたのかなと思った。
大友勝利は第二部の時だけでも強烈なキャラクター性を発揮していたんだけど、「完結編」での再登場時、時代が変わってきていてものすごい空回りをしてるのも印象深い。大友自身の気質は変わっていないにも関わらず、第二部の時のギラつきが全く受け入れられなくなってしまっているのだ。時の流れの残酷さを感じる。その時その時に輝くキャラクター性というものがあるのだろう。本人の気質と時代があうかどうかは完全に運だ。
あと、今だとヤクザで真っ先にイメージに上がる「黒服」がほとんど登場しない。なんというか、権力があり、豪邸があり、「黒服」の舎弟が固めてるというあのイメージはどこから来ているんだろう。「杯」や「兄弟分」などの組織的なつながりは確かに描かれているのだけど、このビジュアルイメージは仁義なき戦いには一切ない。ただ、本当にキャラが殺されまくる上に律儀に葬式シーンが延々と描かれるので、舞台の3割は葬式会場なんじゃないかと思うほど葬式シーンが多い。そうなると確かにみんな黒服(袴も居るけど)で出てくるので、もしかしてこれが黒服のイメージの原型なのかもなあと思った。
2020 |
01,05 |
正直に言うと見ようとしたきっかけは「ポプテピピックのパロを見たから」だ。もちろん、名前は知っていてそのうちに…とは思ってたんだけど優先順位が上がったのは間違いなくあのパロのせいだと思う。まあ、見るきっかけはどうでもいいのだ。
シルヴェスター・スタローンの肉体美は言うに及ばず、痛みを伴うような迫真のアクション、緊張感のある爆発、炎上シーンなどCGにはない「味」が間違いなくある。スタローンが崖からの落下シーンでマジで肋骨を四カ所折って次のロッキー3の撮影が遅れたとかいう武勇伝も「すげえな」と思うけど、だからといっていまのCGを否定するものではない。この時はそれを「必要に迫られていた」からやっただけで、現代でそれを再現しても「ただの趣味」であり、この「それしかない」という追い詰められたゆえの選択から出る味はやはり出ないと思う。
派手なアクションとは裏腹、この映画の本質は「ベトナム帰還兵」という社会問題を取り上げている。ランボーは超人的なサバイバル技術を持っているものの、あくまで生身の人間である。傷付けば血が流れ(自分で縫ってたけど…)、炭鉱でネズミに襲われて苦戦し、そしてベトナムでのトラウマで深く心に傷を負っている。この映画の中で誰よりも強く、そして弱っているのはランボーなのだ。
街では保安官としての「力」を持っているティーズルが「おれが法だ」と言っていたのが森の中で力(ゲリラ戦)を持つランボーが「おれが法だ」と言い返すシーンがいい。法とは結局「力」を持ったものの方便に過ぎないのだ。
超人的に描けば描くほど、トラウトマン大佐の無線にだけは反応したりする人間らしい反応が際立つ。最後の最後、追い詰められて心情を吐露するシーンでそれは最高潮に達する。ランボーを寡黙なキャラにしたのも、最後の大爆発のための伏線だろう。それどころか彼はもしかしたら戦争に行く前は饒舌で、友人とも冗談を言い合うようなごく普通の青年だったのかもしれない。そんな想像の余地も残している。
シルヴェスター・スタローンの肉体美は言うに及ばず、痛みを伴うような迫真のアクション、緊張感のある爆発、炎上シーンなどCGにはない「味」が間違いなくある。スタローンが崖からの落下シーンでマジで肋骨を四カ所折って次のロッキー3の撮影が遅れたとかいう武勇伝も「すげえな」と思うけど、だからといっていまのCGを否定するものではない。この時はそれを「必要に迫られていた」からやっただけで、現代でそれを再現しても「ただの趣味」であり、この「それしかない」という追い詰められたゆえの選択から出る味はやはり出ないと思う。
派手なアクションとは裏腹、この映画の本質は「ベトナム帰還兵」という社会問題を取り上げている。ランボーは超人的なサバイバル技術を持っているものの、あくまで生身の人間である。傷付けば血が流れ(自分で縫ってたけど…)、炭鉱でネズミに襲われて苦戦し、そしてベトナムでのトラウマで深く心に傷を負っている。この映画の中で誰よりも強く、そして弱っているのはランボーなのだ。
街では保安官としての「力」を持っているティーズルが「おれが法だ」と言っていたのが森の中で力(ゲリラ戦)を持つランボーが「おれが法だ」と言い返すシーンがいい。法とは結局「力」を持ったものの方便に過ぎないのだ。
超人的に描けば描くほど、トラウトマン大佐の無線にだけは反応したりする人間らしい反応が際立つ。最後の最後、追い詰められて心情を吐露するシーンでそれは最高潮に達する。ランボーを寡黙なキャラにしたのも、最後の大爆発のための伏線だろう。それどころか彼はもしかしたら戦争に行く前は饒舌で、友人とも冗談を言い合うようなごく普通の青年だったのかもしれない。そんな想像の余地も残している。
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