2019 |
01,02 |
2019年のはじまりはじまり。
去年は自分の中で「映画元年」と位置づけ、年間100本の映画を見ることを目標にしてみたのだけど、結局「42本」で幕を閉じてしまった。目標の半分以下なのは残念だけど、そもそも、一昨年は1本くらいしか見ていないので、40倍も見たことになる。初年度としてはまあまあ、頑張った方ではないだろうか。
今年も年間100本を目標に見ていきたいと思う。あと、去年は42本中邦画が「カメラを止めるな!」1本という偏りぶりだったので、邦画の履修も進めていきたい。クロサワ映画や……あと、「漫画実写モノ」も…一本くらい見てみようかな…という気持ちである。
そんな中で最初の一本目に選ばれたのが「リメンバー・ミー」だ。
いや~、これは本当に素晴らしかった…。他作品を上げるのもなんだけど、「シュガー・ラッシュ:オンライン」は本当になんだったんだ…と思う位のシナリオの練り具合。やっぱりピクサーのシナリオと言えばこうだよな…という仕上がり具合だった。
まず、冒頭なんだよ。家族の紹介、「死者の日」、ミゲルの夢、音楽禁止の掟…などなど、基本設定をボンボン投げてくるものの、それらが全て紐づけられているのでスルスルと頭に入ってくる。「先祖に音楽を取り家族を捨てた男が居た→そのため音楽は禁止→その家族が帰ってくる「死者の日」がある→ミゲルは禁止されているものの、音楽がやりたい。そのお披露目を「死者の日」のお祭りでやる」という具合だ。最重要設定であるママ・ココのボケの設定もここで説明される。
ママ・ココのボケは「ずーっと昔の先祖」の説明を合わせて「まあ、歳だからね…」という理解の裏に「死者の国」のルール、すなわち「生者の国(現世)で覚えている人間がいなくなると死者の国からも消えてしまう」ルールをすでに匂わせているのだ。すごすぎるよな。この自然な伏線がピクサーのシナリオだ。
ヘクターの正体隠蔽も完璧だ。最初、ミゲルの先祖の正体は写真を破られているため「不明」という事になっているが、そこかしこで伝説のミュージシャン「デラクルス」の話が出てくる。見てる側も「デラクルス」の事が気になってくるし、当然「先祖 = デラクルス」の図式が浮かんだところで、本編中でもそのように「ネタバラシ」されて話が展開していく。これが、最初から「先祖 = デラクルス」が提示されていたとしたら、見てる側はその図式そのものに疑いをかけるようになり、後に出てくるヘクターに対して「先祖 = ヘクター」という図式をもっと早く疑うようになったと思う。
しかし、「先祖 = デラクルス」は見てる側としても「そうだと思った」と一度「導いた答え」として固定され、なかなか崩すことが出来ない。しかもこれのメリットは「先祖 = デラクルス」の図式はミゲルの完全な思い込みであり、劇中のどこにもそんな証拠がないままに確定事項のようにストーリーを進めることが出来てしまう。そのため、「先祖 = ヘクター」の「真相」が発覚した後にもまったく矛盾が発生しないのである。
デラクルスが正体を現すことで、それまで詰まっていた全ての要素が好転するのもすごい。ヘクターは家族を捨てたわけではなく、戻ろうとした所でデラクルスに殺害されてしまった。その真相を知りイメルダは音楽を憎むのをやめ、ミゲルに音楽禁止を課すことなく生者の国への帰還を許し「リメンバー・ミー」によってママ・ココの記憶がよみがえり、ヘクターは消滅を免れる。ママ・ココの記憶が薄れていることと音楽禁止の設定がちゃんと結びついているのである。
そしてだ、そしてだよ!!!!そのママ・ココの記憶が復活したことで現世の人間たち(おそらくエレナ)にもヘクターの記憶が蘇った。いや、蘇ったというよりもヘクターの存在がタブーではなくなった。これによって、それまではママ・ココのみの記憶で支えられていた死者の国でのヘクターの存在が、ママ・ココが死んでしまった後でも維持されるようになり、ママ・ココとヘクター、イメルダが死者の国で再会することが出来たのだ。
現世ではデラクルスによって阻まれてしまった親子の再会がようやく実現したのだ。三人で歩くシーンはとても感想的だった。「リメンバー・ミー」とは、ただ心に留めておくだけではない。永遠に別れ離れになってしまう悲しい曲ではなく「いつか再会するときのために覚えておいてね」という意味なのだ。
少なくとも、私はそう解釈している。
去年は自分の中で「映画元年」と位置づけ、年間100本の映画を見ることを目標にしてみたのだけど、結局「42本」で幕を閉じてしまった。目標の半分以下なのは残念だけど、そもそも、一昨年は1本くらいしか見ていないので、40倍も見たことになる。初年度としてはまあまあ、頑張った方ではないだろうか。
今年も年間100本を目標に見ていきたいと思う。あと、去年は42本中邦画が「カメラを止めるな!」1本という偏りぶりだったので、邦画の履修も進めていきたい。クロサワ映画や……あと、「漫画実写モノ」も…一本くらい見てみようかな…という気持ちである。
そんな中で最初の一本目に選ばれたのが「リメンバー・ミー」だ。
いや~、これは本当に素晴らしかった…。他作品を上げるのもなんだけど、「シュガー・ラッシュ:オンライン」は本当になんだったんだ…と思う位のシナリオの練り具合。やっぱりピクサーのシナリオと言えばこうだよな…という仕上がり具合だった。
まず、冒頭なんだよ。家族の紹介、「死者の日」、ミゲルの夢、音楽禁止の掟…などなど、基本設定をボンボン投げてくるものの、それらが全て紐づけられているのでスルスルと頭に入ってくる。「先祖に音楽を取り家族を捨てた男が居た→そのため音楽は禁止→その家族が帰ってくる「死者の日」がある→ミゲルは禁止されているものの、音楽がやりたい。そのお披露目を「死者の日」のお祭りでやる」という具合だ。最重要設定であるママ・ココのボケの設定もここで説明される。
ママ・ココのボケは「ずーっと昔の先祖」の説明を合わせて「まあ、歳だからね…」という理解の裏に「死者の国」のルール、すなわち「生者の国(現世)で覚えている人間がいなくなると死者の国からも消えてしまう」ルールをすでに匂わせているのだ。すごすぎるよな。この自然な伏線がピクサーのシナリオだ。
ヘクターの正体隠蔽も完璧だ。最初、ミゲルの先祖の正体は写真を破られているため「不明」という事になっているが、そこかしこで伝説のミュージシャン「デラクルス」の話が出てくる。見てる側も「デラクルス」の事が気になってくるし、当然「先祖 = デラクルス」の図式が浮かんだところで、本編中でもそのように「ネタバラシ」されて話が展開していく。これが、最初から「先祖 = デラクルス」が提示されていたとしたら、見てる側はその図式そのものに疑いをかけるようになり、後に出てくるヘクターに対して「先祖 = ヘクター」という図式をもっと早く疑うようになったと思う。
しかし、「先祖 = デラクルス」は見てる側としても「そうだと思った」と一度「導いた答え」として固定され、なかなか崩すことが出来ない。しかもこれのメリットは「先祖 = デラクルス」の図式はミゲルの完全な思い込みであり、劇中のどこにもそんな証拠がないままに確定事項のようにストーリーを進めることが出来てしまう。そのため、「先祖 = ヘクター」の「真相」が発覚した後にもまったく矛盾が発生しないのである。
デラクルスが正体を現すことで、それまで詰まっていた全ての要素が好転するのもすごい。ヘクターは家族を捨てたわけではなく、戻ろうとした所でデラクルスに殺害されてしまった。その真相を知りイメルダは音楽を憎むのをやめ、ミゲルに音楽禁止を課すことなく生者の国への帰還を許し「リメンバー・ミー」によってママ・ココの記憶がよみがえり、ヘクターは消滅を免れる。ママ・ココの記憶が薄れていることと音楽禁止の設定がちゃんと結びついているのである。
そしてだ、そしてだよ!!!!そのママ・ココの記憶が復活したことで現世の人間たち(おそらくエレナ)にもヘクターの記憶が蘇った。いや、蘇ったというよりもヘクターの存在がタブーではなくなった。これによって、それまではママ・ココのみの記憶で支えられていた死者の国でのヘクターの存在が、ママ・ココが死んでしまった後でも維持されるようになり、ママ・ココとヘクター、イメルダが死者の国で再会することが出来たのだ。
現世ではデラクルスによって阻まれてしまった親子の再会がようやく実現したのだ。三人で歩くシーンはとても感想的だった。「リメンバー・ミー」とは、ただ心に留めておくだけではない。永遠に別れ離れになってしまう悲しい曲ではなく「いつか再会するときのために覚えておいてね」という意味なのだ。
少なくとも、私はそう解釈している。
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2018 |
12,30 |
年末年始のドタバタで感想を書くのが遅れてしまったのだけど、30日に滑り込みで見に行ったので、この作品が2018年度最後の映画になった。映画を意識して見始めるようになった今年、「シュガー・ラッシュ」で受けた衝撃はそれはもう計り知れないものだった。これがシナリオ、これが映画なんだと強く感じた。そんな「シュガー・ラッシュ」の続編で2018年を締めくくる、完璧な布陣。まさに「約束された勝利の剣」(エクスカリバー)である。
…はずだった。
やりたいことは分かる。それまでのゲームセンターの(ランキングとかがあるとはいえ)オフラインゲームの中にある「繰り返しでしかない日々」がオンラインに接続されたことで世界が広がり、ヴァネロペは新しい夢を見つけるものの、現状に満足しているラルフ(彼の「満足した現状」はヴァネロペ無しでは少なくとも冒頭時点では成り立たない)と望まぬ対立が生まれる…ということだ。
なるほど、スタンドアロンのゲームとオンラインゲームの設定をこうやってストーリーに落とし込むのか、と上手い部分はもちろんあるのだけど、それを潰してあまりあるのが話運びの残念さだ。ストーリーラインがほぼ一本道な上、キャラの「やらかし」(最善とは思えない行動)で話が進んでいくので行き当たりばったり感がすごい。もちろん、一つや二つの「やらかし」は当然起こるし、全て最善の行動を取るというのもそれはそれで違和感があるのだけど、あまりにも「やらかし」で話が進みすぎているように感じた。
そもそもの発端であるハンドルの故障もヴァネロペがプレイヤーを無視して行動したルール違反が元だし、無意味なオークションの値上げ合戦によるハンドル価格の高騰、極めつけはラルフのコンピューターウィルス撒き散らし。どれもがあまりにも行き当たりばったりに見える。
コンピューターウィルスの下りは特にひどい。そもそも「コンピューターウィルスを撒き散らす」という発想と展開がすでに「ありえない」レベルなのだけど、ヴァネロペの脆弱性を「バグ」として認識するのはともかく、ラルフの「精神的に不安定」な部分を「バグ」として認識するのはさすがに筋が違う。話が無理やりに展開していくので、まったく気持ちが乗れずにラルフが大量発生しても巨大化しても、もはや心に響くものはなにもなかった。これは意図的なものがあると信じたいけど、結局最後も巨大ラルフが浄化されただけで大本のコンピューターウィルスはネットの海に消えており、全く解決していないのである。
その場その場の展開だけで話が進んでいくから、ストーリーに膨らみが生まれない。ストーリーに膨らみがない代わりに何で体裁を整えているのかといえば大量のゲストキャラや現実にもあるウェブサービスそのものの描写、YouTubeのパロディだ。
予告編からすでにディズニーキャラの総出演(特にプリンセス陣)は本作の「目玉」として扱われていた。そう、この映画はシナリオを一部の隙もなく練り上げて来た「シュガー・ラッシュ」の続編として見てはいけなかったのだ。ディズニーキャラ総出演のお祭り映画として見るべきだったのだ。
この「映画を見るにあたっての心構え」というのは重要で、今回の「シュガー・ラッシュ:オンライン」も「いろんなディズニーキャラが見れるらしいから楽しみ~!」と思ってた人は、実際色んなキャラも出てくるし、なんならHIKAKINとかも(声だけだけど)出てきて楽しい気持ちで劇場を後に出来たと思う。
それにしても、HIKAKINはマジですごい。いや、もちろん日本では有名なのは言うまでもないけれど、ピクサーをして「YouTubeで動画を上げて稼いでいる人間といえば彼」と認識しているのだ。本物のワールドワイドがここにあった。
最初にも書いたけれど、「シュガー・ラッシュ」と「オンライン」の相性は決して悪くなかった。範囲をゲームから広げ、「インターネット全体」としてしまったのが敗因だったように思う。インターネットならインターネットそのものをテーマに据えて作った方がよいものが出来たと思う。
あまりにも惜しい2018年度の締めとなってしまった。抜いた剣はエクスカリバーではなく、エクスカリパーだったのだ。
…はずだった。
やりたいことは分かる。それまでのゲームセンターの(ランキングとかがあるとはいえ)オフラインゲームの中にある「繰り返しでしかない日々」がオンラインに接続されたことで世界が広がり、ヴァネロペは新しい夢を見つけるものの、現状に満足しているラルフ(彼の「満足した現状」はヴァネロペ無しでは少なくとも冒頭時点では成り立たない)と望まぬ対立が生まれる…ということだ。
なるほど、スタンドアロンのゲームとオンラインゲームの設定をこうやってストーリーに落とし込むのか、と上手い部分はもちろんあるのだけど、それを潰してあまりあるのが話運びの残念さだ。ストーリーラインがほぼ一本道な上、キャラの「やらかし」(最善とは思えない行動)で話が進んでいくので行き当たりばったり感がすごい。もちろん、一つや二つの「やらかし」は当然起こるし、全て最善の行動を取るというのもそれはそれで違和感があるのだけど、あまりにも「やらかし」で話が進みすぎているように感じた。
そもそもの発端であるハンドルの故障もヴァネロペがプレイヤーを無視して行動したルール違反が元だし、無意味なオークションの値上げ合戦によるハンドル価格の高騰、極めつけはラルフのコンピューターウィルス撒き散らし。どれもがあまりにも行き当たりばったりに見える。
コンピューターウィルスの下りは特にひどい。そもそも「コンピューターウィルスを撒き散らす」という発想と展開がすでに「ありえない」レベルなのだけど、ヴァネロペの脆弱性を「バグ」として認識するのはともかく、ラルフの「精神的に不安定」な部分を「バグ」として認識するのはさすがに筋が違う。話が無理やりに展開していくので、まったく気持ちが乗れずにラルフが大量発生しても巨大化しても、もはや心に響くものはなにもなかった。これは意図的なものがあると信じたいけど、結局最後も巨大ラルフが浄化されただけで大本のコンピューターウィルスはネットの海に消えており、全く解決していないのである。
その場その場の展開だけで話が進んでいくから、ストーリーに膨らみが生まれない。ストーリーに膨らみがない代わりに何で体裁を整えているのかといえば大量のゲストキャラや現実にもあるウェブサービスそのものの描写、YouTubeのパロディだ。
予告編からすでにディズニーキャラの総出演(特にプリンセス陣)は本作の「目玉」として扱われていた。そう、この映画はシナリオを一部の隙もなく練り上げて来た「シュガー・ラッシュ」の続編として見てはいけなかったのだ。ディズニーキャラ総出演のお祭り映画として見るべきだったのだ。
この「映画を見るにあたっての心構え」というのは重要で、今回の「シュガー・ラッシュ:オンライン」も「いろんなディズニーキャラが見れるらしいから楽しみ~!」と思ってた人は、実際色んなキャラも出てくるし、なんならHIKAKINとかも(声だけだけど)出てきて楽しい気持ちで劇場を後に出来たと思う。
それにしても、HIKAKINはマジですごい。いや、もちろん日本では有名なのは言うまでもないけれど、ピクサーをして「YouTubeで動画を上げて稼いでいる人間といえば彼」と認識しているのだ。本物のワールドワイドがここにあった。
最初にも書いたけれど、「シュガー・ラッシュ」と「オンライン」の相性は決して悪くなかった。範囲をゲームから広げ、「インターネット全体」としてしまったのが敗因だったように思う。インターネットならインターネットそのものをテーマに据えて作った方がよいものが出来たと思う。
あまりにも惜しい2018年度の締めとなってしまった。抜いた剣はエクスカリバーではなく、エクスカリパーだったのだ。
2018 |
11,24 |
そういえば、ドラ映画見たのなんていつぶりだろう…。数年前に鉄人兵団のリメイクをBDで見たのが最後で、新声優(という言い方ももうおかしいレベルだけど)になってからの完全オリジナルは初だ。子供の頃は毎年ドラ映画を見て、オマケのドラえもんを貰って帰ってたなあ…と懐かしく感じる。
結論から言うと、ドラ映画の文脈はしっかり押さえつつ、よくまとまってる良い作品だったと思う。名作と言われるのも頷ける。
本作はかなりの「応用編」だと思う。通常、ドラ映画は「時間」か「空間」(舞台)のどちらかを非日常に置くことで話が展開していく。「大魔境」なら時間は現代のままだけど、空間はアマゾンの奥地(未踏の地)、のび太の恐竜なら時間は白亜紀となるが空間は通常の生活空間(まあ、のび太の家の近所ではないけど…)等々といった具合だ。
カチコチは時間は10万年前、空間も南極大陸になる。二重の非日常設定だ。どちらか一つでも「冒険」の舞台としては実は十分で、「10万年前の南極大陸」だろうが、「現代の南極大陸」だろうが実は基本の舞台設定としては大して変わらない。仮に現代の時間設定で南極大陸の氷の下に地下都市があったとしても、普通に舞台設定としては機能する。実際、物語の中盤までは現代での南極大陸冒険が主目的になっている。
新ドラになってから最初の映画が「のび太の恐竜」のリメイクで、なんだか新しい事をするのをやめてしまったのかとがっかりもしたけど、そうではなかったのだ。この「カチコチ」の様な応用編をやるためにはまず下地として「冒険」や「時間旅行」の概念を子供たちに覚えさせる必要があった。(新ドラしか見たくない、という子供もいるだろうから旧作での予習が不可能になってる状況もあったと思う)そして、ついに満を持してこういう応用編的な作品を公開してもOKと判断するまでになったのだろう。
随所に見えるドラ映画文脈も懐かしい。氷の加工は「雲の王国」の序盤を思い出させる。あのドラ映画序盤特有の「なんでも出来そう」というワクワク感は最高にいいものだ。
かたくなに使われないスモールライト、テキオー灯でええやろと言ってはいけない「極地探検スーツ」。忘れて来たどこでもドア(そもそも忘れるのがありえないけど…)を「とりよせバッグ」で取り寄せないなどなど。ツッコミどころもいっぱいだ。いや、まあ、テキオー灯やスモールライトは劇中内では使われていないのでともかく、劇中で「とりよせバッグ」を別の場面で使うとは思わなかった。「カチコチ」は空間の冒険でもあるので、「どこでもドア」「とりよせバッグ」と言った空間系の道具は禁じ手となりやすい。
ただ、ドアの場合は「凍り付いて取り寄せられない」などのフォローを入れられる可能性はあったのだか…。
「宇宙開拓史」でもゲストで出ていたパオパオが出ていたのもビックリしたし、カーラたちの星の名前が「ヒョーガヒョーガ星」というのもファンには嬉しい小ネタだ。「宇宙開拓史」の舞台が「コーヤコーヤ星」「トカイトカイ星」と言ったネーミングだったので狙っていたのだと思う。そういえば、宇宙開拓史もリメイクされていたような。
今回の「大ネタ」である「電池の時を超えた受け渡し」も分かりやすくて良く出来ていた。最初「どこでもドア使用不可能 = タイムマシンによるタイムスリップ不可」の設定を聞いた時にタイムマシンはどの「場所」にでも出られちゃうからなあと思ったのだけど(忘れがちなのだけど、タイムマシンは「どの時間、どの場所にも出られる」という時間と空間両方を操れる二つの能力を持った禁じ手級の道具なのだ)、今回はそっちではなく、「「タイムベルト」と「電池」という二つが揃わないとタイムスリップが出来ない」という状況を作りたかったので「タイムマシン」は封印されたのだ。タイムマシンに電池ないからね。(まあ、なんらかの燃料はあるだろうけど…)
カーラの設定(ドラマ)である「自分の星を救いたい、でもリングは一つしかない」という葛藤は悪くはなかった。動機とドラマがちゃんと噛み合って機能はしていたと思う。ただ、状況的に見ればさすがに地球のリングを使ってヒョーガヒョーガ星を救うのは「ありえない」選択なので、葛藤の動機としては弱かったように思う。(劇中での扱いも「まあ、さすがにね…みたいな雰囲気だったし…」)
ほんやくコンニャクをカーラ側ではなくのび太側が食べるのはわりと見たことのない展開でちょっと驚いた。あれでも機能するのか…。まあ、この場合はのび太側が全員食べなければならないので非効率といえば非効率かもだけど。
最後の光るものを集めるコウモリが別のリングを見つけていて、それを元にヒョーガヒョーガ星を救うという展開も、一見ご都合主義に見えるのだけど、地球のブリザーガが「作りかけ」だったので、開発途中のリングが他にあっても不思議ではない。なので、「光るものを集めるコウモリ」という設定の上手さも手伝って実はちゃんと考えられてるのだけど、説明が足りなかったかな…。もっと作ってる途中のブリザーガの描写を増やして「リングが他にもある」という事をうすーく匂わせておけばご都合主義感はかなり軽減されたと思う。
エピローグ、天体望遠鏡で「10万光年離れた」ヒョーガヒョーガ星を見ることでカーラたちの解決を確認できるというラストはすさまじく美しい。大ネタの「電池の時を超えた受け渡し」も「氷によるタイムスリップ」だった。10万光年の時を超えた光を「見る」こともまた「光によるタイムスリップ」と言っていいだろう。
ドラえもんの道具の力を借りなくても現実の自然現象だけでも「タイムスリップ」は出来る、不思議なことはこの世界に溢れている、そんなメッセージを感じられるラストだったように思う。
結論から言うと、ドラ映画の文脈はしっかり押さえつつ、よくまとまってる良い作品だったと思う。名作と言われるのも頷ける。
本作はかなりの「応用編」だと思う。通常、ドラ映画は「時間」か「空間」(舞台)のどちらかを非日常に置くことで話が展開していく。「大魔境」なら時間は現代のままだけど、空間はアマゾンの奥地(未踏の地)、のび太の恐竜なら時間は白亜紀となるが空間は通常の生活空間(まあ、のび太の家の近所ではないけど…)等々といった具合だ。
カチコチは時間は10万年前、空間も南極大陸になる。二重の非日常設定だ。どちらか一つでも「冒険」の舞台としては実は十分で、「10万年前の南極大陸」だろうが、「現代の南極大陸」だろうが実は基本の舞台設定としては大して変わらない。仮に現代の時間設定で南極大陸の氷の下に地下都市があったとしても、普通に舞台設定としては機能する。実際、物語の中盤までは現代での南極大陸冒険が主目的になっている。
新ドラになってから最初の映画が「のび太の恐竜」のリメイクで、なんだか新しい事をするのをやめてしまったのかとがっかりもしたけど、そうではなかったのだ。この「カチコチ」の様な応用編をやるためにはまず下地として「冒険」や「時間旅行」の概念を子供たちに覚えさせる必要があった。(新ドラしか見たくない、という子供もいるだろうから旧作での予習が不可能になってる状況もあったと思う)そして、ついに満を持してこういう応用編的な作品を公開してもOKと判断するまでになったのだろう。
随所に見えるドラ映画文脈も懐かしい。氷の加工は「雲の王国」の序盤を思い出させる。あのドラ映画序盤特有の「なんでも出来そう」というワクワク感は最高にいいものだ。
かたくなに使われないスモールライト、テキオー灯でええやろと言ってはいけない「極地探検スーツ」。忘れて来たどこでもドア(そもそも忘れるのがありえないけど…)を「とりよせバッグ」で取り寄せないなどなど。ツッコミどころもいっぱいだ。いや、まあ、テキオー灯やスモールライトは劇中内では使われていないのでともかく、劇中で「とりよせバッグ」を別の場面で使うとは思わなかった。「カチコチ」は空間の冒険でもあるので、「どこでもドア」「とりよせバッグ」と言った空間系の道具は禁じ手となりやすい。
ただ、ドアの場合は「凍り付いて取り寄せられない」などのフォローを入れられる可能性はあったのだか…。
「宇宙開拓史」でもゲストで出ていたパオパオが出ていたのもビックリしたし、カーラたちの星の名前が「ヒョーガヒョーガ星」というのもファンには嬉しい小ネタだ。「宇宙開拓史」の舞台が「コーヤコーヤ星」「トカイトカイ星」と言ったネーミングだったので狙っていたのだと思う。そういえば、宇宙開拓史もリメイクされていたような。
今回の「大ネタ」である「電池の時を超えた受け渡し」も分かりやすくて良く出来ていた。最初「どこでもドア使用不可能 = タイムマシンによるタイムスリップ不可」の設定を聞いた時にタイムマシンはどの「場所」にでも出られちゃうからなあと思ったのだけど(忘れがちなのだけど、タイムマシンは「どの時間、どの場所にも出られる」という時間と空間両方を操れる二つの能力を持った禁じ手級の道具なのだ)、今回はそっちではなく、「「タイムベルト」と「電池」という二つが揃わないとタイムスリップが出来ない」という状況を作りたかったので「タイムマシン」は封印されたのだ。タイムマシンに電池ないからね。(まあ、なんらかの燃料はあるだろうけど…)
カーラの設定(ドラマ)である「自分の星を救いたい、でもリングは一つしかない」という葛藤は悪くはなかった。動機とドラマがちゃんと噛み合って機能はしていたと思う。ただ、状況的に見ればさすがに地球のリングを使ってヒョーガヒョーガ星を救うのは「ありえない」選択なので、葛藤の動機としては弱かったように思う。(劇中での扱いも「まあ、さすがにね…みたいな雰囲気だったし…」)
ほんやくコンニャクをカーラ側ではなくのび太側が食べるのはわりと見たことのない展開でちょっと驚いた。あれでも機能するのか…。まあ、この場合はのび太側が全員食べなければならないので非効率といえば非効率かもだけど。
最後の光るものを集めるコウモリが別のリングを見つけていて、それを元にヒョーガヒョーガ星を救うという展開も、一見ご都合主義に見えるのだけど、地球のブリザーガが「作りかけ」だったので、開発途中のリングが他にあっても不思議ではない。なので、「光るものを集めるコウモリ」という設定の上手さも手伝って実はちゃんと考えられてるのだけど、説明が足りなかったかな…。もっと作ってる途中のブリザーガの描写を増やして「リングが他にもある」という事をうすーく匂わせておけばご都合主義感はかなり軽減されたと思う。
エピローグ、天体望遠鏡で「10万光年離れた」ヒョーガヒョーガ星を見ることでカーラたちの解決を確認できるというラストはすさまじく美しい。大ネタの「電池の時を超えた受け渡し」も「氷によるタイムスリップ」だった。10万光年の時を超えた光を「見る」こともまた「光によるタイムスリップ」と言っていいだろう。
ドラえもんの道具の力を借りなくても現実の自然現象だけでも「タイムスリップ」は出来る、不思議なことはこの世界に溢れている、そんなメッセージを感じられるラストだったように思う。
2018 |
11,19 |
総評。
ううううううううううう~ん!!!こ、これなあ~!!確かに最高傑作と言われるのも分かる、分かるけど正直、「2」の方が好きだな!!この差がどこから生まれたのか。はっきり言って敵役の差だ。
プロスペクターは初登場の時には全然「敵役」の雰囲気はなかったんだけど、彼が「箱に入っている」という情報は最初からオープンになっていた。あの設定が彼が本性(というか目的)を表してから、その真の意味が明らかになる。すなわち、「子供と遊んだことが無い」故の優しい記憶の欠如、そして「売れ残り」による悲壮だ。
はっきり言ってロッツォはこのバックグラウンドの重厚さがプロスペクターに及んでいない。及んでいないというか、初登場時からすでに「悪役でござい」という雰囲気が全く隠せていないのだ。まあね、もちろんディズニーの悪役は古くは白雪姫の魔女しかり、別に「隠さなければいけない」なんていうルールはない。
ロッツォに関してもおそらく彼の「正体バレ」というのはこの作品においてプロスペクターの正体バレほどには比重が置かれていなかったのだと思う。彼の正体がばれたとしても、そこから先の「サニーサイド保育園からの脱出」というメイン展開が待っているからだ。
なので、ロッツォの悪役としての「格」の評価として「サニーサイド保育園を自分の理想とする独裁国家に作り上げた」という点を見ればプロスペクターよりも優れているのだろうと思う。だからこれは完全に好みの問題なのだろうと思う。「箱」がな~、ほんと凄すぎなんだよ、プロスペクター…。
ストーリーとしては「トイ・ストーリー」という物語の完結という意味ではこれ以上ないものだったと思う。ただ「2」の時に感じていた、「今はアンディはウッディたちの事を求めてくれているから、ウッディたちは必死に家に帰ろうとしているが、アンディが成長し、ウッディたちの事を求めなくなったらウッディたちはどうするのか?」という個人的な問いに答えてくれるものではなかった。
アンディはどこまでも優しいヤツで昔のおもちゃをずっと大事にしてくれていた。成長しても一番の親友ウッディは引っ越し先に連れていき、他の仲間も屋根裏に大切に保管してくれようとしていた。すなわち、「3」においてもウッディたちはアンディに必要とされ続けていたのだ。だからこそ、「家」に帰ろうとする。このモチベーションは三作を通じて変わることはなかった。これは意図的なものなのだろう。
今回は「サニーサイド保育園」から脱出しなくてはいけなかったので、いかにそこの環境を劣悪に描くか(脱出したくなるか)が問題だったのだけど、おもちゃの行く末として、どこかに寄付されるというのは選択肢としては当然ありうることだし、新しい子供に遊んでもらうという事自体を「悪」として描くことは出来ない。
たとえどんなに手荒に扱われることになったとしても、それはおもちゃとしての宿命として受け入れるほかはない。正直に言えばアンディのおもちゃの扱いも…まあ…そんなにお上品なものではなかったし。
ここで上手かったのは「サニーサイド保育園の闇」として「手荒に扱われる事」自体ではなく「その役割を新入りだけに押し付けて自分は安全な場所でのうのうと暮らしているロッツォ」に置き換えた点だ。事実、物語が終わり、ロッツォが取り除かれた後も「イモムシ組」のおもちゃに対する手荒い扱いは続いている。ここを悪くは描かない。子供はおもちゃを壊すものなのだ。ただ、その対応を階級関係なく全員で持ちまわって行っている。
「子供の手荒な扱い」は変わっていないものの、制度が変わったことでいわば「強制労働」と言っても良かった子供たちへの対応の中に「平等感」と「おもちゃとしての本来の役割」を感じることが出来るようになっている。
ここまで書いて気が付いたのだけど、最終的には「アンディに求められている」以上はおもちゃ達は「サニーサイド保育園」がたとえ天国の様な所であっても家に帰ろうとしただろう。そこでの多少の葛藤はあるだろうとは思うものの、ロッツォが存在してなかったらウッディたちはさっくりと家に帰れてしまっていた(というか「1」と一緒になってしまう)のだ。だから「脱出」の障害としてもロッツォの独裁が必要だったのだ。
クライマックスのウッディたちとの別れは確かに泣けた。アンディの語る「ウッディはどんな時でも仲間を見捨てない」という姿はこの三作でずっと語られてきたことだ。だからこそ、説得力を持って胸を打つ。そして、そんなウッディを誰よりも理解しているアンディだからこそ、仲間を置いてウッディだけを連れていくことは出来なかったのだ。
もうウッディとは遊ぶことは無いとは分かっていても、手放すことを躊躇するアンディ。ここで、誰もが持っている子供の時に遊んだおもちゃの記憶がオーバーラップする。トイ・ストーリーの最大の強み、「誰もが持っているおもちゃと遊んだ記憶」による感情移入が最大の効果で発揮される。アンディが楽しそうに遊んでいればいるほど「最後の別れ」が強調され、泣けてくる。
シリーズの締めとしてこれ以上ない幕引きだったように思えるのだけど、なんとまだ「4」があるらしい。あ、でもそうか、確かにウッディとバズがアンディに子供が生まれたら…みたいな事を言っていたのでそこをやるのかもしれない。期待しよう。
トピックス。
冒頭の機関車アクション、あれは正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」のパロディだろうと思ったのだけど、ざっと調べた限りだとそう言ってる人があんまりいなかったので自信がなくなってきた…。同じ「3」だしあり得そうなんだけど…。
アンディはウッディたちの事を「オークションでも売れないよ」と言ってるけど、プレミアの事は知らなかったのだろうか…。もしくは知っていて黙っていたのか。
ロッツォたちがバズを改造しようとしてる時にちゃんと説明書を見てるの、めちゃくちゃ興奮したんだけど、あれはなにが面白いんだろう…。未知のおもちゃでも説明書を見れば対応できるよな!という納得感…とでも言うべきものなのか。「説明書見てる!スゲェ!!」と感じたこの理屈は自分でも良く分からない…。あと、あの時にどう考えてもリセットボタンが押されてしまっているのでたとえモードを元に戻しても元のバズに戻れるのかかなり疑問ではある…。
ううううううううううう~ん!!!こ、これなあ~!!確かに最高傑作と言われるのも分かる、分かるけど正直、「2」の方が好きだな!!この差がどこから生まれたのか。はっきり言って敵役の差だ。
プロスペクターは初登場の時には全然「敵役」の雰囲気はなかったんだけど、彼が「箱に入っている」という情報は最初からオープンになっていた。あの設定が彼が本性(というか目的)を表してから、その真の意味が明らかになる。すなわち、「子供と遊んだことが無い」故の優しい記憶の欠如、そして「売れ残り」による悲壮だ。
はっきり言ってロッツォはこのバックグラウンドの重厚さがプロスペクターに及んでいない。及んでいないというか、初登場時からすでに「悪役でござい」という雰囲気が全く隠せていないのだ。まあね、もちろんディズニーの悪役は古くは白雪姫の魔女しかり、別に「隠さなければいけない」なんていうルールはない。
ロッツォに関してもおそらく彼の「正体バレ」というのはこの作品においてプロスペクターの正体バレほどには比重が置かれていなかったのだと思う。彼の正体がばれたとしても、そこから先の「サニーサイド保育園からの脱出」というメイン展開が待っているからだ。
なので、ロッツォの悪役としての「格」の評価として「サニーサイド保育園を自分の理想とする独裁国家に作り上げた」という点を見ればプロスペクターよりも優れているのだろうと思う。だからこれは完全に好みの問題なのだろうと思う。「箱」がな~、ほんと凄すぎなんだよ、プロスペクター…。
ストーリーとしては「トイ・ストーリー」という物語の完結という意味ではこれ以上ないものだったと思う。ただ「2」の時に感じていた、「今はアンディはウッディたちの事を求めてくれているから、ウッディたちは必死に家に帰ろうとしているが、アンディが成長し、ウッディたちの事を求めなくなったらウッディたちはどうするのか?」という個人的な問いに答えてくれるものではなかった。
アンディはどこまでも優しいヤツで昔のおもちゃをずっと大事にしてくれていた。成長しても一番の親友ウッディは引っ越し先に連れていき、他の仲間も屋根裏に大切に保管してくれようとしていた。すなわち、「3」においてもウッディたちはアンディに必要とされ続けていたのだ。だからこそ、「家」に帰ろうとする。このモチベーションは三作を通じて変わることはなかった。これは意図的なものなのだろう。
今回は「サニーサイド保育園」から脱出しなくてはいけなかったので、いかにそこの環境を劣悪に描くか(脱出したくなるか)が問題だったのだけど、おもちゃの行く末として、どこかに寄付されるというのは選択肢としては当然ありうることだし、新しい子供に遊んでもらうという事自体を「悪」として描くことは出来ない。
たとえどんなに手荒に扱われることになったとしても、それはおもちゃとしての宿命として受け入れるほかはない。正直に言えばアンディのおもちゃの扱いも…まあ…そんなにお上品なものではなかったし。
ここで上手かったのは「サニーサイド保育園の闇」として「手荒に扱われる事」自体ではなく「その役割を新入りだけに押し付けて自分は安全な場所でのうのうと暮らしているロッツォ」に置き換えた点だ。事実、物語が終わり、ロッツォが取り除かれた後も「イモムシ組」のおもちゃに対する手荒い扱いは続いている。ここを悪くは描かない。子供はおもちゃを壊すものなのだ。ただ、その対応を階級関係なく全員で持ちまわって行っている。
「子供の手荒な扱い」は変わっていないものの、制度が変わったことでいわば「強制労働」と言っても良かった子供たちへの対応の中に「平等感」と「おもちゃとしての本来の役割」を感じることが出来るようになっている。
ここまで書いて気が付いたのだけど、最終的には「アンディに求められている」以上はおもちゃ達は「サニーサイド保育園」がたとえ天国の様な所であっても家に帰ろうとしただろう。そこでの多少の葛藤はあるだろうとは思うものの、ロッツォが存在してなかったらウッディたちはさっくりと家に帰れてしまっていた(というか「1」と一緒になってしまう)のだ。だから「脱出」の障害としてもロッツォの独裁が必要だったのだ。
クライマックスのウッディたちとの別れは確かに泣けた。アンディの語る「ウッディはどんな時でも仲間を見捨てない」という姿はこの三作でずっと語られてきたことだ。だからこそ、説得力を持って胸を打つ。そして、そんなウッディを誰よりも理解しているアンディだからこそ、仲間を置いてウッディだけを連れていくことは出来なかったのだ。
もうウッディとは遊ぶことは無いとは分かっていても、手放すことを躊躇するアンディ。ここで、誰もが持っている子供の時に遊んだおもちゃの記憶がオーバーラップする。トイ・ストーリーの最大の強み、「誰もが持っているおもちゃと遊んだ記憶」による感情移入が最大の効果で発揮される。アンディが楽しそうに遊んでいればいるほど「最後の別れ」が強調され、泣けてくる。
シリーズの締めとしてこれ以上ない幕引きだったように思えるのだけど、なんとまだ「4」があるらしい。あ、でもそうか、確かにウッディとバズがアンディに子供が生まれたら…みたいな事を言っていたのでそこをやるのかもしれない。期待しよう。
トピックス。
冒頭の機関車アクション、あれは正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」のパロディだろうと思ったのだけど、ざっと調べた限りだとそう言ってる人があんまりいなかったので自信がなくなってきた…。同じ「3」だしあり得そうなんだけど…。
アンディはウッディたちの事を「オークションでも売れないよ」と言ってるけど、プレミアの事は知らなかったのだろうか…。もしくは知っていて黙っていたのか。
ロッツォたちがバズを改造しようとしてる時にちゃんと説明書を見てるの、めちゃくちゃ興奮したんだけど、あれはなにが面白いんだろう…。未知のおもちゃでも説明書を見れば対応できるよな!という納得感…とでも言うべきものなのか。「説明書見てる!スゲェ!!」と感じたこの理屈は自分でも良く分からない…。あと、あの時にどう考えてもリセットボタンが押されてしまっているのでたとえモードを元に戻しても元のバズに戻れるのかかなり疑問ではある…。
2018 |
11,11 |
いやその、なんだ…。この…人生において「見たことのある映画」というのはある意味で「味方」に入るという感覚があるんだよな。「この映画見たことないな」という場面に「よく」出くわす映画というのはあるもので、今年に入ってから映画を何本も見ているのはそういった映画をなるべく無くすという趣旨もある。なので、見る映画が必然的に「有名」で「昔の映画」に偏っているという自覚はある。「2001年宇宙の旅」はその象徴の様な映画だ。
様々な作品に影響を与え、パロディされたりするこの作品。見る前から「モノリス」の存在、コンピューターによる反乱…などなどの「ネタ」を知った状態で見たものの、やっぱりちゃんと本編は見てみてよかったな、と思う。今後幾度となく出くわすであろう「2001年宇宙の旅見たことないな」が二時間半程度でつぶせるのならやってしまうべきだ…と個人的には考えている。
とりあえず驚いたのは冒頭。真っ黒な画面に音楽だけが延々と流れたせいで(アマプラで見たんだけど)、普通に映像が流れない故障かと思ってしまった。いや…あれは…体感では5分くらいあったと思うんだけど、故障なのか演出なのか分からなかったので確かめようかそのまま見続けようか困惑してしまった。しびれを切らしてしばらく先にサーチしてみたら映像が流れていたので「こういう演出なのか…」と理解はしたけど、なんかもう冒頭からすごいな…という感じであった。ここで言う「すごいな…」はあまりい意味ではない。「こりゃ置いてきぼりにされるな」という感覚である。
お猿が暴れまわってる冒頭30分は公開当時あまり評判が良くなかったらしい。当時のプロモーションがどんな風に行われていたのかは分からないけど、確かにあんなSF感バリバリの宇宙ステーションがドンと描かれたポスターに惹かれて見てみたら冒頭5分真っ暗で、それが開けたらお猿が延々暴れまわってるんだから普通にキレると思う。ただ、出来と言うか「言いたい事」は後半部に比べれば分かるので「見にくさ」はない。モノリスに触れたお猿が「道具」を使う事を覚えて進化し、別のお猿集団を退けて(殺害して)水場を奪ったのだ。「モノリス」とはあの石柱の事ではなく(あれは視覚的なイメージで)、エポックメイキングを意味するのだろう。「道具」の獲得である。
舞台は一気に飛び(ここが2001年なのか…??)、月面でモノリスが発見される。まあ、それはそれとして人類は木星を目指す。この流れは後々整理してみれば「ああなるほど」という感じになる。
木星を目指す過程で有名なコンピューター「HAL9000の反乱」がある。すなわちコンピューターによる人間の殺害だ。最初はモノリスの出現によってエポックメイキングが再び起こって人類にとって代わる存在としてコンピューターが選ばれて、その象徴として「人類の殺害」が行われた(お猿時代に起こった争いの中の殺害みたいな感じ)のかと思っていたけど、どうやら違ったらしい。
「HAL9000」には他の乗務員に知らされていない極秘ミッション(月面で掘り起こされたモノリスが「木星に向け強力な磁気を発していた = 木星に向かうことの示唆及びその調査」)が託されていた。それを歪曲した「HAL9000」は「他の乗務員に知らせてはならない = だったら全員殺そう」というヤンデレ回答に行きついてしまう。
「HAL9000」がヤンデレ気質だったことを見抜けなかった事も問題だが、やはりコンピューターに「間違い」は無く、間違いがあったのは「他の乗務員に知らせてはならない」という入力をした人間の方だったのだ。「知られてはならない」が「調査はしなければならない」。コンピューターである「HAL9000」が人の眼を盗んで調査をする事は不可能だ。この相反する矛盾のあるミッションを与えたことが「間違い」だったのだ。「ユニットに故障がある」という「間違った」判断も乗務員殺害への布石だったのだから、「HAL9000」は「故障」をしていなかったのだと思う。
様々な作品に影響を与え、パロディされたりするこの作品。見る前から「モノリス」の存在、コンピューターによる反乱…などなどの「ネタ」を知った状態で見たものの、やっぱりちゃんと本編は見てみてよかったな、と思う。今後幾度となく出くわすであろう「2001年宇宙の旅見たことないな」が二時間半程度でつぶせるのならやってしまうべきだ…と個人的には考えている。
とりあえず驚いたのは冒頭。真っ黒な画面に音楽だけが延々と流れたせいで(アマプラで見たんだけど)、普通に映像が流れない故障かと思ってしまった。いや…あれは…体感では5分くらいあったと思うんだけど、故障なのか演出なのか分からなかったので確かめようかそのまま見続けようか困惑してしまった。しびれを切らしてしばらく先にサーチしてみたら映像が流れていたので「こういう演出なのか…」と理解はしたけど、なんかもう冒頭からすごいな…という感じであった。ここで言う「すごいな…」はあまりい意味ではない。「こりゃ置いてきぼりにされるな」という感覚である。
お猿が暴れまわってる冒頭30分は公開当時あまり評判が良くなかったらしい。当時のプロモーションがどんな風に行われていたのかは分からないけど、確かにあんなSF感バリバリの宇宙ステーションがドンと描かれたポスターに惹かれて見てみたら冒頭5分真っ暗で、それが開けたらお猿が延々暴れまわってるんだから普通にキレると思う。ただ、出来と言うか「言いたい事」は後半部に比べれば分かるので「見にくさ」はない。モノリスに触れたお猿が「道具」を使う事を覚えて進化し、別のお猿集団を退けて(殺害して)水場を奪ったのだ。「モノリス」とはあの石柱の事ではなく(あれは視覚的なイメージで)、エポックメイキングを意味するのだろう。「道具」の獲得である。
舞台は一気に飛び(ここが2001年なのか…??)、月面でモノリスが発見される。まあ、それはそれとして人類は木星を目指す。この流れは後々整理してみれば「ああなるほど」という感じになる。
木星を目指す過程で有名なコンピューター「HAL9000の反乱」がある。すなわちコンピューターによる人間の殺害だ。最初はモノリスの出現によってエポックメイキングが再び起こって人類にとって代わる存在としてコンピューターが選ばれて、その象徴として「人類の殺害」が行われた(お猿時代に起こった争いの中の殺害みたいな感じ)のかと思っていたけど、どうやら違ったらしい。
「HAL9000」には他の乗務員に知らされていない極秘ミッション(月面で掘り起こされたモノリスが「木星に向け強力な磁気を発していた = 木星に向かうことの示唆及びその調査」)が託されていた。それを歪曲した「HAL9000」は「他の乗務員に知らせてはならない = だったら全員殺そう」というヤンデレ回答に行きついてしまう。
「HAL9000」がヤンデレ気質だったことを見抜けなかった事も問題だが、やはりコンピューターに「間違い」は無く、間違いがあったのは「他の乗務員に知らせてはならない」という入力をした人間の方だったのだ。「知られてはならない」が「調査はしなければならない」。コンピューターである「HAL9000」が人の眼を盗んで調査をする事は不可能だ。この相反する矛盾のあるミッションを与えたことが「間違い」だったのだ。「ユニットに故障がある」という「間違った」判断も乗務員殺害への布石だったのだから、「HAL9000」は「故障」をしていなかったのだと思う。
「HAL9000」の反乱(?)を沈め、モノリスの示す通りに木星に辿り着いた人類は真のエポックメイキングである人類超越の儀(「道具」の獲得と同様?)を経てでっかい綾波(違う)と化して地球に帰還…??というか地球を見つめる赤ちゃんになるのだった。
よし待ってくれ。決しておれの気が狂った訳じゃなくて本当にこの通りなんだ。正直、「お猿編」と「HAL9000反乱編」はちゃんと付いていけたんだけど最終章は本当にムリだった。特にモノリスと接触して「白い部屋」(これはいろんなパロの元ネタな気がする)に到達するまでのエフェクト映像(CGも無いと考えるとあのイメージ映像はかなりすごいな…)の連続が本当に眠くて眠くて半分夢心地になりながら見てたんだけど、あのエフェクトが一種のトリップ状態を引き起こすために流されていたのならば、半分眠りながら見るのが正解の様な気がする。
実際、カッチリ見たとしての最終章の流れはサッパリ分からないんだろうから、それならいっそ「薄れゆく意識の中で、なんかこう…白い部屋…とかあって…デッカイ緑色(?)の赤ちゃんが地球を見つめてるんだ…」みたいな感じでボンヤリ捕らえることこそが「2001年宇宙の旅」のレジェンド感を最高に味わえるというものではないだろうか。(康一君が途中で寝たのはある意味で正しい視聴方法だったようにも思える)
よし待ってくれ。決しておれの気が狂った訳じゃなくて本当にこの通りなんだ。正直、「お猿編」と「HAL9000反乱編」はちゃんと付いていけたんだけど最終章は本当にムリだった。特にモノリスと接触して「白い部屋」(これはいろんなパロの元ネタな気がする)に到達するまでのエフェクト映像(CGも無いと考えるとあのイメージ映像はかなりすごいな…)の連続が本当に眠くて眠くて半分夢心地になりながら見てたんだけど、あのエフェクトが一種のトリップ状態を引き起こすために流されていたのならば、半分眠りながら見るのが正解の様な気がする。
実際、カッチリ見たとしての最終章の流れはサッパリ分からないんだろうから、それならいっそ「薄れゆく意識の中で、なんかこう…白い部屋…とかあって…デッカイ緑色(?)の赤ちゃんが地球を見つめてるんだ…」みたいな感じでボンヤリ捕らえることこそが「2001年宇宙の旅」のレジェンド感を最高に味わえるというものではないだろうか。(康一君が途中で寝たのはある意味で正しい視聴方法だったようにも思える)
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