2018 |
11,10 |
あああ~!!ああ……。もうね、無理。おれは絶対にディズニーを映画館に見に行けない。いや、もうマジで本当にヤバイわ。プロスペクターが裏切った(本性を出した)瞬間、めちゃくちゃ叫んでしまった。
いや、ほんとさ!そうなんだよ!!あのプロスペクターじいさんは「箱」に入ってるから品物の「格」としては上なんだよな。特にオタクにとっては箱に入ってた方が「嬉しい」訳じゃん。おれにもその気持ちが凄く良く分かる。だから、あの「箱」に関しては「そうなんだ」位にしか思ってなかった。でもさ~、違うんだよな~!!あの「箱」って要素がめちゃくちゃ上手く機能してるんだよな。
まず、箱に入ってるって事はウッディやジェシーの様に「子供と遊んだ幸せな記憶」が無いんだ。あの「不幸」が描かれているジェシー(後述)ですらも、その「不幸」はエミリーと遊んだという幸せな記憶の上に成り立っている。だからジェシーはウッディが最終的にアンディの元に帰るのを止めはしない。自分は捨てられてしまったが、待っている子供がいてくれるのなら、帰るべきだという事を経験で理解しているからだ。
でもプロスペクターは違う。その記憶が「無い」んだ。生まれてから箱の中から出されて遊ばれたことがなく、ずっと在庫処分に並んでいた。もうさ、プロスペクターが在庫処分に並んでるってところで本当にシビれるよな。マジで売れ残りそうなポジションしてんだよ、プロスペクター…!
そのずっと虐げられていたプロスペクターが「マニアの展示品になる」というオモチャ本来の役割から外れることになったとしても、「自分を必要とされたい」という気持ちからウッディを強制的に引き留めようとする気持ちも痛いほど分かる…。必要とされてえよなあ…!!分かるよ…!!しかもその条件がウッディやジェシーが揃ってる事ってのも泣けるよな…!自分だけじゃ需要が無いんだぜ…??だから、必死でウッディを引き留めてるんだ、泣ける。泣けるよプロスペクター…!!
でも、プロスペクターはある意味で可哀想な奴だったからちゃんと救いもあったと思うんだよな。ラスト、顔にいたずら書きしちゃう女の子の元に運ばれて、プロスペクター自身はイヤな顔してるんだけど、彼はようやく「箱」の中から出て子供の元に「おもちゃ」として存在する事が出来たんだ。箱越しの「コレクション」ではなく、「おもちゃ」本来の役割が果たせるんだ。それはきっと、彼にとっては幸福なことなんじゃないかな。
対して「盗み」という正真正銘の悪事を行ったアルは精神崩壊??の末に店のおもちゃを全品1ドルで放出するという「末路」を辿っている。この映画での悪役はこの二人だったと思うけど、ラストの描かれ方がこうも違う。やっぱり、スタッフとしてもプロスペクターには同情の余地アリと判断されたんじゃないかなあ。
ジェシーの描かれ方も良かった。まずは陽気な新キャラとして登場するものの、ウッディが自分の家に帰ろうとすると「暗闇が怖い」と言ったのが良かった。暗闇、怖いよね。そう、この「暗闇が怖い」という単純な理由は、それ故にシンプルだ。彼女に関してはあの時点ではまだ出たての新キャラだ。その彼女の内面から発せられる理由よりも「暗闇が怖い」という普遍的な理由に根拠を置いた方が感情移入がしやすい。
それからしばらくたって、ジェシーの描写時間が増えてから、ジェシーのトラウマを描く。仲の良かった、ずっと遊んでくれると思っていたエミリーとの別れ。めちゃくちゃ泣ける。というか、トイ・ストーリー全体に言える事なんだけど、「忘れていたあのころ大切だったおもちゃ」という誰もが持っている記憶にダイレクトに訴えているのがこの作品の最大のキモなんだ。誰もが強い共感を得られる題材。これを手にした瞬間に、その作品は成功が約束されるといっていい。共感は感情移入を生み、感情移入は感動を呼ぶからだ。
ジェシーとエミリーの話は来るべきウッディとアンディの別れも示唆している。今回もウッディは「アンディの元に戻る」という動機の元に行動をしているけれど、その根本、もしこの先「アンディがウッディを必要としないときが来たらどうなるのか?」という問いかけをしているのだ。(そしてこの問題はおそらく「3」で描かれている)
とはいえ、今回のところはウッディはアンディの元に帰ってきた。修理師の修繕した腕は完璧だったが、ウッディにとってはアンディは修復してくれた太めの腕の方が「喜び」を与えれくれる。将来(アンディの成長)を意識しつつもあえて「今はこれで良い」と言ったウッディ。完璧である。
ピクサーの映画を見ると、シナリオにおいて「共感」がいかに重要かを改めて感じることが出来る。ドキドキハラハラしたシーンも、結局は「そのキャラが助かって欲しい」という感情が無ければ楽しむことはできない。
ただ、全く無駄の無いピクサーのシナリオにおいて、今回は「二体目のバズ」があまり有効に機能しているように思えなかった。二体バズが必要だった意味は何だったんだろう…。あと、スター・ウォーズのパロをやり過ぎてそこまで入れないでも…?という気がしないでもなかった。今(2018年)となっては同じ会社になっちゃったなあ~という笑い話にはなるかもだけど。
「3」があんまりにも待ち遠しくて一気に見てしまおうかと思ったけど、ぐっとこらえて来週にする。約束された最高映画「3」をこんなに一気呵成に見てしまっては勿体ないだろう。
いや、ほんとさ!そうなんだよ!!あのプロスペクターじいさんは「箱」に入ってるから品物の「格」としては上なんだよな。特にオタクにとっては箱に入ってた方が「嬉しい」訳じゃん。おれにもその気持ちが凄く良く分かる。だから、あの「箱」に関しては「そうなんだ」位にしか思ってなかった。でもさ~、違うんだよな~!!あの「箱」って要素がめちゃくちゃ上手く機能してるんだよな。
まず、箱に入ってるって事はウッディやジェシーの様に「子供と遊んだ幸せな記憶」が無いんだ。あの「不幸」が描かれているジェシー(後述)ですらも、その「不幸」はエミリーと遊んだという幸せな記憶の上に成り立っている。だからジェシーはウッディが最終的にアンディの元に帰るのを止めはしない。自分は捨てられてしまったが、待っている子供がいてくれるのなら、帰るべきだという事を経験で理解しているからだ。
でもプロスペクターは違う。その記憶が「無い」んだ。生まれてから箱の中から出されて遊ばれたことがなく、ずっと在庫処分に並んでいた。もうさ、プロスペクターが在庫処分に並んでるってところで本当にシビれるよな。マジで売れ残りそうなポジションしてんだよ、プロスペクター…!
そのずっと虐げられていたプロスペクターが「マニアの展示品になる」というオモチャ本来の役割から外れることになったとしても、「自分を必要とされたい」という気持ちからウッディを強制的に引き留めようとする気持ちも痛いほど分かる…。必要とされてえよなあ…!!分かるよ…!!しかもその条件がウッディやジェシーが揃ってる事ってのも泣けるよな…!自分だけじゃ需要が無いんだぜ…??だから、必死でウッディを引き留めてるんだ、泣ける。泣けるよプロスペクター…!!
でも、プロスペクターはある意味で可哀想な奴だったからちゃんと救いもあったと思うんだよな。ラスト、顔にいたずら書きしちゃう女の子の元に運ばれて、プロスペクター自身はイヤな顔してるんだけど、彼はようやく「箱」の中から出て子供の元に「おもちゃ」として存在する事が出来たんだ。箱越しの「コレクション」ではなく、「おもちゃ」本来の役割が果たせるんだ。それはきっと、彼にとっては幸福なことなんじゃないかな。
対して「盗み」という正真正銘の悪事を行ったアルは精神崩壊??の末に店のおもちゃを全品1ドルで放出するという「末路」を辿っている。この映画での悪役はこの二人だったと思うけど、ラストの描かれ方がこうも違う。やっぱり、スタッフとしてもプロスペクターには同情の余地アリと判断されたんじゃないかなあ。
ジェシーの描かれ方も良かった。まずは陽気な新キャラとして登場するものの、ウッディが自分の家に帰ろうとすると「暗闇が怖い」と言ったのが良かった。暗闇、怖いよね。そう、この「暗闇が怖い」という単純な理由は、それ故にシンプルだ。彼女に関してはあの時点ではまだ出たての新キャラだ。その彼女の内面から発せられる理由よりも「暗闇が怖い」という普遍的な理由に根拠を置いた方が感情移入がしやすい。
それからしばらくたって、ジェシーの描写時間が増えてから、ジェシーのトラウマを描く。仲の良かった、ずっと遊んでくれると思っていたエミリーとの別れ。めちゃくちゃ泣ける。というか、トイ・ストーリー全体に言える事なんだけど、「忘れていたあのころ大切だったおもちゃ」という誰もが持っている記憶にダイレクトに訴えているのがこの作品の最大のキモなんだ。誰もが強い共感を得られる題材。これを手にした瞬間に、その作品は成功が約束されるといっていい。共感は感情移入を生み、感情移入は感動を呼ぶからだ。
ジェシーとエミリーの話は来るべきウッディとアンディの別れも示唆している。今回もウッディは「アンディの元に戻る」という動機の元に行動をしているけれど、その根本、もしこの先「アンディがウッディを必要としないときが来たらどうなるのか?」という問いかけをしているのだ。(そしてこの問題はおそらく「3」で描かれている)
とはいえ、今回のところはウッディはアンディの元に帰ってきた。修理師の修繕した腕は完璧だったが、ウッディにとってはアンディは修復してくれた太めの腕の方が「喜び」を与えれくれる。将来(アンディの成長)を意識しつつもあえて「今はこれで良い」と言ったウッディ。完璧である。
ピクサーの映画を見ると、シナリオにおいて「共感」がいかに重要かを改めて感じることが出来る。ドキドキハラハラしたシーンも、結局は「そのキャラが助かって欲しい」という感情が無ければ楽しむことはできない。
ただ、全く無駄の無いピクサーのシナリオにおいて、今回は「二体目のバズ」があまり有効に機能しているように思えなかった。二体バズが必要だった意味は何だったんだろう…。あと、スター・ウォーズのパロをやり過ぎてそこまで入れないでも…?という気がしないでもなかった。今(2018年)となっては同じ会社になっちゃったなあ~という笑い話にはなるかもだけど。
「3」があんまりにも待ち遠しくて一気に見てしまおうかと思ったけど、ぐっとこらえて来週にする。約束された最高映画「3」をこんなに一気呵成に見てしまっては勿体ないだろう。
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2018 |
11,04 |
「II」でマフィアとして確固たる地位と権力を保持しつつも兄のフレドを暗殺し、嫁からも恐れられ、子供も離れてしまったマイケル。正直、2のラストはあまりにもマイケルに救いが無さ過ぎて、まあ、もちろんマフィアという稼業上、それで幸せをつかみました!悪行、サイコー!!という語り口もどうなんだろう…となるので、あのラストは仕方のない面はあるとは思うものの、やっぱり、孫と戯れて穏やかに逝ったヴィトーに比べてマイケルがあまりにも可哀想だったな…というのが正直な感想だったので、マイケルの晩年を描いた3では、ちょっとこう…救いみたいなものがあるのかなと思ってたんだけど、いやあ~、全然でしたね!
3において描かれた死のシーンにおいても結局マイケルは全く救われておらず、それどころか緑と光に囲まれて孫と戯れながら死んでいたヴィトーの晩年と対比するまでも無く、廃墟で寂しく、痩せた犬が一匹だけ傍らにいる状態で死んだマイケルはあまりにも寂しい。これが血の粛清を続けて来たマイケルの代償なのだろう。
作品として見ると「2」での主題(マフィアやってても幸福になれない)が「3」でも再度語られたような状況になっており、「別にこれ3なくても良かったのでは…?」という気持ちになるのだけど、もともと「3」はナンバリングタイトルではなく、1・2の後日談としてマイケルの内面を語った外伝的に作成された物語という事で、ある程度の納得はできる。
確かに今回の作中で幾度となくマイケルはフレドの暗殺をずっと後悔していた事が明らかになったのは良かったと思う。正直、フレドの事など毛ほども気に留めずに暗殺した(「2」のマイケルの冷徹さならありえる)ものだと思っていたのだけど、どうやらそうではなかったらしい。もしくは時間の経過とともに自分のした事(ヴィトーが決してやらなかったであろう身内(血縁)の粛清)の重大さを身に染みて感じていったのかもしれない。
2で辣腕を振るっていたマイケルも、晩年になり病気を患い過去を思い起こすことが多くなったのかもしれない。ケイとの関係修復を試みたのもその一環だろう。
しかし、ゴットファーザーは本当に悪い癖があるんだけど、過去の重要キャラを告知無しで消さないでほしい。いや、これはもちろん「出演者」というものが存在する映画である以上仕方のない事なのかもしれないけど、それにしたって、トムほどの重要キャラをサラッと退場させないでほしい。息子は出ていたけど、それはそれとしてトムが死んだなら死んだともっとハッキリと言っておいて欲しかった。おかげで中盤くらいまで「トムどうしたんだろう…」って思いながら見るハメになってしまった。
トムはどう考えてもこの作品におけるマイケルの次くらいに重要なキャラであったはずで、2のマイケルがギリギリ人としてのタガを持てていたのはトムの存在によるところが大きい。たとえ死亡したという設定であっても、「トムが居てくれれば…」くらいのセリフがあっても良かったと思う。
2の時もクレメンザが唐突に消えて、クレメンザのシマを引き継いだのがフランクなんだけど、あの時もどうかと思ったんだよな…。ただ、フランクの時は裏切りで行ったり来たりする人物だったので、あの役をクレメンザにやらせるのはどうかな…?と思案した結果のキャラ交代として考えればギリギリ分からなくもなかったのだけど、今回のトムの突然の失踪はかなりマイナスだったと思う。
回想のラスト、マイケルと共に踊った過去の女性たちケイ、アポロニア、メアリーの全員がマイケルの元から去って行っていた(ケイ、メアリーは暗殺で死亡。メアリーを失うことになったケイとの関係修復は不可)のはあまりにも寂しい。やはりマイケルに必要だったのはパートナーだったのではないだろうか。
トムさえ生きていれば、最晩年をあそこまで寂しく過ごすこともなかった。作中人物が言ってくれなくても、おれが言うよ。「トムが居てくれれば…」と。
3において描かれた死のシーンにおいても結局マイケルは全く救われておらず、それどころか緑と光に囲まれて孫と戯れながら死んでいたヴィトーの晩年と対比するまでも無く、廃墟で寂しく、痩せた犬が一匹だけ傍らにいる状態で死んだマイケルはあまりにも寂しい。これが血の粛清を続けて来たマイケルの代償なのだろう。
作品として見ると「2」での主題(マフィアやってても幸福になれない)が「3」でも再度語られたような状況になっており、「別にこれ3なくても良かったのでは…?」という気持ちになるのだけど、もともと「3」はナンバリングタイトルではなく、1・2の後日談としてマイケルの内面を語った外伝的に作成された物語という事で、ある程度の納得はできる。
確かに今回の作中で幾度となくマイケルはフレドの暗殺をずっと後悔していた事が明らかになったのは良かったと思う。正直、フレドの事など毛ほども気に留めずに暗殺した(「2」のマイケルの冷徹さならありえる)ものだと思っていたのだけど、どうやらそうではなかったらしい。もしくは時間の経過とともに自分のした事(ヴィトーが決してやらなかったであろう身内(血縁)の粛清)の重大さを身に染みて感じていったのかもしれない。
2で辣腕を振るっていたマイケルも、晩年になり病気を患い過去を思い起こすことが多くなったのかもしれない。ケイとの関係修復を試みたのもその一環だろう。
しかし、ゴットファーザーは本当に悪い癖があるんだけど、過去の重要キャラを告知無しで消さないでほしい。いや、これはもちろん「出演者」というものが存在する映画である以上仕方のない事なのかもしれないけど、それにしたって、トムほどの重要キャラをサラッと退場させないでほしい。息子は出ていたけど、それはそれとしてトムが死んだなら死んだともっとハッキリと言っておいて欲しかった。おかげで中盤くらいまで「トムどうしたんだろう…」って思いながら見るハメになってしまった。
トムはどう考えてもこの作品におけるマイケルの次くらいに重要なキャラであったはずで、2のマイケルがギリギリ人としてのタガを持てていたのはトムの存在によるところが大きい。たとえ死亡したという設定であっても、「トムが居てくれれば…」くらいのセリフがあっても良かったと思う。
2の時もクレメンザが唐突に消えて、クレメンザのシマを引き継いだのがフランクなんだけど、あの時もどうかと思ったんだよな…。ただ、フランクの時は裏切りで行ったり来たりする人物だったので、あの役をクレメンザにやらせるのはどうかな…?と思案した結果のキャラ交代として考えればギリギリ分からなくもなかったのだけど、今回のトムの突然の失踪はかなりマイナスだったと思う。
回想のラスト、マイケルと共に踊った過去の女性たちケイ、アポロニア、メアリーの全員がマイケルの元から去って行っていた(ケイ、メアリーは暗殺で死亡。メアリーを失うことになったケイとの関係修復は不可)のはあまりにも寂しい。やはりマイケルに必要だったのはパートナーだったのではないだろうか。
トムさえ生きていれば、最晩年をあそこまで寂しく過ごすこともなかった。作中人物が言ってくれなくても、おれが言うよ。「トムが居てくれれば…」と。
2018 |
10,21 |
ようやくというか、なんというか「まだ見たことなかったの!?よく回避して生きてこられたな!?」って感じだと思うんですけど、マジで今年に入るまで全然映画を見る人じゃなかったので…。
今見ると、さすがに人間のキャラのCGには厳しさを感じるけど、おもちゃたちに関しては違和感はほとんどない。やはり人間をCGで違和感なく作るのは難しいのだ。この映画のメインキャラクターにおもちゃが採用されているのはそういった面もあるのだと思う。
という訳でトイ・ストーリー。う~ん、すごい。全編ハラハラドキドキの81分。は、81分!?体感時間は短いのに、濃厚なメッセージとストーリーが詰まっている。久々にキッズアニメを見たからか、感情移入がしやすくてすごい見やすい。そして面白い。前々から思ってたけど、ストーリーテリングの技術はキッズ向け映画の方が優れてるように感じるんだよな。
「子供でも分かる様に、飽きさせないようにする工夫」というのはそのまま映画の「面白さ」を伝える努力に直結してるように思う。いくつもの思惑が交錯し、劇中で語られない設定があり、映画を見た後にあらすじを読んでようやく、「ああ、あれそういう事だったのか…」と気付くようじゃダメなんだ。いや、これはその…もちろん、見てる自分の理解力が足りていない場合も多くあるので、製作者側を一方的に非難してる訳じゃないんだけど、子供向けの方がそういった方面に力を入れていて作るのが難しいというのはあると思う。
「子供だまし」という言葉は二面性を持っていて、確かに子供は単純でなんでも信じてくれるところはある。でも、そこに甘えず真摯に分かりやすく、面白さを伝えようという努力を続けている作品もある…というか、そういう作品の方が多いという事を忘れてはいけない。
81分という極めて短い中に収めるため、カットするところは徹底的にカットされている。例えば、シドなんていう悪ガキを置いたなら、アンディの事をいじめてそうな設定もありそうなものだけどそれをやりだすと尺が長くなってしまうので、隣同士の家であるにも関わらず関係は完全カット。深めるところと切るところのメリハリをつけて、見せたいとおもうテーマに焦点を絞る。これも見やすさ、分かりやすさに繋がっている。
劇中のバズのCM、めちゃくちゃいい。あれの煽り方はすごいバズのおもちゃが欲しくなる。バズ・ライトイヤー!!バズ・ライトイヤー!!
バズの存在はしっていたけど、まさか一作目から登場しているとは思わなかった。いや、ほら、一作目とか「オモチャって誰も見てない所では動いてるんですよ」という設定だけでも一作なんかやれそうじゃん?そのネタで持たせるのは最初の10分足らずで、それが過ぎたら「バズ」という新人がやってきて、それまで持ち主のアンディの寵愛を一身に受け、リーダーとして仲間からの信頼も篤かったアンディの苦悩と嫉妬を描く…というこのスピード感がすごい。このアンディの悩みは現実世界にも直結する悩みにもなる。
つまるところ、キッズ目線で言えば新しいお友達が来て、それまでの自分の友達とかがとられちゃったりしてなんか面白くない…という状況は往々にしてあることだろう。大人だって起こる。いや、正直言うと子供よりも大人の方が人間関係の入れ替わりが激しい職場や環境に居る人も多いだろう。そういう事が起こった時、どうやって自分の気持ちに折り合いを付ければ良いのか?そういった繊細な問題を、オモチャという世界を通じて自然と考えさせてくれるようになっているのだ。
確かにバズが来なければウッディの「世界」は平和そのものだっただろう。穏やかな日々が続いていたとは思う。ただ、クリスマスや誕生日が来るたびに新しい「侵略者」におびえる日々を過ごさなければならなかったのも事実だ。今回、バズが来たことでウッディの世界は一度崩壊した。しかし、その体験を乗り越えたことでどんな新人でも迎え入れることが出来るようになったのだ。
ラストのクリスマス。最初のシーンと対比するように穏やかな表情で…とはいかないまでも、不安はあるけれど、それでも最初の様な徒な不安は抱いていないウッディ。年に二回来る「不安」が取り除かれた真に平和な世界を彼は手に入れたのだ。最高の相棒と共に。
今見ると、さすがに人間のキャラのCGには厳しさを感じるけど、おもちゃたちに関しては違和感はほとんどない。やはり人間をCGで違和感なく作るのは難しいのだ。この映画のメインキャラクターにおもちゃが採用されているのはそういった面もあるのだと思う。
という訳でトイ・ストーリー。う~ん、すごい。全編ハラハラドキドキの81分。は、81分!?体感時間は短いのに、濃厚なメッセージとストーリーが詰まっている。久々にキッズアニメを見たからか、感情移入がしやすくてすごい見やすい。そして面白い。前々から思ってたけど、ストーリーテリングの技術はキッズ向け映画の方が優れてるように感じるんだよな。
「子供でも分かる様に、飽きさせないようにする工夫」というのはそのまま映画の「面白さ」を伝える努力に直結してるように思う。いくつもの思惑が交錯し、劇中で語られない設定があり、映画を見た後にあらすじを読んでようやく、「ああ、あれそういう事だったのか…」と気付くようじゃダメなんだ。いや、これはその…もちろん、見てる自分の理解力が足りていない場合も多くあるので、製作者側を一方的に非難してる訳じゃないんだけど、子供向けの方がそういった方面に力を入れていて作るのが難しいというのはあると思う。
「子供だまし」という言葉は二面性を持っていて、確かに子供は単純でなんでも信じてくれるところはある。でも、そこに甘えず真摯に分かりやすく、面白さを伝えようという努力を続けている作品もある…というか、そういう作品の方が多いという事を忘れてはいけない。
81分という極めて短い中に収めるため、カットするところは徹底的にカットされている。例えば、シドなんていう悪ガキを置いたなら、アンディの事をいじめてそうな設定もありそうなものだけどそれをやりだすと尺が長くなってしまうので、隣同士の家であるにも関わらず関係は完全カット。深めるところと切るところのメリハリをつけて、見せたいとおもうテーマに焦点を絞る。これも見やすさ、分かりやすさに繋がっている。
劇中のバズのCM、めちゃくちゃいい。あれの煽り方はすごいバズのおもちゃが欲しくなる。バズ・ライトイヤー!!バズ・ライトイヤー!!
バズの存在はしっていたけど、まさか一作目から登場しているとは思わなかった。いや、ほら、一作目とか「オモチャって誰も見てない所では動いてるんですよ」という設定だけでも一作なんかやれそうじゃん?そのネタで持たせるのは最初の10分足らずで、それが過ぎたら「バズ」という新人がやってきて、それまで持ち主のアンディの寵愛を一身に受け、リーダーとして仲間からの信頼も篤かったアンディの苦悩と嫉妬を描く…というこのスピード感がすごい。このアンディの悩みは現実世界にも直結する悩みにもなる。
つまるところ、キッズ目線で言えば新しいお友達が来て、それまでの自分の友達とかがとられちゃったりしてなんか面白くない…という状況は往々にしてあることだろう。大人だって起こる。いや、正直言うと子供よりも大人の方が人間関係の入れ替わりが激しい職場や環境に居る人も多いだろう。そういう事が起こった時、どうやって自分の気持ちに折り合いを付ければ良いのか?そういった繊細な問題を、オモチャという世界を通じて自然と考えさせてくれるようになっているのだ。
確かにバズが来なければウッディの「世界」は平和そのものだっただろう。穏やかな日々が続いていたとは思う。ただ、クリスマスや誕生日が来るたびに新しい「侵略者」におびえる日々を過ごさなければならなかったのも事実だ。今回、バズが来たことでウッディの世界は一度崩壊した。しかし、その体験を乗り越えたことでどんな新人でも迎え入れることが出来るようになったのだ。
ラストのクリスマス。最初のシーンと対比するように穏やかな表情で…とはいかないまでも、不安はあるけれど、それでも最初の様な徒な不安は抱いていないウッディ。年に二回来る「不安」が取り除かれた真に平和な世界を彼は手に入れたのだ。最高の相棒と共に。
メッセージ性とストーリー構成、そしてエンターテイメント性の極めて高いレベルの融合、ピクサーの神髄はすでに完成されていた。
2018 |
10,20 |
200分に渡る超大作である。それもそのはず、「ヴィトーがゴッドファーザーとしてのし上がるまで」(過去編)と「ゴッドファーザーを引き継いだマイケルのその後」(現代編)の二本の軸が同時に展開していくので、「続編」として描かれることが良くあるシチュエーションの映画二本分がぎゅっと凝縮されているのだ。そのため、間延び感はあまりない。一本当たりだと100分になるのでそこそこ普通程度の長さになる。
ヴィトーの過去で2、マイケルのその後で3という分け方でも十分映画としては「持った」とは思うけど、同時展開する事で映画のテーマは確かにくっきりと浮かび上がってくる。つまり、ヴィトーとマイケルの対比だ。
ゴッドファーザーとしてどんどんのし上がり、仲間も家族も増えていくヴィトーとゴッドファーザーとしての権力を維持するために裏切った仲間を抹殺し、妻からも去られていくマイケル。
ケイの、「身ごもっていたマイケルの子供を産みたく無さ過ぎて堕ろした」という告白は衝撃的だった。ヴィトーの妻カルネラがヴィトー亡き後もファミリーの絆として機能していたのとはあまりにも対照的だ。
やはり、2は殺伐としすぎていたように思う。1のコルレオーネファミリーにあった「暖かさ」の様なものが一切失われていた。ラストシーン、過去編と現代編がマイケルの回想の中で交わるヴィトーのある誕生日のシーン、家族に暖かく迎えられるヴィトーとついに実の兄であるフレドを暗殺し、トム以外の家族(子供以外)を失い部屋の中で一人になるマイケルのシーンも印象的だった。(あれっ、コニーは生きてたか…)
結局のところ、ヴィトーのマイケルに跡目を継がせたくない( = マフィアとして生きても幸せにはなれない)という予測は当たってしまった形になった。もちろん、マイケルは全く善人ではないので因果応報と言えばそれまでだ。ただ、犯罪に手を染めていたのはヴィトーも同じ。二人が生きた時代が違うといえばそれまでだが、やはりその決定的な違いは「家族への愛」だったと思う。ヴィトーは息子の病気を心配そうに見つめ、マイケルはクリスマスプレゼントをトムに任せていた。細かい点だが、こういった積み重ねが対比となっていったのだと思う。
ヴィトーが「家族」を守るために作った「ファミリー」。その「ファミリー」を守る(発展)させるために「家族」(フレド)を殺したマイケル。ここが二人の決定的な違いであり、ラストシーンの対比に繋がったのだろう。
ヴィトーの過去で2、マイケルのその後で3という分け方でも十分映画としては「持った」とは思うけど、同時展開する事で映画のテーマは確かにくっきりと浮かび上がってくる。つまり、ヴィトーとマイケルの対比だ。
ゴッドファーザーとしてどんどんのし上がり、仲間も家族も増えていくヴィトーとゴッドファーザーとしての権力を維持するために裏切った仲間を抹殺し、妻からも去られていくマイケル。
ケイの、「身ごもっていたマイケルの子供を産みたく無さ過ぎて堕ろした」という告白は衝撃的だった。ヴィトーの妻カルネラがヴィトー亡き後もファミリーの絆として機能していたのとはあまりにも対照的だ。
やはり、2は殺伐としすぎていたように思う。1のコルレオーネファミリーにあった「暖かさ」の様なものが一切失われていた。ラストシーン、過去編と現代編がマイケルの回想の中で交わるヴィトーのある誕生日のシーン、家族に暖かく迎えられるヴィトーとついに実の兄であるフレドを暗殺し、トム以外の家族(子供以外)を失い部屋の中で一人になるマイケルのシーンも印象的だった。(あれっ、コニーは生きてたか…)
結局のところ、ヴィトーのマイケルに跡目を継がせたくない( = マフィアとして生きても幸せにはなれない)という予測は当たってしまった形になった。もちろん、マイケルは全く善人ではないので因果応報と言えばそれまでだ。ただ、犯罪に手を染めていたのはヴィトーも同じ。二人が生きた時代が違うといえばそれまでだが、やはりその決定的な違いは「家族への愛」だったと思う。ヴィトーは息子の病気を心配そうに見つめ、マイケルはクリスマスプレゼントをトムに任せていた。細かい点だが、こういった積み重ねが対比となっていったのだと思う。
ヴィトーが「家族」を守るために作った「ファミリー」。その「ファミリー」を守る(発展)させるために「家族」(フレド)を殺したマイケル。ここが二人の決定的な違いであり、ラストシーンの対比に繋がったのだろう。
2018 |
10,13 |
「なんか面白い映画教えて」と言ったら教えてもらえたので見てみた映画。なるほど、確かに最後の展開にはビックリした。ネタバレを知らずにこのラストに辿り着けて良かったという感じである。
とりあえず、見る前から「なんか伏線とかすごいよ」とは聞かされていたので、とりあえず状況の把握が出来るように頑張って見ていた。ラストにどんでん返しが待っていても、「それに何の意味があるのか」が理解できていないと「どんでん返しをどんでん返しとして認識できない」というとても悲しい事態になってしまう。
それにしても、自分があまり映画を見ないで、アニメや漫画を主に消化してきたためだとは思うんだけど、映画は本当に展開が早い。映画一本見終わっても覚えられたキャラの名前が2、3人というのはザラ。そんな状態なので、それぞれのキャラがどんな目的を持っていて、何がしたいのかを整理しながらストーリーを追うのはかなり難しい。
この作品もせいぜいキートンがお金を得て前科から逃れたいんだろうな…という事くらいしか見てる間は分からなかった。残りの四人に関しては、同じようになんか前科があるんだろうな…程度の把握である。それにしても、重要人物の「キートン」と裏の主人公である「キトン」の名前が似てるのはなんとかならなかったんだろうか…。コバヤシが呼ぶまで「キトン」の名前を把握してなかったせいで「キートン」の名前を日本語なまり(?)で呼んでいるのかと思ってしまった。文字(字幕)で見ていても混乱するのだから音だけで見てる場合にはもっと混乱しそうだった。
中盤から「カイザー・ソゼ」の正体探しが主な目的となっていく。
「ユージュアル・サスペクツ」がちゃんと上手かったのは「キートン = カイザー」という展開(キートンの自作自殺)で終わっていたとしても、キントの扱い(キートンに騙されていて、キントが生かされたのはただ自分の「死」を証言させるためであり、友情などではなかった)という点においてちゃんと「オチ」があるところだと思う。
その「一度終わった」話をラストで猛烈に掘り返し、そうではなく、そもそも「キント = カイザー」だった場合、客観的に見るとあれだけの大事故の中、傷一つ受けずに無事に生き残ってるキントだけが明らかに「得」をしているのが分かる、という点である。被害者の様な顔をしておきながら、最終的に勝っていたのはキントなのだ。
映像の叙述トリックとでも言うべき画作りも上手い。
キートンが「他の誰か」に撃たれたシーンは冒頭に流れるのだけど、キントの証言を再現したバージョンでは「キートンが撃った」事になっている。もちろん、冒頭で流れたシーンで撃たれているのがキートンなのは明白なのだけど、それはそれとして、「映画的な」作りとして真実ではこうでした、とキントの証言で生まれた「キートンが撃った」映像が実際に流される。
しかし、「キント = カイザー」となった場合、本当の本当はやっぱりあの冒頭のキートンが「他の誰か」に撃たれたシーンこそが真実という事になると同時に、この映画の大部分を占めるキントの証言による「事件の全貌」がただの虚偽であったという可能性も示唆するのである。
この作品における「どんでん返し」とは、単に「キント = カイザー」というだけではなく、「この話自体がキントの作り話かもしれない」という点なのだ。
見た後でwiki見て分かったけど、クイヤンが真実に気が付いたのはキントの証言に出てくる単語が壁に貼ってある別の事件の資料やカップに記載されていたものを流用しただけ = すべてデタラメという流れらしい。う、うーん、あのシーンの意図は…おれには分からなかった…すまない…。分かった後に聞けば「なるほどね」という感じではあるのだけど…。
これが漫画とかなら「なんてこった!ヤツの証言に出てくる単語はすべて…部屋の中の…!全部デタラメだったんだ…!!」とか言ってくれるはずなんだよな。ただ、それをいう事が「正解」なのかというと、そこまで言ったらヤボかな~という判断もあると思うので、一概に正解とは言えない…とは思う。
ただ、この場面はこの作品を理解するためのキモ中のキモなので、もうちょっとこう…優しさがあってもよかったな…とは思う。
とりあえず、見る前から「なんか伏線とかすごいよ」とは聞かされていたので、とりあえず状況の把握が出来るように頑張って見ていた。ラストにどんでん返しが待っていても、「それに何の意味があるのか」が理解できていないと「どんでん返しをどんでん返しとして認識できない」というとても悲しい事態になってしまう。
それにしても、自分があまり映画を見ないで、アニメや漫画を主に消化してきたためだとは思うんだけど、映画は本当に展開が早い。映画一本見終わっても覚えられたキャラの名前が2、3人というのはザラ。そんな状態なので、それぞれのキャラがどんな目的を持っていて、何がしたいのかを整理しながらストーリーを追うのはかなり難しい。
この作品もせいぜいキートンがお金を得て前科から逃れたいんだろうな…という事くらいしか見てる間は分からなかった。残りの四人に関しては、同じようになんか前科があるんだろうな…程度の把握である。それにしても、重要人物の「キートン」と裏の主人公である「キトン」の名前が似てるのはなんとかならなかったんだろうか…。コバヤシが呼ぶまで「キトン」の名前を把握してなかったせいで「キートン」の名前を日本語なまり(?)で呼んでいるのかと思ってしまった。文字(字幕)で見ていても混乱するのだから音だけで見てる場合にはもっと混乱しそうだった。
中盤から「カイザー・ソゼ」の正体探しが主な目的となっていく。
「ユージュアル・サスペクツ」がちゃんと上手かったのは「キートン = カイザー」という展開(キートンの自作自殺)で終わっていたとしても、キントの扱い(キートンに騙されていて、キントが生かされたのはただ自分の「死」を証言させるためであり、友情などではなかった)という点においてちゃんと「オチ」があるところだと思う。
その「一度終わった」話をラストで猛烈に掘り返し、そうではなく、そもそも「キント = カイザー」だった場合、客観的に見るとあれだけの大事故の中、傷一つ受けずに無事に生き残ってるキントだけが明らかに「得」をしているのが分かる、という点である。被害者の様な顔をしておきながら、最終的に勝っていたのはキントなのだ。
映像の叙述トリックとでも言うべき画作りも上手い。
キートンが「他の誰か」に撃たれたシーンは冒頭に流れるのだけど、キントの証言を再現したバージョンでは「キートンが撃った」事になっている。もちろん、冒頭で流れたシーンで撃たれているのがキートンなのは明白なのだけど、それはそれとして、「映画的な」作りとして真実ではこうでした、とキントの証言で生まれた「キートンが撃った」映像が実際に流される。
しかし、「キント = カイザー」となった場合、本当の本当はやっぱりあの冒頭のキートンが「他の誰か」に撃たれたシーンこそが真実という事になると同時に、この映画の大部分を占めるキントの証言による「事件の全貌」がただの虚偽であったという可能性も示唆するのである。
この作品における「どんでん返し」とは、単に「キント = カイザー」というだけではなく、「この話自体がキントの作り話かもしれない」という点なのだ。
見た後でwiki見て分かったけど、クイヤンが真実に気が付いたのはキントの証言に出てくる単語が壁に貼ってある別の事件の資料やカップに記載されていたものを流用しただけ = すべてデタラメという流れらしい。う、うーん、あのシーンの意図は…おれには分からなかった…すまない…。分かった後に聞けば「なるほどね」という感じではあるのだけど…。
これが漫画とかなら「なんてこった!ヤツの証言に出てくる単語はすべて…部屋の中の…!全部デタラメだったんだ…!!」とか言ってくれるはずなんだよな。ただ、それをいう事が「正解」なのかというと、そこまで言ったらヤボかな~という判断もあると思うので、一概に正解とは言えない…とは思う。
ただ、この場面はこの作品を理解するためのキモ中のキモなので、もうちょっとこう…優しさがあってもよかったな…とは思う。
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