2020 |
09,26 |
うおお…これは……。なるほど、「ラストがつらい」とは聞いてたけどこういう辛さかあ…。でもなんていうか「胸糞」ってよく書かれてたけど「胸糞」とはちょっと違う気がする。どっちかというと「こういうことってあるよね…」という共感の方が強かった。
ラストのウワサ以外はほとんど知らずに見たので、途中から普通に化け物が出てきて驚いた。確かに流石に「なんかスーパーマーケットの周りに霧が立ち込めてきて不気味」という要素だけでは二時間は引っ張れなかったか。化け物もほぼ舞台装置のようなものなので、あれを全滅する事で解決する類の作品ではないなと思ってしまうと化け物とのアクションシーンがほぼプロレスに見えてしまう部分もあるかもしれない。
「霧」と「化け物」に隔絶されたスーパーマーケットは社会の縮図といったところなのだろう。そして社会を統治するには「宗教」か「政治」しかなく、そのどれにもたよらず自分の信念を貫いて生きていくにはアウトローになるしかない。主人公たちは最終的にアウトローとなった。
「政治」の代表として出てきたであろう弁護士のノートンは事態を異様さを飲み込めず、そのままリタイアしてしまった。非常事態時において臨機応変に対応できないと政治には何の力もないといったところか。政治VS宗教の戦いはミストの中においては宗教に圧倒的な軍配があがったようだ。
「宗教」の強い所は「霧の中に化け物が居る」という事実が確定した後でも、その化け物ですらも自分たちの「味方」に出来る所だろう。ノートンとの議論だった「化け物がいるかいないか」では「化け物はいる」で確定したが、その化け物が「神による罰か否か」という部分は最後まで結論を出すことが出来なかった。
こういった「結論を出すことが出来ない」事柄に対して半ば一方的に「こうだ」という結論を示してやる事で人々に「安心感」を与える、まさに「宗教」の根源部分がこの映画には描かれている。通常時の正常な思考なら多角的な考え方も出来るだろうけど、この非常事態において思考停止で信じられる存在というのはとてつもなく魅力的に映ってしまう。通常時では「狂人」だったカーモディが異常事態では「聖人」となり、逆に主人公たちこそ「狂人」となる。誰もがジムになる可能性はあると思う。
カーモディのヒステリック気味な演説と、着々と自分の「王国」を築いていく様子はこの作品で一番の「胸糞」とも言えるシーンだったので、オリーがぶっ殺してくれた時は正直胸がすっとした。とはいえ、「教祖の暗殺」は宗教においてかなりの悪手ではある。宗教は教祖が死ぬことによって完成するからだ。あの後、速攻で軍隊が来て事態が解決したから良いものの、あのままだったら多分カーモディは「教祖」として崇められ続けていただろう。
ラストは本当に…切ない…。これを見て「デヴィッドもうちょっと頑張れば救われたのになあ」とは口が裂けても言えない。本当に数秒前まではこの事態が永遠に続いていたもなにも不思議ではなかった。しかし、これはスーパーマーケットから脱出し、嫁のステファニーの死を確認してしまったのが大きい。
ステファニーの死を確認するまでもデヴィッドは何が何でもビリーと嫁を再会させることを第一に頑張ってきた。それが永遠に叶わないと悟った時、「次」の目標であるビリーとの約束(ビリーを怪物に殺させない)を守る=「ビリーを自分の手で殺す」を遂行する方にシフトしてしまったのだろう。
「ステファニーに再会する」という具体的目標と「いつ晴れるとも分からない霧と戦い続ける」という終わりのない目標の間にはあまりも大きな差がある。
ラスト、一番最初に息子を助けるために霧に消えたおばさんが息子と一緒に米軍に助けられているという描写がある(解説見て知った)のは残酷すぎる。ちょっと納得いかない部分もある(化け物は霧から隔絶された空間にいれば襲われない=車では移動出来たという解釈だとおばさんどうやって助かったのか不明)けど、構図としては美しいのでまあ、文句はない。
このノリだとノートンも生きてそうなんだけど、ノートンは生死不明なんだよなあ。薬局に居た黒人はまた別人みたいだし。(最初はあれがノートンだと思ってたけど、解説見るとどうもそうじゃないらしい)
ラストのウワサ以外はほとんど知らずに見たので、途中から普通に化け物が出てきて驚いた。確かに流石に「なんかスーパーマーケットの周りに霧が立ち込めてきて不気味」という要素だけでは二時間は引っ張れなかったか。化け物もほぼ舞台装置のようなものなので、あれを全滅する事で解決する類の作品ではないなと思ってしまうと化け物とのアクションシーンがほぼプロレスに見えてしまう部分もあるかもしれない。
「霧」と「化け物」に隔絶されたスーパーマーケットは社会の縮図といったところなのだろう。そして社会を統治するには「宗教」か「政治」しかなく、そのどれにもたよらず自分の信念を貫いて生きていくにはアウトローになるしかない。主人公たちは最終的にアウトローとなった。
「政治」の代表として出てきたであろう弁護士のノートンは事態を異様さを飲み込めず、そのままリタイアしてしまった。非常事態時において臨機応変に対応できないと政治には何の力もないといったところか。政治VS宗教の戦いはミストの中においては宗教に圧倒的な軍配があがったようだ。
「宗教」の強い所は「霧の中に化け物が居る」という事実が確定した後でも、その化け物ですらも自分たちの「味方」に出来る所だろう。ノートンとの議論だった「化け物がいるかいないか」では「化け物はいる」で確定したが、その化け物が「神による罰か否か」という部分は最後まで結論を出すことが出来なかった。
こういった「結論を出すことが出来ない」事柄に対して半ば一方的に「こうだ」という結論を示してやる事で人々に「安心感」を与える、まさに「宗教」の根源部分がこの映画には描かれている。通常時の正常な思考なら多角的な考え方も出来るだろうけど、この非常事態において思考停止で信じられる存在というのはとてつもなく魅力的に映ってしまう。通常時では「狂人」だったカーモディが異常事態では「聖人」となり、逆に主人公たちこそ「狂人」となる。誰もがジムになる可能性はあると思う。
カーモディのヒステリック気味な演説と、着々と自分の「王国」を築いていく様子はこの作品で一番の「胸糞」とも言えるシーンだったので、オリーがぶっ殺してくれた時は正直胸がすっとした。とはいえ、「教祖の暗殺」は宗教においてかなりの悪手ではある。宗教は教祖が死ぬことによって完成するからだ。あの後、速攻で軍隊が来て事態が解決したから良いものの、あのままだったら多分カーモディは「教祖」として崇められ続けていただろう。
ラストは本当に…切ない…。これを見て「デヴィッドもうちょっと頑張れば救われたのになあ」とは口が裂けても言えない。本当に数秒前まではこの事態が永遠に続いていたもなにも不思議ではなかった。しかし、これはスーパーマーケットから脱出し、嫁のステファニーの死を確認してしまったのが大きい。
ステファニーの死を確認するまでもデヴィッドは何が何でもビリーと嫁を再会させることを第一に頑張ってきた。それが永遠に叶わないと悟った時、「次」の目標であるビリーとの約束(ビリーを怪物に殺させない)を守る=「ビリーを自分の手で殺す」を遂行する方にシフトしてしまったのだろう。
「ステファニーに再会する」という具体的目標と「いつ晴れるとも分からない霧と戦い続ける」という終わりのない目標の間にはあまりも大きな差がある。
ラスト、一番最初に息子を助けるために霧に消えたおばさんが息子と一緒に米軍に助けられているという描写がある(解説見て知った)のは残酷すぎる。ちょっと納得いかない部分もある(化け物は霧から隔絶された空間にいれば襲われない=車では移動出来たという解釈だとおばさんどうやって助かったのか不明)けど、構図としては美しいのでまあ、文句はない。
このノリだとノートンも生きてそうなんだけど、ノートンは生死不明なんだよなあ。薬局に居た黒人はまた別人みたいだし。(最初はあれがノートンだと思ってたけど、解説見るとどうもそうじゃないらしい)
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2020 |
09,19 |
前から見ようとは思ってたんですけど、様々な事情()があり急遽視聴、という感じ。
いきなりめちゃくちゃ個人的な話になっちゃうんだけど、子供の頃から結構転校で各地を転々としていてあまり自分の住んでいる地域に愛着とかがあまり無い人間なので、ちゃんと楽しめるかな…?という不安はあったけど、それは杞憂に終わったように思う。
魔夜峰央の描く荒唐無稽な煌びやかな世界を実写に落とし込んでいて、ビジュアル面の充実はすごかった。作り方を間違えると漫画世界ではともなく、実写ではちょっとでもチャチだとギャグにすらならず見るのも辛いひたすら「痛い」画面になってしまう。この画面作りを本気でやった上であのギャグをやるからこそ「受ける」のだ。
1mmでも深く考えるとハテナマークがいっぱい出てくる、その場のノリでしか考えられていないような刹那的なギャグや設定が大挙している。
例えば、「都会指数」という設定自体がむちゃくちゃで、冒頭の百美の「試験」も「アメリカ帰りだと都会指数が上がる」という設定と、「都会指数が高いなら東京の空気のテイスティングが可能」という設定が何もマッチしていなかったり(アメリカに居たのに東京の空気が分かる訳がない)、埼玉に入る際に通行手形が必要だからと千葉を経由するんだけど、千葉に入るのにも通行手形が必要なはずなのにそこの手形は持っていないなど気にしだしたらキリがない程ほぼほぼ勢いだけでストーリーが進んでいく。
まあ、「都会指数」というものがむちゃくちゃなのは「そもそもそんなものはまやかしなのだ」というメッセージがあるような気がしないでもない。
ただ、別に勢いで突っ走るタイプの作品ならそれはそれでいいと思うんだけど、最後に都知事の不正を暴く場面では「事前に千葉側と埼玉側の密約ありましたよ」という空気的にそういうやりとりあったんだろうなあ…感は十分にあったシーンをちゃんと描写するという気真面目さもあったりして良く分からない。あの回想、どう考えてもテンポが悪くなっただけな気がするんだけど…。
あとやっぱり、この作品がいくら荒唐無稽だからと言ってこれだけで二時間引っ張るのは流石に無理があると踏んだのか、この物語そのものを「神話」としてちょいちょい「現実世界」の描写として結納に向かうパートを入れて物語にセルフツッコミを入れつつ進行させたのは上手い手だったなと思う。ちゃんとラストのオチにも繋がってるし。
まあ、怖いもの見たさとしてこの「現実」パートなくひたすら神話だけで二時間突っ走ったら…それはそれで怪作が出来たとは思うけど、きっとここまでのヒットにはなってなかっただろうなあ。
いきなりめちゃくちゃ個人的な話になっちゃうんだけど、子供の頃から結構転校で各地を転々としていてあまり自分の住んでいる地域に愛着とかがあまり無い人間なので、ちゃんと楽しめるかな…?という不安はあったけど、それは杞憂に終わったように思う。
魔夜峰央の描く荒唐無稽な煌びやかな世界を実写に落とし込んでいて、ビジュアル面の充実はすごかった。作り方を間違えると漫画世界ではともなく、実写ではちょっとでもチャチだとギャグにすらならず見るのも辛いひたすら「痛い」画面になってしまう。この画面作りを本気でやった上であのギャグをやるからこそ「受ける」のだ。
1mmでも深く考えるとハテナマークがいっぱい出てくる、その場のノリでしか考えられていないような刹那的なギャグや設定が大挙している。
例えば、「都会指数」という設定自体がむちゃくちゃで、冒頭の百美の「試験」も「アメリカ帰りだと都会指数が上がる」という設定と、「都会指数が高いなら東京の空気のテイスティングが可能」という設定が何もマッチしていなかったり(アメリカに居たのに東京の空気が分かる訳がない)、埼玉に入る際に通行手形が必要だからと千葉を経由するんだけど、千葉に入るのにも通行手形が必要なはずなのにそこの手形は持っていないなど気にしだしたらキリがない程ほぼほぼ勢いだけでストーリーが進んでいく。
まあ、「都会指数」というものがむちゃくちゃなのは「そもそもそんなものはまやかしなのだ」というメッセージがあるような気がしないでもない。
ただ、別に勢いで突っ走るタイプの作品ならそれはそれでいいと思うんだけど、最後に都知事の不正を暴く場面では「事前に千葉側と埼玉側の密約ありましたよ」という空気的にそういうやりとりあったんだろうなあ…感は十分にあったシーンをちゃんと描写するという気真面目さもあったりして良く分からない。あの回想、どう考えてもテンポが悪くなっただけな気がするんだけど…。
あとやっぱり、この作品がいくら荒唐無稽だからと言ってこれだけで二時間引っ張るのは流石に無理があると踏んだのか、この物語そのものを「神話」としてちょいちょい「現実世界」の描写として結納に向かうパートを入れて物語にセルフツッコミを入れつつ進行させたのは上手い手だったなと思う。ちゃんとラストのオチにも繋がってるし。
まあ、怖いもの見たさとしてこの「現実」パートなくひたすら神話だけで二時間突っ走ったら…それはそれで怪作が出来たとは思うけど、きっとここまでのヒットにはなってなかっただろうなあ。
2020 |
08,16 |
陰湿、陰湿ゥ!
いや~、日本映画…。お前…最悪だな!なんというかあの、葬式での親戚の集まり、意味の無い時間が本当に苦痛で仕方のない自分の様な人間にとってはあの冒頭部分の「居心地の悪さ」のリアリティが最悪だったね(褒めてる)。こんなこと意識した事無かったけど、洋画とかだと絶対こんなシーンないじゃんね。こういう自国の「習慣」に根付いた描写って日本映画独特なものなんだなあと当たり前なんだけど改めて思ってしまった。
自分を良く見せようとばかりして虚栄にまみれている秀樹。結婚式も、私生活もブログも全てパリピ感、リア充感を演出するための道具に過ぎない。まあ、描写だけ見ると意図的に秀樹に悪印象を与えるだけのものにすぎないんだけど、ただ、なんというか「こういう感じの「リア充」な人間ってこんな風に自分偽って生きてばっかりなんでしょw」という陰キャの嫉妬がチラリとするような気がしないでもない。まあ、いいじゃん。自分の事を良く見せてその結果実際に自分がアガることだってあるしさ。もちろん秀樹は最悪だったけど。
原作小説では明らかにされているという秀樹が襲われる理由を結局隠し続けたのも個人的にはマイナス。もちろんそうする事によって「得体の知れなさ」を演出するという意図は分からなくはないし、結局明らかにされてもラスト付近だろうから見てる途中での「結局秀樹はなんで襲われてるんだろう…」というモヤモヤ感が解消されるわけじゃないんだけど、カタルシスが無いよね。
秀樹が空回りしていて痛々しいところとか、登場時からずっと香奈が追い詰められている描写とか(シングルマザー時代の店長のイヤミとかも)、人間の悪い所をイヤというほどに克明に描写していて全体的に鬱屈していた作品だからこそ、謎解きの爽快感は欲しかった。画面的には除霊シーンとかは派手だったけど、ストーリー上のギミック開放とそれは別の話だと思う。
それに一見元凶と思われていた秀樹が死んだあともストーリーが進むのって結局この霊が秀樹を襲っていた理由が秀樹の死によってでも「解消されてない」からなんでしょ?だから見てる側は秀樹が死んでも続く…これはこの後襲われる理由の謎が明らかになって、それを解決したら真のEDになるんだなってなるのが自然な流れだと思うので、それを明らかにするのは義務だと思う。推理モノで真犯人を明らかにしないまま終わる作品ある?という話である。あるかもしれんけど。
個人的にめちゃくちゃすごいと思ったのが、冒頭のシーンに繋がる箇所、秀樹が霊に殺されてしまう場面で秀樹が琴子の指示で部屋中の鏡を割り、刃物を隠していたのに、実はその指示をしていたのは霊自身で鏡と刃物は霊が苦手とするやつだったってところ、本当にすごい。ネズミがバックトラック使って承太郎をハメた時みたいな衝撃と笑いを感じてしまった。能力バトルかよ…。あ、でも秀樹が死んだのはやっぱりビックリした。
琴子の除霊シーンはプロの仕事っぽくてよかった。琴子自身だけじゃなくて仲間のじいさんが霊の強力さを感じ取って新幹線ごと襲われて一網打尽にされるのを恐れて散るところ、警察に話をつけて大規模な除霊セットを速やかに建設していくところとか。あそこまでやればもはや霊も袋のネズミ、罠におびき寄せられたようなものだな、という感じだった。実際には霊はそれを粉砕するんだけど…。
除霊セットが粉砕されて、小道具の鏡も無い状態で除霊力は大幅にダウンしていたはずなんだけど、最終的に琴子が除霊に成功してるのは…まあ、霊も疲弊してたってことかなあ。
いや~、日本映画…。お前…最悪だな!なんというかあの、葬式での親戚の集まり、意味の無い時間が本当に苦痛で仕方のない自分の様な人間にとってはあの冒頭部分の「居心地の悪さ」のリアリティが最悪だったね(褒めてる)。こんなこと意識した事無かったけど、洋画とかだと絶対こんなシーンないじゃんね。こういう自国の「習慣」に根付いた描写って日本映画独特なものなんだなあと当たり前なんだけど改めて思ってしまった。
自分を良く見せようとばかりして虚栄にまみれている秀樹。結婚式も、私生活もブログも全てパリピ感、リア充感を演出するための道具に過ぎない。まあ、描写だけ見ると意図的に秀樹に悪印象を与えるだけのものにすぎないんだけど、ただ、なんというか「こういう感じの「リア充」な人間ってこんな風に自分偽って生きてばっかりなんでしょw」という陰キャの嫉妬がチラリとするような気がしないでもない。まあ、いいじゃん。自分の事を良く見せてその結果実際に自分がアガることだってあるしさ。もちろん秀樹は最悪だったけど。
原作小説では明らかにされているという秀樹が襲われる理由を結局隠し続けたのも個人的にはマイナス。もちろんそうする事によって「得体の知れなさ」を演出するという意図は分からなくはないし、結局明らかにされてもラスト付近だろうから見てる途中での「結局秀樹はなんで襲われてるんだろう…」というモヤモヤ感が解消されるわけじゃないんだけど、カタルシスが無いよね。
秀樹が空回りしていて痛々しいところとか、登場時からずっと香奈が追い詰められている描写とか(シングルマザー時代の店長のイヤミとかも)、人間の悪い所をイヤというほどに克明に描写していて全体的に鬱屈していた作品だからこそ、謎解きの爽快感は欲しかった。画面的には除霊シーンとかは派手だったけど、ストーリー上のギミック開放とそれは別の話だと思う。
それに一見元凶と思われていた秀樹が死んだあともストーリーが進むのって結局この霊が秀樹を襲っていた理由が秀樹の死によってでも「解消されてない」からなんでしょ?だから見てる側は秀樹が死んでも続く…これはこの後襲われる理由の謎が明らかになって、それを解決したら真のEDになるんだなってなるのが自然な流れだと思うので、それを明らかにするのは義務だと思う。推理モノで真犯人を明らかにしないまま終わる作品ある?という話である。あるかもしれんけど。
個人的にめちゃくちゃすごいと思ったのが、冒頭のシーンに繋がる箇所、秀樹が霊に殺されてしまう場面で秀樹が琴子の指示で部屋中の鏡を割り、刃物を隠していたのに、実はその指示をしていたのは霊自身で鏡と刃物は霊が苦手とするやつだったってところ、本当にすごい。ネズミがバックトラック使って承太郎をハメた時みたいな衝撃と笑いを感じてしまった。能力バトルかよ…。あ、でも秀樹が死んだのはやっぱりビックリした。
琴子の除霊シーンはプロの仕事っぽくてよかった。琴子自身だけじゃなくて仲間のじいさんが霊の強力さを感じ取って新幹線ごと襲われて一網打尽にされるのを恐れて散るところ、警察に話をつけて大規模な除霊セットを速やかに建設していくところとか。あそこまでやればもはや霊も袋のネズミ、罠におびき寄せられたようなものだな、という感じだった。実際には霊はそれを粉砕するんだけど…。
除霊セットが粉砕されて、小道具の鏡も無い状態で除霊力は大幅にダウンしていたはずなんだけど、最終的に琴子が除霊に成功してるのは…まあ、霊も疲弊してたってことかなあ。
2020 |
08,15 |
おどれ、ロボットアニメやったんかい…。
公開からかなり経ってるし話題作だったしでなんだかんだでネタバレ的なものも踏んでるのだろう…と思ってたけど、ぜんぜん回避できてるもんなんだな…。みんなが肝心なところは言わないでおいでくれたからなんだろう、ありがとう。
作画、特に色使いはすごい。背景のビル群だけとっても3DCGと二次元アニメが融合したような今までに見たことが無いような絵作りがされていて、めちゃくちゃワクワクさせられる。全編怒涛のアクション、アクションな豪華なつくり。
ストーリーは序盤で敵として出てきたリオと最終的に手を組み、真の巨悪クレイを倒すという至ってシンプルなもの。あの豪華な作画を堪能するためにはこの位でいいのだと思う。バーニッシュへの迫害とかももうちょっと掘れそうだったけど、あくまで娯楽作と割り切ってどんどんストーリーを進めていった印象。
リオなあ…あれ…男にするか女(ヒロイン)にするかで制作陣内でも相当な苦悩があったんじゃないかなと思う。セオリー通りで行けば女の子になってるとは思う。序盤、あのゴツイバーニッシュサイクルから女の子が出てきた方がインパクトあるし、展開的にも悲劇のヒロインそのものだ。でも…なんていうか、リオを女の子にしちゃうともう、石破ラブラブ天驚拳を撃つしかなくなっちゃうんだよな。あくまでもプロメアの炎は「友情」の炎だったんじゃないかなあ。
怒涛の展開に押されて勢いで設定がおざなりな場面がいくつもあるのが気になる。リオを火山に拘束した「絶対に敗れない拘束具」も結局気合いで破壊していたし、バーニッシュ達を苦しめすぎると地球が今すぐ爆発するという設定も、地球から離脱しようとしているクレイへの抑止力には全くならず(飛び立つ前に地球の爆発に巻き込まれてダメになるという訳でもなさそうだったし)、6か月後に爆発するのも今爆発するのも変わらないというクレイの主張はまあ…そうね…という感じで、「空間転移を止める」という状況には何も影響を与えていなかったりする。
あとちょっと、クレイを悪役にし過ぎかなとは思う。ガロを救ったシーンの真相はともかく、ガロをあそこまで嫌う理由もないんじゃないかな…むしろガロには愛情はあるけれど…とした方がクレイのキャラも引き立つような気もするんだけど。その辺りもばっさり切ってシンプルにしたかったのかなあ。
クレイなあ…。たぶん、彼は「神」になりたかったんだろうな。「クレイザーX」から繰り出される数々の超技術、あれを使えば(ガロも思わず突っ込んでたけど)、地球の爆発を防ぐ手立てもあったんじゃないのかな。でも彼は自分の頭の中に思い描いた「箱舟で人類を新たな星に運ぶ神たる自分」に固執しちゃったんだと思う。この歪んだ英雄的な思考は彼自身がバーニッシュであったという後ろめたさから来てるんだとは思うんだけど、そういう辺りはこんな感じで妄想ベースで自由に語り合ってね、というところだろうか。
あとそう!全ての元凶である他の星からきたプロメアの炎になんの落とし前もなかったのも納得いかない。生命体であり、知性を持ってるんだったら他人の星に来て暴れるだけ暴れてただ帰っていくなんて許せる…?あいつらの星破壊して帰る場所無くしてもいいくらいだと思う。
公開からかなり経ってるし話題作だったしでなんだかんだでネタバレ的なものも踏んでるのだろう…と思ってたけど、ぜんぜん回避できてるもんなんだな…。みんなが肝心なところは言わないでおいでくれたからなんだろう、ありがとう。
作画、特に色使いはすごい。背景のビル群だけとっても3DCGと二次元アニメが融合したような今までに見たことが無いような絵作りがされていて、めちゃくちゃワクワクさせられる。全編怒涛のアクション、アクションな豪華なつくり。
ストーリーは序盤で敵として出てきたリオと最終的に手を組み、真の巨悪クレイを倒すという至ってシンプルなもの。あの豪華な作画を堪能するためにはこの位でいいのだと思う。バーニッシュへの迫害とかももうちょっと掘れそうだったけど、あくまで娯楽作と割り切ってどんどんストーリーを進めていった印象。
リオなあ…あれ…男にするか女(ヒロイン)にするかで制作陣内でも相当な苦悩があったんじゃないかなと思う。セオリー通りで行けば女の子になってるとは思う。序盤、あのゴツイバーニッシュサイクルから女の子が出てきた方がインパクトあるし、展開的にも悲劇のヒロインそのものだ。でも…なんていうか、リオを女の子にしちゃうともう、石破ラブラブ天驚拳を撃つしかなくなっちゃうんだよな。あくまでもプロメアの炎は「友情」の炎だったんじゃないかなあ。
怒涛の展開に押されて勢いで設定がおざなりな場面がいくつもあるのが気になる。リオを火山に拘束した「絶対に敗れない拘束具」も結局気合いで破壊していたし、バーニッシュ達を苦しめすぎると地球が今すぐ爆発するという設定も、地球から離脱しようとしているクレイへの抑止力には全くならず(飛び立つ前に地球の爆発に巻き込まれてダメになるという訳でもなさそうだったし)、6か月後に爆発するのも今爆発するのも変わらないというクレイの主張はまあ…そうね…という感じで、「空間転移を止める」という状況には何も影響を与えていなかったりする。
あとちょっと、クレイを悪役にし過ぎかなとは思う。ガロを救ったシーンの真相はともかく、ガロをあそこまで嫌う理由もないんじゃないかな…むしろガロには愛情はあるけれど…とした方がクレイのキャラも引き立つような気もするんだけど。その辺りもばっさり切ってシンプルにしたかったのかなあ。
クレイなあ…。たぶん、彼は「神」になりたかったんだろうな。「クレイザーX」から繰り出される数々の超技術、あれを使えば(ガロも思わず突っ込んでたけど)、地球の爆発を防ぐ手立てもあったんじゃないのかな。でも彼は自分の頭の中に思い描いた「箱舟で人類を新たな星に運ぶ神たる自分」に固執しちゃったんだと思う。この歪んだ英雄的な思考は彼自身がバーニッシュであったという後ろめたさから来てるんだとは思うんだけど、そういう辺りはこんな感じで妄想ベースで自由に語り合ってね、というところだろうか。
あとそう!全ての元凶である他の星からきたプロメアの炎になんの落とし前もなかったのも納得いかない。生命体であり、知性を持ってるんだったら他人の星に来て暴れるだけ暴れてただ帰っていくなんて許せる…?あいつらの星破壊して帰る場所無くしてもいいくらいだと思う。
2020 |
08,10 |
そうね、この映画に関して感想を書くにはまず自分の状況を書いておかないといけないと思う。
まず、旧作のブロリー映画見てなくて、ブロリーっていうなんかスゴイ奴がいるっていう事だけは知ってる。あと、ブロリーこそが本当の「伝説の超サイヤ人」というのは風のウワサで聞いた。「ドラゴンボール超」もほぼ見てない。なので、超サイヤ人の赤くなったり青くなったりするやつが良く分かってない感じで、なんならウイスやビルスに関しても良く分かってない。フリーザがなんかの大会要員で生き返ったのもなんとなく聞いてた。漫画はめちゃくちゃ読んでいた。
こういう状況の人間の感想という事でご了承下さい。
さて、この映画はぶっちゃけ過去作に居た人気キャラのブロリーと現代の設定で強くなった悟空たちが戦う所が見たい…見たくない…?というコンセプトで作られているので悟空たちとブロリーがバチバチに戦闘してる所が見れればストーリーはよそに置いておいて大抵満足、という感じなのだと思う。
その割に前半のおぜん立てパートとでも言うべき「ブロリーが地球に来るまで」がかなり丁寧に作られてて驚いた。はっきり言えば「宇宙船ポッドでなんか飛んできたブロリーが悟空たちと戦う」だけでもまあまあOKな映画なのである。それを真面目に筋立てすると、ブロリー、悟空たち、そこにフリーザも絡んできてかなり状況とドラマが複雑な印象を受ける。それを一つ一つ丁寧に描写して行く事で分かりやすく処理していたと思う。
とは言え、深く考えると例えばブロリーの因縁は「ベジータ王」に絡んでいるので本来なら悟空はおろかベジータすらブロリーとなんら関係なかったりする。それをめちゃくちゃ頑張って「ベジータが生まれたことでベジータ王に保身の心が芽生えてブロリーとバラガスが迫害される」というなんかこう…ベジータに因縁…ある…?あるかも…??レベルに持って行ってる。こういう気をつけないと一瞬で流れが破たんする地雷がいくつもあってストーリー構成はかなり大変だったんだろうな…という苦労が見える。
フリーザの願いは「身長を伸ばす」だったんだけど、ここで部下から「いや第二形態とか普通にデカいやん…」というツッコミを入れるところとか、何だかんだブロリーを地球に連れてきた落とし前としてフュージョン待ちの一時間の間ブロリーにタコ殴りにされ続けるという「おしおき」もフリーザは受けてたりしてストーリー上の違和感をなるべく消そうという丁寧な仕事ぶりが伺える。
惑星ベジータ崩壊前のバーダックの描写とか、惑星ベジータが壊れた後の若き日のナッパ、ラディッツ、ベジータのやりとりもファンには嬉しい。
いや、ほんとラディッツって惜しいキャラなんだよな。悟空の兄貴という恵まれた経歴からは考えられないような不遇。もちろん初登場時、悟空とピッコロが手を組んでなお圧倒するというZ時代の戦闘力インフレの先陣というインパクトはあるんだけど、生き返ってその後もパワーアップを繰り返していればベジータのポジションを食ってた可能性すらあると思う。
ファンサービスと言えばさっきのフリーザの身長を伸ばすという願いも多分レッド総帥のパロだし、フュージョン前のデブ→ガリ→完成の流れもお約束でファンがニヤリとできる要素がいくつもあってよかった。
ただ、久しぶりにドラゴンボールの映画を見て改めて思ったんだけど最初から本気にならないの、あれはなんなんだろうね。最初のブロリーVSベジータでベジータが通常→超サイヤ人→赤い超サイヤ人ってギアを上げていくのはギリギリ分かるとして、赤い超サイヤ人状態で戦っていたベジータとバトンタッチ(ここで素直に引くベジータにもビックリしたけど)した後に、悟空が通常状態でブロリーと戦いだして「それは流石に無理だろう…」と思ってしまった。
せめて赤い超サイヤ人状態でバトンタッチしても良かったのではないだろうか。超サイヤ人と通常の間には10倍だか100倍だかの差がある訳なので下手したらパンチ一発で消し炭になってしまう可能性もある。(にも関わらず雰囲気でそこそこ戦えてしまうのも問題がある)
とはいえ、基本的に不意打ちとだまし討ち、初見殺しが基本の能力バトルに慣れた現代ジャンプっ子にとって純粋なパワーとパワーがぶつかり合う展開は見ていて爽快感がある。これは鬱屈しがちな能力バトルにはない魅力だと思う。劇場クオリティの超作画も相まって「ブロリーと悟空たちの超バトルが見たい」という欲求には100%、120%応えているのでこの映画が好評だったのも頷ける。
最終的にブロリーと同じ映画発祥キャラであるゴジータで戦う所もニクイ。あとフリーザが悟空と再戦する事を考えた時に悟空・ベジータを相手取ると2-1になってしまうからあともう一人味方が欲しいって言ってたのもよかった。ブロリーの因縁は(頑張れば)ベジータに結びつくので悟空とフリーザ、ベジータとブロリーという構図はなかなか熱い。
最後の最後にチライが悟空に「あんたおかしいよ」という指摘をしてくれたのも良かった。いやほんと、ドラゴンボールから距離を置いて初めて認識出る。悟空おかしいんだよな。マジで普通に戦闘狂の類。
まず、旧作のブロリー映画見てなくて、ブロリーっていうなんかスゴイ奴がいるっていう事だけは知ってる。あと、ブロリーこそが本当の「伝説の超サイヤ人」というのは風のウワサで聞いた。「ドラゴンボール超」もほぼ見てない。なので、超サイヤ人の赤くなったり青くなったりするやつが良く分かってない感じで、なんならウイスやビルスに関しても良く分かってない。フリーザがなんかの大会要員で生き返ったのもなんとなく聞いてた。漫画はめちゃくちゃ読んでいた。
こういう状況の人間の感想という事でご了承下さい。
さて、この映画はぶっちゃけ過去作に居た人気キャラのブロリーと現代の設定で強くなった悟空たちが戦う所が見たい…見たくない…?というコンセプトで作られているので悟空たちとブロリーがバチバチに戦闘してる所が見れればストーリーはよそに置いておいて大抵満足、という感じなのだと思う。
その割に前半のおぜん立てパートとでも言うべき「ブロリーが地球に来るまで」がかなり丁寧に作られてて驚いた。はっきり言えば「宇宙船ポッドでなんか飛んできたブロリーが悟空たちと戦う」だけでもまあまあOKな映画なのである。それを真面目に筋立てすると、ブロリー、悟空たち、そこにフリーザも絡んできてかなり状況とドラマが複雑な印象を受ける。それを一つ一つ丁寧に描写して行く事で分かりやすく処理していたと思う。
とは言え、深く考えると例えばブロリーの因縁は「ベジータ王」に絡んでいるので本来なら悟空はおろかベジータすらブロリーとなんら関係なかったりする。それをめちゃくちゃ頑張って「ベジータが生まれたことでベジータ王に保身の心が芽生えてブロリーとバラガスが迫害される」というなんかこう…ベジータに因縁…ある…?あるかも…??レベルに持って行ってる。こういう気をつけないと一瞬で流れが破たんする地雷がいくつもあってストーリー構成はかなり大変だったんだろうな…という苦労が見える。
フリーザの願いは「身長を伸ばす」だったんだけど、ここで部下から「いや第二形態とか普通にデカいやん…」というツッコミを入れるところとか、何だかんだブロリーを地球に連れてきた落とし前としてフュージョン待ちの一時間の間ブロリーにタコ殴りにされ続けるという「おしおき」もフリーザは受けてたりしてストーリー上の違和感をなるべく消そうという丁寧な仕事ぶりが伺える。
惑星ベジータ崩壊前のバーダックの描写とか、惑星ベジータが壊れた後の若き日のナッパ、ラディッツ、ベジータのやりとりもファンには嬉しい。
いや、ほんとラディッツって惜しいキャラなんだよな。悟空の兄貴という恵まれた経歴からは考えられないような不遇。もちろん初登場時、悟空とピッコロが手を組んでなお圧倒するというZ時代の戦闘力インフレの先陣というインパクトはあるんだけど、生き返ってその後もパワーアップを繰り返していればベジータのポジションを食ってた可能性すらあると思う。
ファンサービスと言えばさっきのフリーザの身長を伸ばすという願いも多分レッド総帥のパロだし、フュージョン前のデブ→ガリ→完成の流れもお約束でファンがニヤリとできる要素がいくつもあってよかった。
ただ、久しぶりにドラゴンボールの映画を見て改めて思ったんだけど最初から本気にならないの、あれはなんなんだろうね。最初のブロリーVSベジータでベジータが通常→超サイヤ人→赤い超サイヤ人ってギアを上げていくのはギリギリ分かるとして、赤い超サイヤ人状態で戦っていたベジータとバトンタッチ(ここで素直に引くベジータにもビックリしたけど)した後に、悟空が通常状態でブロリーと戦いだして「それは流石に無理だろう…」と思ってしまった。
せめて赤い超サイヤ人状態でバトンタッチしても良かったのではないだろうか。超サイヤ人と通常の間には10倍だか100倍だかの差がある訳なので下手したらパンチ一発で消し炭になってしまう可能性もある。(にも関わらず雰囲気でそこそこ戦えてしまうのも問題がある)
とはいえ、基本的に不意打ちとだまし討ち、初見殺しが基本の能力バトルに慣れた現代ジャンプっ子にとって純粋なパワーとパワーがぶつかり合う展開は見ていて爽快感がある。これは鬱屈しがちな能力バトルにはない魅力だと思う。劇場クオリティの超作画も相まって「ブロリーと悟空たちの超バトルが見たい」という欲求には100%、120%応えているのでこの映画が好評だったのも頷ける。
最終的にブロリーと同じ映画発祥キャラであるゴジータで戦う所もニクイ。あとフリーザが悟空と再戦する事を考えた時に悟空・ベジータを相手取ると2-1になってしまうからあともう一人味方が欲しいって言ってたのもよかった。ブロリーの因縁は(頑張れば)ベジータに結びつくので悟空とフリーザ、ベジータとブロリーという構図はなかなか熱い。
最後の最後にチライが悟空に「あんたおかしいよ」という指摘をしてくれたのも良かった。いやほんと、ドラゴンボールから距離を置いて初めて認識出る。悟空おかしいんだよな。マジで普通に戦闘狂の類。
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