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吉良吉影は静かに暮らしたい

2018
11,24
そういえば、ドラ映画見たのなんていつぶりだろう…。数年前に鉄人兵団のリメイクをBDで見たのが最後で、新声優(という言い方ももうおかしいレベルだけど)になってからの完全オリジナルは初だ。子供の頃は毎年ドラ映画を見て、オマケのドラえもんを貰って帰ってたなあ…と懐かしく感じる。

結論から言うと、ドラ映画の文脈はしっかり押さえつつ、よくまとまってる良い作品だったと思う。名作と言われるのも頷ける。

本作はかなりの「応用編」だと思う。通常、ドラ映画は「時間」か「空間」(舞台)のどちらかを非日常に置くことで話が展開していく。「大魔境」なら時間は現代のままだけど、空間はアマゾンの奥地(未踏の地)、のび太の恐竜なら時間は白亜紀となるが空間は通常の生活空間(まあ、のび太の家の近所ではないけど…)等々といった具合だ。

カチコチは時間は10万年前、空間も南極大陸になる。二重の非日常設定だ。どちらか一つでも「冒険」の舞台としては実は十分で、「10万年前の南極大陸」だろうが、「現代の南極大陸」だろうが実は基本の舞台設定としては大して変わらない。仮に現代の時間設定で南極大陸の氷の下に地下都市があったとしても、普通に舞台設定としては機能する。実際、物語の中盤までは現代での南極大陸冒険が主目的になっている。

新ドラになってから最初の映画が「のび太の恐竜」のリメイクで、なんだか新しい事をするのをやめてしまったのかとがっかりもしたけど、そうではなかったのだ。この「カチコチ」の様な応用編をやるためにはまず下地として「冒険」や「時間旅行」の概念を子供たちに覚えさせる必要があった。(新ドラしか見たくない、という子供もいるだろうから旧作での予習が不可能になってる状況もあったと思う)そして、ついに満を持してこういう応用編的な作品を公開してもOKと判断するまでになったのだろう。

随所に見えるドラ映画文脈も懐かしい。氷の加工は「雲の王国」の序盤を思い出させる。あのドラ映画序盤特有の「なんでも出来そう」というワクワク感は最高にいいものだ。

かたくなに使われないスモールライト、テキオー灯でええやろと言ってはいけない「極地探検スーツ」。忘れて来たどこでもドア(そもそも忘れるのがありえないけど…)を「とりよせバッグ」で取り寄せないなどなど。ツッコミどころもいっぱいだ。いや、まあ、テキオー灯やスモールライトは劇中内では使われていないのでともかく、劇中で「とりよせバッグ」を別の場面で使うとは思わなかった。「カチコチ」は空間の冒険でもあるので、「どこでもドア」「とりよせバッグ」と言った空間系の道具は禁じ手となりやすい。

ただ、ドアの場合は「凍り付いて取り寄せられない」などのフォローを入れられる可能性はあったのだか…。

「宇宙開拓史」でもゲストで出ていたパオパオが出ていたのもビックリしたし、カーラたちの星の名前が「ヒョーガヒョーガ星」というのもファンには嬉しい小ネタだ。「宇宙開拓史」の舞台が「コーヤコーヤ星」「トカイトカイ星」と言ったネーミングだったので狙っていたのだと思う。そういえば、宇宙開拓史もリメイクされていたような。

今回の「大ネタ」である「電池の時を超えた受け渡し」も分かりやすくて良く出来ていた。最初「どこでもドア使用不可能 = タイムマシンによるタイムスリップ不可」の設定を聞いた時にタイムマシンはどの「場所」にでも出られちゃうからなあと思ったのだけど(忘れがちなのだけど、タイムマシンは「どの時間、どの場所にも出られる」という時間と空間両方を操れる二つの能力を持った禁じ手級の道具なのだ)、今回はそっちではなく、「「タイムベルト」と「電池」という二つが揃わないとタイムスリップが出来ない」という状況を作りたかったので「タイムマシン」は封印されたのだ。タイムマシンに電池ないからね。(まあ、なんらかの燃料はあるだろうけど…)

カーラの設定(ドラマ)である「自分の星を救いたい、でもリングは一つしかない」という葛藤は悪くはなかった。動機とドラマがちゃんと噛み合って機能はしていたと思う。ただ、状況的に見ればさすがに地球のリングを使ってヒョーガヒョーガ星を救うのは「ありえない」選択なので、葛藤の動機としては弱かったように思う。(劇中での扱いも「まあ、さすがにね…みたいな雰囲気だったし…」)

ほんやくコンニャクをカーラ側ではなくのび太側が食べるのはわりと見たことのない展開でちょっと驚いた。あれでも機能するのか…。まあ、この場合はのび太側が全員食べなければならないので非効率といえば非効率かもだけど。

最後の光るものを集めるコウモリが別のリングを見つけていて、それを元にヒョーガヒョーガ星を救うという展開も、一見ご都合主義に見えるのだけど、地球のブリザーガが「作りかけ」だったので、開発途中のリングが他にあっても不思議ではない。なので、「光るものを集めるコウモリ」という設定の上手さも手伝って実はちゃんと考えられてるのだけど、説明が足りなかったかな…。もっと作ってる途中のブリザーガの描写を増やして「リングが他にもある」という事をうすーく匂わせておけばご都合主義感はかなり軽減されたと思う。

エピローグ、天体望遠鏡で「10万光年離れた」ヒョーガヒョーガ星を見ることでカーラたちの解決を確認できるというラストはすさまじく美しい。大ネタの「電池の時を超えた受け渡し」も「氷によるタイムスリップ」だった。10万光年の時を超えた光を「見る」こともまた「光によるタイムスリップ」と言っていいだろう。

ドラえもんの道具の力を借りなくても現実の自然現象だけでも「タイムスリップ」は出来る、不思議なことはこの世界に溢れている、そんなメッセージを感じられるラストだったように思う。
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2018
11,19
総評。

ううううううううううう~ん!!!こ、これなあ~!!確かに最高傑作と言われるのも分かる、分かるけど正直、「2」の方が好きだな!!この差がどこから生まれたのか。はっきり言って敵役の差だ。

プロスペクターは初登場の時には全然「敵役」の雰囲気はなかったんだけど、彼が「箱に入っている」という情報は最初からオープンになっていた。あの設定が彼が本性(というか目的)を表してから、その真の意味が明らかになる。すなわち、「子供と遊んだことが無い」故の優しい記憶の欠如、そして「売れ残り」による悲壮だ。

はっきり言ってロッツォはこのバックグラウンドの重厚さがプロスペクターに及んでいない。及んでいないというか、初登場時からすでに「悪役でござい」という雰囲気が全く隠せていないのだ。まあね、もちろんディズニーの悪役は古くは白雪姫の魔女しかり、別に「隠さなければいけない」なんていうルールはない。

ロッツォに関してもおそらく彼の「正体バレ」というのはこの作品においてプロスペクターの正体バレほどには比重が置かれていなかったのだと思う。彼の正体がばれたとしても、そこから先の「サニーサイド保育園からの脱出」というメイン展開が待っているからだ。

なので、ロッツォの悪役としての「格」の評価として「サニーサイド保育園を自分の理想とする独裁国家に作り上げた」という点を見ればプロスペクターよりも優れているのだろうと思う。だからこれは完全に好みの問題なのだろうと思う。「箱」がな~、ほんと凄すぎなんだよ、プロスペクター…。

ストーリーとしては「トイ・ストーリー」という物語の完結という意味ではこれ以上ないものだったと思う。ただ「2」の時に感じていた、「今はアンディはウッディたちの事を求めてくれているから、ウッディたちは必死に家に帰ろうとしているが、アンディが成長し、ウッディたちの事を求めなくなったらウッディたちはどうするのか?」という個人的な問いに答えてくれるものではなかった。

アンディはどこまでも優しいヤツで昔のおもちゃをずっと大事にしてくれていた。成長しても一番の親友ウッディは引っ越し先に連れていき、他の仲間も屋根裏に大切に保管してくれようとしていた。すなわち、「3」においてもウッディたちはアンディに必要とされ続けていたのだ。だからこそ、「家」に帰ろうとする。このモチベーションは三作を通じて変わることはなかった。これは意図的なものなのだろう。

今回は「サニーサイド保育園」から脱出しなくてはいけなかったので、いかにそこの環境を劣悪に描くか(脱出したくなるか)が問題だったのだけど、おもちゃの行く末として、どこかに寄付されるというのは選択肢としては当然ありうることだし、新しい子供に遊んでもらうという事自体を「悪」として描くことは出来ない。

たとえどんなに手荒に扱われることになったとしても、それはおもちゃとしての宿命として受け入れるほかはない。正直に言えばアンディのおもちゃの扱いも…まあ…そんなにお上品なものではなかったし。

ここで上手かったのは「サニーサイド保育園の闇」として「手荒に扱われる事」自体ではなく「その役割を新入りだけに押し付けて自分は安全な場所でのうのうと暮らしているロッツォ」に置き換えた点だ。事実、物語が終わり、ロッツォが取り除かれた後も「イモムシ組」のおもちゃに対する手荒い扱いは続いている。ここを悪くは描かない。子供はおもちゃを壊すものなのだ。ただ、その対応を階級関係なく全員で持ちまわって行っている。

「子供の手荒な扱い」は変わっていないものの、制度が変わったことでいわば「強制労働」と言っても良かった子供たちへの対応の中に「平等感」と「おもちゃとしての本来の役割」を感じることが出来るようになっている。

ここまで書いて気が付いたのだけど、最終的には「アンディに求められている」以上はおもちゃ達は「サニーサイド保育園」がたとえ天国の様な所であっても家に帰ろうとしただろう。そこでの多少の葛藤はあるだろうとは思うものの、ロッツォが存在してなかったらウッディたちはさっくりと家に帰れてしまっていた(というか「1」と一緒になってしまう)のだ。だから「脱出」の障害としてもロッツォの独裁が必要だったのだ。

クライマックスのウッディたちとの別れは確かに泣けた。アンディの語る「ウッディはどんな時でも仲間を見捨てない」という姿はこの三作でずっと語られてきたことだ。だからこそ、説得力を持って胸を打つ。そして、そんなウッディを誰よりも理解しているアンディだからこそ、仲間を置いてウッディだけを連れていくことは出来なかったのだ。

もうウッディとは遊ぶことは無いとは分かっていても、手放すことを躊躇するアンディ。ここで、誰もが持っている子供の時に遊んだおもちゃの記憶がオーバーラップする。トイ・ストーリーの最大の強み、「誰もが持っているおもちゃと遊んだ記憶」による感情移入が最大の効果で発揮される。アンディが楽しそうに遊んでいればいるほど「最後の別れ」が強調され、泣けてくる。

シリーズの締めとしてこれ以上ない幕引きだったように思えるのだけど、なんとまだ「4」があるらしい。あ、でもそうか、確かにウッディとバズがアンディに子供が生まれたら…みたいな事を言っていたのでそこをやるのかもしれない。期待しよう。

トピックス。

冒頭の機関車アクション、あれは正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」のパロディだろうと思ったのだけど、ざっと調べた限りだとそう言ってる人があんまりいなかったので自信がなくなってきた…。同じ「3」だしあり得そうなんだけど…。

アンディはウッディたちの事を「オークションでも売れないよ」と言ってるけど、プレミアの事は知らなかったのだろうか…。もしくは知っていて黙っていたのか。

ロッツォたちがバズを改造しようとしてる時にちゃんと説明書を見てるの、めちゃくちゃ興奮したんだけど、あれはなにが面白いんだろう…。未知のおもちゃでも説明書を見れば対応できるよな!という納得感…とでも言うべきものなのか。「説明書見てる!スゲェ!!」と感じたこの理屈は自分でも良く分からない…。あと、あの時にどう考えてもリセットボタンが押されてしまっているのでたとえモードを元に戻しても元のバズに戻れるのかかなり疑問ではある…。
2018
11,11
いやその、なんだ…。この…人生において「見たことのある映画」というのはある意味で「味方」に入るという感覚があるんだよな。「この映画見たことないな」という場面に「よく」出くわす映画というのはあるもので、今年に入ってから映画を何本も見ているのはそういった映画をなるべく無くすという趣旨もある。なので、見る映画が必然的に「有名」で「昔の映画」に偏っているという自覚はある。「2001年宇宙の旅」はその象徴の様な映画だ。

様々な作品に影響を与え、パロディされたりするこの作品。見る前から「モノリス」の存在、コンピューターによる反乱…などなどの「ネタ」を知った状態で見たものの、やっぱりちゃんと本編は見てみてよかったな、と思う。今後幾度となく出くわすであろう「2001年宇宙の旅見たことないな」が二時間半程度でつぶせるのならやってしまうべきだ…と個人的には考えている。

とりあえず驚いたのは冒頭。真っ黒な画面に音楽だけが延々と流れたせいで(アマプラで見たんだけど)、普通に映像が流れない故障かと思ってしまった。いや…あれは…体感では5分くらいあったと思うんだけど、故障なのか演出なのか分からなかったので確かめようかそのまま見続けようか困惑してしまった。しびれを切らしてしばらく先にサーチしてみたら映像が流れていたので「こういう演出なのか…」と理解はしたけど、なんかもう冒頭からすごいな…という感じであった。ここで言う「すごいな…」はあまりい意味ではない。「こりゃ置いてきぼりにされるな」という感覚である。

お猿が暴れまわってる冒頭30分は公開当時あまり評判が良くなかったらしい。当時のプロモーションがどんな風に行われていたのかは分からないけど、確かにあんなSF感バリバリの宇宙ステーションがドンと描かれたポスターに惹かれて見てみたら冒頭5分真っ暗で、それが開けたらお猿が延々暴れまわってるんだから普通にキレると思う。ただ、出来と言うか「言いたい事」は後半部に比べれば分かるので「見にくさ」はない。モノリスに触れたお猿が「道具」を使う事を覚えて進化し、別のお猿集団を退けて(殺害して)水場を奪ったのだ。「モノリス」とはあの石柱の事ではなく(あれは視覚的なイメージで)、エポックメイキングを意味するのだろう。「道具」の獲得である。

舞台は一気に飛び(ここが2001年なのか…??)、月面でモノリスが発見される。まあ、それはそれとして人類は木星を目指す。この流れは後々整理してみれば「ああなるほど」という感じになる。

木星を目指す過程で有名なコンピューター「HAL9000の反乱」がある。すなわちコンピューターによる人間の殺害だ。最初はモノリスの出現によってエポックメイキングが再び起こって人類にとって代わる存在としてコンピューターが選ばれて、その象徴として「人類の殺害」が行われた(お猿時代に起こった争いの中の殺害みたいな感じ)のかと思っていたけど、どうやら違ったらしい。

「HAL9000」には他の乗務員に知らされていない極秘ミッション(月面で掘り起こされたモノリスが「木星に向け強力な磁気を発していた = 木星に向かうことの示唆及びその調査」)が託されていた。それを歪曲した「HAL9000」は「他の乗務員に知らせてはならない = だったら全員殺そう」というヤンデレ回答に行きついてしまう。

「HAL9000」がヤンデレ気質だったことを見抜けなかった事も問題だが、やはりコンピューターに「間違い」は無く、間違いがあったのは「他の乗務員に知らせてはならない」という入力をした人間の方だったのだ。「知られてはならない」が「調査はしなければならない」。コンピューターである「HAL9000」が人の眼を盗んで調査をする事は不可能だ。この相反する矛盾のあるミッションを与えたことが「間違い」だったのだ。「ユニットに故障がある」という「間違った」判断も乗務員殺害への布石だったのだから、「HAL9000」は「故障」をしていなかったのだと思う。
「HAL9000」の反乱(?)を沈め、モノリスの示す通りに木星に辿り着いた人類は真のエポックメイキングである人類超越の儀(「道具」の獲得と同様?)を経てでっかい綾波(違う)と化して地球に帰還…??というか地球を見つめる赤ちゃんになるのだった。

よし待ってくれ。決しておれの気が狂った訳じゃなくて本当にこの通りなんだ。正直、「お猿編」と「HAL9000反乱編」はちゃんと付いていけたんだけど最終章は本当にムリだった。特にモノリスと接触して「白い部屋」(これはいろんなパロの元ネタな気がする)に到達するまでのエフェクト映像(CGも無いと考えるとあのイメージ映像はかなりすごいな…)の連続が本当に眠くて眠くて半分夢心地になりながら見てたんだけど、あのエフェクトが一種のトリップ状態を引き起こすために流されていたのならば、半分眠りながら見るのが正解の様な気がする。

実際、カッチリ見たとしての最終章の流れはサッパリ分からないんだろうから、それならいっそ「薄れゆく意識の中で、なんかこう…白い部屋…とかあって…デッカイ緑色(?)の赤ちゃんが地球を見つめてるんだ…」みたいな感じでボンヤリ捕らえることこそが「2001年宇宙の旅」のレジェンド感を最高に味わえるというものではないだろうか。(康一君が途中で寝たのはある意味で正しい視聴方法だったようにも思える)
2018
11,10
あああ~!!ああ……。もうね、無理。おれは絶対にディズニーを映画館に見に行けない。いや、もうマジで本当にヤバイわ。プロスペクターが裏切った(本性を出した)瞬間、めちゃくちゃ叫んでしまった。

いや、ほんとさ!そうなんだよ!!あのプロスペクターじいさんは「箱」に入ってるから品物の「格」としては上なんだよな。特にオタクにとっては箱に入ってた方が「嬉しい」訳じゃん。おれにもその気持ちが凄く良く分かる。だから、あの「箱」に関しては「そうなんだ」位にしか思ってなかった。でもさ~、違うんだよな~!!あの「箱」って要素がめちゃくちゃ上手く機能してるんだよな。

まず、箱に入ってるって事はウッディやジェシーの様に「子供と遊んだ幸せな記憶」が無いんだ。あの「不幸」が描かれているジェシー(後述)ですらも、その「不幸」はエミリーと遊んだという幸せな記憶の上に成り立っている。だからジェシーはウッディが最終的にアンディの元に帰るのを止めはしない。自分は捨てられてしまったが、待っている子供がいてくれるのなら、帰るべきだという事を経験で理解しているからだ。

でもプロスペクターは違う。その記憶が「無い」んだ。生まれてから箱の中から出されて遊ばれたことがなく、ずっと在庫処分に並んでいた。もうさ、プロスペクターが在庫処分に並んでるってところで本当にシビれるよな。マジで売れ残りそうなポジションしてんだよ、プロスペクター…!

そのずっと虐げられていたプロスペクターが「マニアの展示品になる」というオモチャ本来の役割から外れることになったとしても、「自分を必要とされたい」という気持ちからウッディを強制的に引き留めようとする気持ちも痛いほど分かる…。必要とされてえよなあ…!!分かるよ…!!しかもその条件がウッディやジェシーが揃ってる事ってのも泣けるよな…!自分だけじゃ需要が無いんだぜ…??だから、必死でウッディを引き留めてるんだ、泣ける。泣けるよプロスペクター…!!

でも、プロスペクターはある意味で可哀想な奴だったからちゃんと救いもあったと思うんだよな。ラスト、顔にいたずら書きしちゃう女の子の元に運ばれて、プロスペクター自身はイヤな顔してるんだけど、彼はようやく「箱」の中から出て子供の元に「おもちゃ」として存在する事が出来たんだ。箱越しの「コレクション」ではなく、「おもちゃ」本来の役割が果たせるんだ。それはきっと、彼にとっては幸福なことなんじゃないかな。

対して「盗み」という正真正銘の悪事を行ったアルは精神崩壊??の末に店のおもちゃを全品1ドルで放出するという「末路」を辿っている。この映画での悪役はこの二人だったと思うけど、ラストの描かれ方がこうも違う。やっぱり、スタッフとしてもプロスペクターには同情の余地アリと判断されたんじゃないかなあ。

ジェシーの描かれ方も良かった。まずは陽気な新キャラとして登場するものの、ウッディが自分の家に帰ろうとすると「暗闇が怖い」と言ったのが良かった。暗闇、怖いよね。そう、この「暗闇が怖い」という単純な理由は、それ故にシンプルだ。彼女に関してはあの時点ではまだ出たての新キャラだ。その彼女の内面から発せられる理由よりも「暗闇が怖い」という普遍的な理由に根拠を置いた方が感情移入がしやすい。

それからしばらくたって、ジェシーの描写時間が増えてから、ジェシーのトラウマを描く。仲の良かった、ずっと遊んでくれると思っていたエミリーとの別れ。めちゃくちゃ泣ける。というか、トイ・ストーリー全体に言える事なんだけど、「忘れていたあのころ大切だったおもちゃ」という誰もが持っている記憶にダイレクトに訴えているのがこの作品の最大のキモなんだ。誰もが強い共感を得られる題材。これを手にした瞬間に、その作品は成功が約束されるといっていい。共感は感情移入を生み、感情移入は感動を呼ぶからだ。

ジェシーとエミリーの話は来るべきウッディとアンディの別れも示唆している。今回もウッディは「アンディの元に戻る」という動機の元に行動をしているけれど、その根本、もしこの先「アンディがウッディを必要としないときが来たらどうなるのか?」という問いかけをしているのだ。(そしてこの問題はおそらく「3」で描かれている)

とはいえ、今回のところはウッディはアンディの元に帰ってきた。修理師の修繕した腕は完璧だったが、ウッディにとってはアンディは修復してくれた太めの腕の方が「喜び」を与えれくれる。将来(アンディの成長)を意識しつつもあえて「今はこれで良い」と言ったウッディ。完璧である。

ピクサーの映画を見ると、シナリオにおいて「共感」がいかに重要かを改めて感じることが出来る。ドキドキハラハラしたシーンも、結局は「そのキャラが助かって欲しい」という感情が無ければ楽しむことはできない。

ただ、全く無駄の無いピクサーのシナリオにおいて、今回は「二体目のバズ」があまり有効に機能しているように思えなかった。二体バズが必要だった意味は何だったんだろう…。あと、スター・ウォーズのパロをやり過ぎてそこまで入れないでも…?という気がしないでもなかった。今(2018年)となっては同じ会社になっちゃったなあ~という笑い話にはなるかもだけど。

「3」があんまりにも待ち遠しくて一気に見てしまおうかと思ったけど、ぐっとこらえて来週にする。約束された最高映画「3」をこんなに一気呵成に見てしまっては勿体ないだろう。
2018
11,04
「II」でマフィアとして確固たる地位と権力を保持しつつも兄のフレドを暗殺し、嫁からも恐れられ、子供も離れてしまったマイケル。正直、2のラストはあまりにもマイケルに救いが無さ過ぎて、まあ、もちろんマフィアという稼業上、それで幸せをつかみました!悪行、サイコー!!という語り口もどうなんだろう…となるので、あのラストは仕方のない面はあるとは思うものの、やっぱり、孫と戯れて穏やかに逝ったヴィトーに比べてマイケルがあまりにも可哀想だったな…というのが正直な感想だったので、マイケルの晩年を描いた3では、ちょっとこう…救いみたいなものがあるのかなと思ってたんだけど、いやあ~、全然でしたね!

3において描かれた死のシーンにおいても結局マイケルは全く救われておらず、それどころか緑と光に囲まれて孫と戯れながら死んでいたヴィトーの晩年と対比するまでも無く、廃墟で寂しく、痩せた犬が一匹だけ傍らにいる状態で死んだマイケルはあまりにも寂しい。これが血の粛清を続けて来たマイケルの代償なのだろう。

作品として見ると「2」での主題(マフィアやってても幸福になれない)が「3」でも再度語られたような状況になっており、「別にこれ3なくても良かったのでは…?」という気持ちになるのだけど、もともと「3」はナンバリングタイトルではなく、1・2の後日談としてマイケルの内面を語った外伝的に作成された物語という事で、ある程度の納得はできる。

確かに今回の作中で幾度となくマイケルはフレドの暗殺をずっと後悔していた事が明らかになったのは良かったと思う。正直、フレドの事など毛ほども気に留めずに暗殺した(「2」のマイケルの冷徹さならありえる)ものだと思っていたのだけど、どうやらそうではなかったらしい。もしくは時間の経過とともに自分のした事(ヴィトーが決してやらなかったであろう身内(血縁)の粛清)の重大さを身に染みて感じていったのかもしれない。

2で辣腕を振るっていたマイケルも、晩年になり病気を患い過去を思い起こすことが多くなったのかもしれない。ケイとの関係修復を試みたのもその一環だろう。

しかし、ゴットファーザーは本当に悪い癖があるんだけど、過去の重要キャラを告知無しで消さないでほしい。いや、これはもちろん「出演者」というものが存在する映画である以上仕方のない事なのかもしれないけど、それにしたって、トムほどの重要キャラをサラッと退場させないでほしい。息子は出ていたけど、それはそれとしてトムが死んだなら死んだともっとハッキリと言っておいて欲しかった。おかげで中盤くらいまで「トムどうしたんだろう…」って思いながら見るハメになってしまった。

トムはどう考えてもこの作品におけるマイケルの次くらいに重要なキャラであったはずで、2のマイケルがギリギリ人としてのタガを持てていたのはトムの存在によるところが大きい。たとえ死亡したという設定であっても、「トムが居てくれれば…」くらいのセリフがあっても良かったと思う。

2の時もクレメンザが唐突に消えて、クレメンザのシマを引き継いだのがフランクなんだけど、あの時もどうかと思ったんだよな…。ただ、フランクの時は裏切りで行ったり来たりする人物だったので、あの役をクレメンザにやらせるのはどうかな…?と思案した結果のキャラ交代として考えればギリギリ分からなくもなかったのだけど、今回のトムの突然の失踪はかなりマイナスだったと思う。

回想のラスト、マイケルと共に踊った過去の女性たちケイ、アポロニア、メアリーの全員がマイケルの元から去って行っていた(ケイ、メアリーは暗殺で死亡。メアリーを失うことになったケイとの関係修復は不可)のはあまりにも寂しい。やはりマイケルに必要だったのはパートナーだったのではないだろうか。

トムさえ生きていれば、最晩年をあそこまで寂しく過ごすこともなかった。作中人物が言ってくれなくても、おれが言うよ。「トムが居てくれれば…」と。

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