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吉良吉影は静かに暮らしたい

2018
08,11
見る前の予備知識は「スーツの男がスタイリッシュアクションを決める映画」くらいしかなかったのだけど、まあ、大体あってた。キングスマンとなった後もスーツに「着られてる」感のあるエグジーはやっぱりどことなく頼りない。やはりハリーの方がキングスマンとして「これだよな」という感じがある。「紳士的なふるまいというのはカッコイイな」と素直に思える立ち居振る舞いだった。

キングスマンの仕立て屋にあった数々のガジェットもワクワクするものでいっぱいだ。最後の決め手になった仕込み刃の付いた靴や全男子憧れの防弾傘、スタンガン機能の付いた指輪などなど。こういう小物がいっぱいあると嬉しい。あと、こう…パキッと決まったスーツもそうなんだけど、いちいち「ビシッ」としてるんだよな。ガジェットも銃弾一個に至るまで絶対に煩雑に置かれる事がなくキチンと並べられている。こういう所にもスタイリッシュ感が溢れている。

「キングスマン」というプロ集団のミッションがずっと続くかと思いきや、エグジーやロキシーたちの候補生編が入ったのは結構驚いた。ただ、これをやることで「キングスマン」たちがいかに過酷な訓練を受けて来たかが分かるので、掘り下げの手法としては常套手段なのだろう。ロキシーが「ランスロット」を埋めて、ハリーが退場した後にエグジーがその穴を埋めるという流れも綺麗だったし、他の脱落した候補生(上流階級の人間)がラストのヴァレンタインの基地に居て、エグジーが危機に陥るのも上手かった。

そういえばこう、何の説明もなくキングスマン達に円卓の騎士のコードネームが与えられてるんだけど、このあまりの自然さっぷりというか「アーサー王伝説くらい当然知ってるよな?」という感覚がすごくイギリスって感じがしてよかった。これ、日本で言ったらマジで桃太郎のお供と言ったら「犬・猿・雉」だろうという位「常識」なんだろう。

「プリティ・ウーマン」とか「マイフェア・レディ」とか他の映画作品の名前が出てくるのもちょっと驚いた。あまり劇中で他作品のタイトルを出してる場面を見たことがなかったので、なんだろう…こういう「教養」というか「こういうのは抑えてるよな?」というのもイギリス感覚なんだろうか。イギリス人、オタク的なネタ会話(その元ネタ知ってないと楽しめない会話)好きそう。

あと、映画なのに「映画ならここで」とか「これは映画じゃない」とかZZのOPみたいなことを言いまくるのも、あれはなんなんだろう…こう…漫画なら劇中で「これは映画じゃない」とかいうのも分かるんだけど、映画なのに「映画じゃない」と言われても、支離滅裂な思考・発言の顔をしてしまう。

最初のOPで吹っ飛んだガレキでクレジットが作られるのを見て、ひょっとして思ってた以上にコメディ映画なのでは…?と感じたんだけど、ヴァレンタインの計画のガバガバぶりや電話一本で気軽に動かせる衛星、なにより最後の頭部大花火を見ても分かるように完全にコメディ映画だった。これはたぶん「キングスマン」という組織スパイの設定のゆるさを隠すためには敵がもっと大きくならなくてはいけなかったんだろうな。「シリアスになりすぎないスパイアクション」というテーマを考えれば納得だけど、「思ってたのと違うな…」と感じる可能性はなくはない。


しかし、キングスマンはなによりも大切なことを我々に教えてくれている。それは「格安SIM」には気を付けろ、ということだ。
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2018
06,23
最初に見た時に微妙な違和感はあった。その後はあまり気にならなくて最後まで見ちゃって、エンドロールでがしゃどくろの撮影をストップモーションでやってる所が写ってて、もしかして…と思って調べてみたら全編ストップモーションの映画だった…。まじか…もう凄すぎて3Dとあまり見分けがつかないよな…。

でも、それを意識して見てみると服とかたしかに3DCGじゃ出ない布っぽい質感が出てるんだよな。いやでも、それにしたってなんかこう…鳥とか浮いてたし…まあ、さすがに人形劇って訳じゃないしワイヤーとかを消す処理はしてるんだよ思うんだけど。

映画を見るときはあまり事前に情報を入れないようにしてるんだけど、これはちゃんと事前にストップモーションで撮った映画だよという事を知った後に見れば良かったかなあ。確かにな~んかカサカサしてるなとは思ってたんだけど、折り紙がテーマの一つの作品だし、和紙っぽいテクスチャでも入れてるのかな~って思ってたんだけど、そんな単純な話じゃなかった。

バーフバリで五連弓打ってる場面でもそうだったけど、なにかというとゼルダを連想するのをやめたい。でもがしゃどくろ戦は完全にスタルヒノックスだったね…。抜いた刀を片っ端から折って本物かどうか確かめるところとか、同じ場面に自分が遭遇したら絶対同じ戦法取るわ…と思って見てた。あと、クワガタが四つん這い(手足六本あるけど)になった時のカサカサ感すごいね…完全にゴキ…と思って見てた。

ストーリーは良く言えば幻想的な感じ。ストーリーの流れも三種の神器集めなので分かりやすい。ただ、クボが狙われてる理由(「目を狙われてる」というのは分かるんだけど、その「目」をなんで狙ってるのかが良く分からない)とか、結局「月の民」は地上に何しに来たんだろう…とか、いろいろと置き去りにされている部分はあったと思う。

ただ、わりと珍しいパターンなんだけど、ストーリーは難解でもテーマは分かりやすかったんだよな。折り紙が、一度折られてもまた元に戻って別の形を象れるように、形は変わっても本質は変わらないということ。母親がお猿になったり、父上がクワガタになっても両親の愛はそこにあるという事、そしてたとえこの世から去ってしまったとしても、思い出は常に心にあるということ。

変わりゆくものと変わらないもの。ストップモーションで描かれたこの映画の制作過程にはデジタルとは違う実際のセットや人形があり、たくさんの「変わったもの」と「変わらなかったもの」があったと思う。それが作品のテーマに厚みを与えているのは間違いない。
2018
06,09
二人乗りロボットによるパートナーとの別れ、新パートナーとの諍いからの和解、司令官の搭乗などなど、日本のスーパーロボット系のアニメで「お約束」的なことを全部ぶち込んできたなという印象。この映画に対する「期待」にはきちんと応えていたと思う。

印象的だったのは、最初の「KAIJU」を壊滅的な被害が出たとはいえちゃんとアメリカ陸海空軍で撃退できているところ。これは絶対に日本ではない表現だと思う。日本だったら必ず自衛隊は壊滅して、その後にその作品固有の兵器で敵を撃退するのがお約束なんだけど、地上最強のアメリカ軍は例え未知の脅威であろうと敗北することは許されないのだ。「トランスフォーマー」だって一作目の段階ではアメリカ軍もちゃんと「パートナー」として機能していた。

とにかく美味しい要素がてんこ盛り。最後の敵がそれまで最強だったのカテゴリー「4」を超える「5」だったり、手動で自爆スイッチを押したりで電子系統がダウンしたけど、主人公機だけは旧式(?)だったので無事~!とか。

兄以外とはシンクロしないと言っていたローリーがなんでマコとシンクロする気になったのかは全く分からないけど、あれはきっとマコのタンクトップ姿が股間にクリーンヒットしたからだろう。

そういえばマコがネイティブであるはずの日本語の発音がカタコトだった事には一応理由はある(アメリカ暮らしが長くて発音を忘れた…的な)んだけど、いや、あの表現って普段は日本語→英語で喋っているのがあまりにも必死でつい「口をついて」出てしまうという表現なので、発音を忘れたような言語が口をつくだろうか…という感じはする。まあ、「カタコト」の方が英語圏の人の「聞き取りやすい日本語」になっているんだろうなあとは思う。とはいえ、この表現は多用するとくどい(というか回数が少ない方が効果的)のでせいぜい1、2回に留めるべきだった。

ツッコミ所は無数にある。「自爆スイッチ手動で押さないといけないとか正気か!?」とか「幼生の「KAIJU」とシンクロしても、記憶ないのでは…??」「ペントコストさんパイロット復帰しても訓練時間0秒はさすがにキツいのでは…??」「訓練中にプラズマキャスターが暴発しそうになった時に指令室のコード抜くと止まる(マジか)」など細かく気になるところは沢山あるのだか、そこは速やかに目をつぶるべきだろう。カッコイイロボット達がおぞましい「KAIJU」を撃破する、これ以上に大切なことはこの映画には存在しないのだ。

…最終決戦は海の中って分かってたのに全く水中戦に適用しようとしてないロボットフォルムは一体…いや、もうよすんだ。
2018
05,25
典型的な「ああ~~そっちに行っちゃうのおおお??」という映画だった。

一家惨殺された家の地下から傷一つない正体不明の死体が発見されて、それを解剖医親子が検死するというストーリー。「冒頭に死体を転がしておけ」のミステリ基本戦術に乗っかったオープニングだ。

死体を解剖するシーンは生々しいものの、リアリティがあって見ごたえがある。そして、死体を解剖すると次々に明らかになる「異常な事態」。女性の死体に付けられた「内側からの傷」、丸ごと飲み込ませられた花、儀式に使われる布…などなど。外見には傷一つないのに内部がめちゃくちゃに荒らされている、これは一体どういうことなのか…?

謎が提示されると、当然次に思い浮かぶのは「どんな鮮やかなトリックで外傷無く内部の拷問が行われたのか」という事だろう。いやが上にも緊張感が盛り上がっていく。しかし、そこに現れたのは…ホラーだった…。

いや、ほんと…惜しい…。なんかこう…前半の盛り上げが上手かっただけに、見慣れぬ人影とか猫の惨殺とか「第三者」の存在が匂わされて、死体が安置所から消えて作品が徐々にホラーにシフトしていくところとか「やめろ…やめてくれ…!」という気持ちでいっぱいだった。

まあ…ねえ…あんだけ肉体内部に刻印とか入れまくって外見無傷ってなったらもう超常の力に頼るしかないんだけど、そうじゃないだろう…と。それアリだったらなんでもアリじゃないか…になっちゃうんだよな。

推理モノを読んでいて「密室から脱出したのは犯人がテレポート能力を持っていたからだ」とか言われるようなもんなんだよな。

たしかに成り立つ。成り立つよ。お話なんだから。でもなあ~こう…う~ん…アンフェア…という言葉を使ってもいいのだろうか。

前述の密室テレポートだって、ドキッ☆能力者だらけの推理大会!とかの「前提」があれば密室からテレポートで脱出するのもOKだろう。それはそういう「推理」が成り立つからだ。

でも、これは違うよな…。外傷がなかったのは「魔法で治していたからです」って…。この残念感はぜひとも教訓として生かしていきたい。作品の方向性は必ず一致させなければならない。恋愛映画だと思ってたら急にバトル物になったり、兄を失った悲しみから立ち直るヒューマンドラマだと思って見てたら急にヒーロー物になったりしてはいけないのだ。

…いけなくはないが、視聴者の「とまどい」を生んでしまう。その「とまどい」を上手く「面白さ」に変換できれば良いのだが、これはかなり難しい。「思ってたのとは違う」はかなりのマイナスファクターだ。特に映画のような短期決戦の作品形態では視聴者が見てる間に体制を立て直すのが難しい。連載漫画のような作品を咀嚼する時間が十分に取れる媒体ならば立て直しも可能だろう。

ただ、ラストにジェーン・ドゥの遺体の傷が完全に治り、この惨劇が「犯人のいない一家惨殺」の様になっていたのは上手かった。そう、冒頭の一家もこの映画本編と同様の事が起こったのだな…という「謎」がちゃんと解けたからだ。

謎の核心である「魔法」に納得は行かないものの、この展開にはちゃんと「納得」があった。それはこの作品がラストには完全にホラーにスライドした証なのだろうと思う。
2018
05,19
正直、最初の修行パートは「いや…そんなに激しくたたいたらそれを治療しなくちゃいけなくなるから、ますます稽古が遅れるのでは…?」とか、そもそも最初の指をぶったぎるシーンが意味不明で(後でWikiを調べてやっと蝶衣がもともと六本指でそれを切り落としたのだと分かった。六本指を主張するシーンが短すぎたのか、もしくは日本版でなにかカットが成されてるような感じがする)指が四本になったら困るのでは…??など、数々の疑問が頭を巡りこの映画をどう見ていいのか良く分からなかったのだけど、中盤を過ぎて権力が中国から日本軍に移り変わったあたりで、ようやくこの作品の見方が分かって、あとはスムーズに見ることが出来た。

うーーーーん、あの激しい折檻を伴う修行シーンな…。あれはどう…なんだろう。まあ、多分本当にああいう激しい体罰を伴う指導っていうのは過去にあったのだと思うけど、人道的な理由はもちろん、普通に効率悪くないか…?と思う。手の皮がむけるほどたたいたりしたら練習できないし、後遺症とか残ったらどうなるんだ…?という感じである。しかも、あの折檻シーンが特に「問題」とされてるフシもなくて、蝶衣も小楼も師匠に普通に感謝してるみたいだし、まあここら辺は文化の違いもあるかもしれない。

ただ、本当に恐ろしかったのは蝶衣が小四に折檻をしてる場面で、やっぱり自分が成された指導を後輩にもしてしまうのか…という因果を感じずにはいられなかった。結局、蝶衣が「人を説得する」方法を折檻以外に知らなかったために古い体制に反発する小四には折檻が効かず、それ以外に説得の手段を持たない蝶衣はそれ以上のコミュニケーションを取ることが出来なかった。最終的にそれが小四の裏切りを引き起こし、京劇の崩壊につながったと考えると皮肉めいたものを感じる。

この映画の大きな見どころはおそらく二つで、激動の時代の中で翻弄される「京劇」と、小楼の男女を問わないめくりめく愛憎劇なのだろう。

時代(統治者)が移り変わっても、「京劇」というか文化は常に重宝されるんだよな。結局、幼いころの激しい修行の末に身に着けた芸は蝶衣と小楼を生涯に渡って救い続けた(「救い」…というか、経済的に困窮することは無かったというべきか)し、最後に自分の力になってくれるのは頼りになるパトロンや地位ではなく自分自身のスキルなのだという事を教えてくれる。現代日本…いや、全時代的に通じる真理だろう。

しかし、香港・中国の合作映画とはいえ、「観戦態度は日本兵の方がマシだった」という描写がなれていたのは本当に驚いた。まあ、作劇上の問題もあるし、それをいうなら「権力者の移り変わりで価値観というものはいかようにも変容する」というこの思想自体、かなり危険なものであるとも言える。

愛憎劇の方は、やっぱり蝶衣(レスリー・チャン)のお顔が良いので耽美、耽美という感じである。袁四爺からの剣♂の贈り物も意味深である。

ただ、正直小楼がな…。本当に蝶衣がこう…求めるほどの人物だったのかな…。子供の頃からの付き合いがあるとはいえお調子者で思慮が浅くてすぐにカッとなって…とあまりにも良いところがない。うーーん、まあ、阿片に溺れていた蝶衣を救ったのは功績だとしても、やっぱりあの弾圧の時に状況的に仕方がなかったとはいえ、本当の妻の菊仙の事も蝶衣の事も守ることが出来なかったのが決定的だった。

菊仙はその直後に自殺してしまうけど、蝶衣は生き残る。菊仙と同じように小楼に失望したものの、おそらく「虞美人」として死にたかったのだろう。ラストに覇王別姫のリハーサルを行った際に年老いてキレの無くなった小楼に対し、当時のままの姿を保っていた蝶衣。あの弾圧からずっと、この役で死にたいとある意味で「死ぬために」生きてきた期間は彼の時間を進めなかったのだ。

現実の小楼には失望したものの、それでも今目の前にいるのは項羽としての小楼だ。自分が愛した現実の小楼に別れを告げ、役の中の王である小楼と共に永遠を生きることを選んだのだ。あまりにも悲しいラストに思えるが、かつて自分が「女」で無いゆえに菊仙に小楼を奪われた小楼は、今、「虞美人」として永遠に女性になる事が出来たと考えると、蝶衣としては本望だったのかもしれない。

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