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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
04,18

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2021
06,19
いや~、ひどい映画だった。

なんというか、ただひどいだけじゃなくて面白くなりそうな要素がいっぱいあるのにそれを全部無視して作ってるというか…上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき思想。

ホラーの題材として「事故物件」があって、起こった現象を元にその物件で何があったのか?を推測するというコンセプトは良いと思う。ただ、それがあまりにも雑すぎる。4件も処理しなくてはいけないので一つ一つがすさまじく浅い。これなら物件数は2個くらいに絞った方が良いと思う。

最後の物件も、「無理心中を図って抱き合って死ぬ」という現象が示されてるのにホラーの方には何も反映されていなかった。「無理心中」(一方は拒否)という状態だったはずなのになぜ最後は「抱き合って」(合意の形)いたのか?といういう所からも面白く作れそうだったのに結果はご覧のとおりである。

4件目の物件が過去にいくつも事故が起きていて何体もの霊が出てきた、というのはいいんだけどやっぱりあの親玉であるシスのパルパティーンみたいなやつを倒すところがあまりにも稚拙でひどかった。あんな演出でなぜOKが出たのか、それが不思議でしょうがない。

霊媒師の高田純次を始め、無駄に豪華なエキストラがただでさえ無くなりかけている集中力を奪っていき、どんどん作品への興味を失わせる。ダメ映画の基本もしっかり押さえている。

ただ、事故物件には申告義務があること、「心理的瑕疵」という注意書きをしなくてはいけないこと、そして何より事故物件に誰かが住めば次からは申告しなくて済むようになるということ(事故物件のロンダリング)と言った事故物件豆知識は面白かったので星を一つあげた。

「事故物件のロンダリング」ネタは最後にヤマメと梓がなんだかんだ一緒になって、「今度は事故物件じゃないところに住もう」と思って選ぶんだけど、実は…というオチに使われるかと思っていたのに、赤い服のおばさんがトラックに突っ込むというわけのわからんオチで終わったのが本当に悔やまれる。というか、普通の感覚ならこれオチに持ってくるよね??外すにしてもそこじゃないだろという感じだった。
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2021
06,14
「辞書を作る」というテーマが気になって見てみた作品。

松本先生の辞書に対する姿勢や、新語などを収録した未来を見据えた「大渡海」のコンセプトなどは良いとは思うんだけど、いろんな所で「入っていけない」感じだった。

まず、この会社の配置おかしい。言語学を専攻して入社したコミュ障馬締をなんで営業部に回すのか理解できない。こういうスパルタ的な配置もあるんだろうけど…ええ…という感じ。西岡も編集には全く向いてないと思うものの、あの頭の柔らかさや営業力は辞書編集部に必要な部分もあった…かな…??と擁護の部分が無い事もない。

一番意味不明だったのは馬締の告白を香具矢が受け入れるところなんだけど、あの流れで受け入れる要素なに!?本当にさっぱり分からなかった。そもそも、「辞書を作る」というコンセプトに惹かれて見てたのにラブコメ要素が入って来て、こういう要素を入れないと間が持たないのか…とガッカリした面もある。

終盤、ミスを徹夜で再チェックするところも徹夜のぼーっとした頭で確認してもまたミスが出るだけだろう…とか細部の雑さが目立って良いところが目がいかない感じになってしまった。

松本先生が辞書の完成を見ることなく死んでしまう展開も、それ自体は良いと思うんだけど、この展開が持つ意味が今一つ伝わってこない。「大渡海」は未来に向けた辞書なので、自分(松本先生)ではなく、次の世代の人間たちにこそ使って欲しい、みたいな流れがあればもっと納得できたんだけど。

「辞書を作る」がテーマだからしょうがないのかもしれないけど、結局作った「大渡海」がどのように使われたのかとかの描写が一切ないのもかなり気になる。結局辞書は使われてこそ初めて意味を成すと思うので、作りっぱなしだと一人よがり感が増してしまう気がする。
2020
10,13
なんというか、クイーンというかフレディ・マーキュリーの断片的に知ってる半生を順序立てて見ることが出来て、ストーリー展開はああ、こんな感じだったのか~という範疇を越えないのだけど、正直この感想を「I Was Born To Love You」をPrime Musicで流しながら書いているので完全に術中にハマっている。

正直、この映画を見るまではクイーンの楽曲はジョジョのキラークインの元ネタになったという理由で昔ちょっと聞いたくらいでそこまで印象に残った感じではなったのだけど、映画を見た後に聞くと様々な楽曲がぐっと胸に「刺さる」感じがする。特にクライマックスの「ライブ・エイド」で流れた楽曲群は何度もリピートして聞いてしまっている。

というか、この映画見た後に「You Tube」で「ライブエイド クイーン」って検索しないでいた人いる!?絶対に検索するよね???そんでその再現度に二度びっくりする。舞台装置はともかく、ピアノの上に無造作に置かれてたペプシですら再現されたものだったとは…。元ネタのライブを熟知した状態でこの映画を見た人は絶対にペプシで大喜びしたと思う。あのペプシの配置は文字の向きとかも完全にこだわり抜いて置かれていて、この映画へのこだわりそのものが出てたと言っても良いと思う。

劇中ではフレディが墜ちていくところやクイーンのメンバーと不仲になる要因は全部ポールが肩代わりしていたけれど、あれは映画としてまとめるために大幅にデフォルメしたものなんだろうなあとは思う。あとメンバーとフレディの確執ももっと複雑な感情が入り乱れていたとは思うんだけど、多分、かなりメンバー寄りに都合のいい解釈で作られている(メンバー側ももっとフレディに対していろいろ思う所はあったんじゃないかな…)とは思うんだけど、映画的には勿論これで全然OK。

ハットンは超重要人物のわりに全体的に描写が少なくて、映画だけだと正直フレディはどこに惹かれたのか分かり難いんだけど、ハットンが生涯フレディを支え続けたのは「事実」なので、これはもうそういうものと受け入れるしかない。史実ものの強みの一つだとは思う。

劇中のフレディのセリフに「音楽は聞くものにこれは自分のための曲だと思わせる事が大事」というセリフがあって、これはもう音楽に限らず創作物すべてに通じる真理だと思った。映画でも漫画でも、感情移入が大事だといわれる。なぜ、感情移入が大事なのか。それは、その物語を「自分にとって大切な物である」と感じてもらうために他ならない。どんなに作中の人物や物語の展開に衝撃的な事が起こっても、それが「他人事」である以上、感動は無い。人は「自分自身に関連すると感じていること」が起こって初めて感動するのだ。(それが自分自身に起こっている事なのか他人に起こっているのか、現実なのか創作上なのか、それは関係ない。)

このセリフがフレディが実際に言った事なのか、映画での創作なのかは分からないけれど、「音楽」でもやっぱりそうなのか…という所で強い感銘を受けた。そして、この映画を通じてクイーンという存在、フレディ・マーキュリーという存在が見る前よりも確実に「自分事」となった事で、数々の楽曲が胸に刺さるようになったのかな、とは思う。
2020
10,04
結論から言うと合わない映画だった。

まず、アンドリューの事を全く応援出来ない。偉大なジャズドラマーになるという夢があるのは分かったけど、視聴者側に「彼の夢が叶うと良いな」と思わせるエピソードが一つもなかった。家族に音楽をバカにされたとはいえ、他の身内の功績や活躍を否定し、自分から付き合って欲しいといった恋人に対しても一方的に別れを告げる。挙句の果てには一度別れた恋人にもう一度自分の演奏を聴きに来てほしいと電話する様子は普通にサイコパスの部類だった。一体どういう心理になればあの状況でもう一度恋人と「やり直せそう」だと考えられるのか。

脚本もひどい。分岐点となる要素が全て「偶然」で成り立っており、それになんの積み重ねも思い入れもない。タナーの楽譜を無くした時も、あれは当然フレッチャーが隠したものだと思っていたらどうもそうではなく、本当に偶然「無くなって」しまったらしい。しかも、アンドリューを代役として立たせるためだけにタナーに楽譜が覚えられないという取って付けたような設定を付与している。それ以外にも、アンドリューが演奏会に行く途中のバスが「偶然」事故る、学校を退学した後に「偶然」立ち寄ったバーでフレッチャーと再会する…など、完全に「展開ありき」のつなぎ合わせでなんの必然性も感じられない。

フレッチャーの指導方法も全く共感できるものではなかった。「その人間が天才であるならばどんな苛烈な指導をしても必ず出てくる」という方針に共感は出来ないものの、一定の理解は出来る。だが、最後にフレッチャーは自分を音楽院から追い出す密告をしたアンドリューの事を陥れ、JVC音楽祭で多くのスカウトの前で再起不能にしようとまでした。自身の教育方針が苛烈と分かって居ながら自分に向けて憎しみが向けられることを想定していないというのはあまりにも無責任だし、なんら美学がないと感じてしまった。

ただ、JVC音楽祭で逆境に立ったアンドリューがその逆境をはねのけ、自分の演奏を仕切ったところだけを見ると、彼の「その人間が天才であるならばどんな苛烈な指導(あの「陥れ」ですらも「指導」と解釈するなら)をしても必ず出てくる」という信念だけは結果的に見れば達成されたようにも見える。そこを勘案してギリギリ★2とした。
2020
09,26
そもそも、ホラーものなのに舞台が「白夜」というのが恐ろしい。ホラーは本来「夜」が本番のはずなのに、その「夜」が来ないという不思議な感覚。ゴア描写が思いっきり「見えちゃってる」のも夜の闇が無いという部分が大きく、あれはこの映画の特徴である白夜を強調するための必要なシーンだと思う。(途中から結構暗くなってる場面もあった様な気もするけど)

主人公のダニーは家族を失ってしまった事により精神的に追い詰められており、過呼吸になったり「家族」という言葉に異常に敏感になってしまってはいるものの、勝手に旅行を決めたり自分の事を疎ましく思い始めているであろう恋人のクリスチャンに対してもあくまでも「話し合い」を元に解決の道を探ろうとする理知的な女性に見えた。

そんなダニーに「襲い掛かって」くるのは古来からの「村の風習」こそが正しいと信じ切っている村人たち。その「価値観の違い」が如実に表れたのはやはり老人の身投げのシーンだろう。こちらの価値観から言えば残酷に見えたあのシーンも、村人の立場からすれば生命の輪に帰れる「喜び」なのだ。村の女性も言ってたけどこちらの様に老人ホームに入れられて「無駄に」生命の輪に帰るまでの時間を引き延ばされる方が彼らにとっては拷問なのだ。

ここで重要なのは「価値観に善悪はない」ということ。ホルガ村の風習自体は「悪」ではない。例えば壁画にあった求愛対象の食べ物に陰毛を、飲み物に経血を入れるというのも…「悪」じゃない。そういう習慣なのだ。クリスチャンは毛には気付いていたけれど、見ている側は飲み物もばっちり濁っている事も気が付けるので嫌悪感はさらに倍である。

村の中だけで完全にコミュニティが機能しており、ここに居る限り村人は「幸せ」に包まれて暮らしていける点では現代社会よりも優れていると言っても良い。

…しかしそれは、本当に村の中だけでこのコミュニティが成り立っていれば、という話である。現実問題として、「血」が濃くなりすぎる事を防止する為や「いけにえ」の為に外部から定期的に人を入れなければならない。ここがホルガ村の「影」の部分なのだ。そう考えるとダニーが不自然にクイーンに選ばれたのも、そもそもクイーンは外部の人間がなるように仕込まれていたんじゃないかという気にすらなってくる。

この部分に関してははっきりと「悪」であると断言できる。「ミッドサマー」で残念な部分(自分が期待していた展開と違う部分)はここで、あくまでも「価値観の違い」による恐怖を見せてくれのかなと思っていたけど、こういう展開になってしまうと「山奥のカルト教団に襲われて命の危機に晒される」というパニックものと根本的に変わらないように見えてしまうからだ。

ダニー以外の外部の人間は全員「いけにえ」として処理された。恋人であるクリスチャンにも裏切られたダニーは最後、笑っていた。

あれはきっと、ダニーがこの村の価値観を受け入れた瞬間だったのだろう。家族も恋人も失ったダニーだが、この村の価値観を受け入れてしまえば、村の中で幸せに暮らすことが出来る。それこそ、彼女が失ってしまった「家族」がこの村にはあるのだ。それを取り戻したからこそ、彼女は笑みを浮かべたのだと思う。

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