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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
05,01

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2018
09,17
名前は知ってるけど、見たことないから見てみようシリーズ。

これまでとちょっと違うのは、「ショーシャンクの空に」は見る前から割とあらすじを知ってしまっていて、「ポスターの裏にトンネルを作って脱走する」事を知った上での鑑賞となる。

まあ、もちろん公開から相当経っているし、有名な作品なので、見たことないけどネタは知ってるという事は往々に起こり得ることだと思う。そういう状態の映画を実際に見るとどうなるかな?と思って見てみた面はある。

結果的には、やはり「驚き」という面ではなかったものの、その事象が起こるまでの流れは正確に把握できたので、映画がかなり見やすくなったというのはあったと思う。ただ、「ショーシャンクの空に」そのものが、随所でレッドの解説が入ってくれるおかげでかなり状況把握しやすい映画だったので、正確な効果が分かりにくかった部分はある。

ロックハンマーやポスターなどキーとなるアイテムが集まってくるのはニヤリとした。ノートン刑務所長の刺繍の裏の金庫も、隠し通路のメタファーだったのだろう。ただ、あのポスターはどうなのかな…20年…隠し通せるものなのだろうか…。さらに、独房側の穴はともかく、脱出先の壁に思いっきり穴が開いてた気もするんだけど…。まあ、あれも一応隠してはいたのだとは思うんだけど。脱出の最後の最後で蹴破ったという可能性も無くはないか。「大雨」という排水管が一番活躍するときのそこを通るというのもかなり危険だ。

疑問もある。結局、デュフレーンの愛人とゴルファーを殺した真犯人は捕まっていないし、「6発入りの拳銃なのに8発撃った」という意味深な描写も特に生かされないままで終わってしまった。拳銃の弾はものすごく意味深に描写しているのでなにかあるのか…?と思ってたけど、特になにもなかった。あれなら別に弾を数える必要もなかったのでは、という気がする。明確な殺意を暗示するのには使ったけど…それだけのためにしてはなにかトリッキーなものを感じた。

やっぱり大ネタを知ってはいても実際に映画を見てみないと分からない魅力はあった。刑務所内の雰囲気、服役が長くなればなるほど、刑務所以上の「恐怖」を娑婆に感じるという現実。これは生々しかった。

刑務所では穏やかに過ごしていたブルックスが娑婆に放り出された瞬間に焦燥と無力感に苛まれ自殺する流れは痛々しかった。しかし、彼は何の罪で50年も服役していたのだろうか。それなりの罪ではあったと思う。刑務所で過ごした穏やかな日々は一見すると分からないものの、確実に彼に「刑罰」を執行していたのだ。ある意味で即座に死刑になる事よりも恐ろしい罰なのかもしれない。

刑務所内にあっても、デュフレーンが持ち込めたもの。それは彼の頭脳と希望を失わない心だった。傍若無人に振る舞う他の受刑者に最初はやられてしまうものの、直接の抵抗はせずに看守の方を抱き込み復讐するという手段は正直、スマートだ。

他の受刑者がレッド自身も「ルーティーン」と呼ぶ希望の無い、代わり映えの無い毎日に身を投じ、それが終わればその「ルーティーン」ですらマシと思える絶望が待ってる、そんな中にあってもデュフレーンだけは希望を失わなかった。どんな状況でも活路はある、希望を失わない限り。そんなメッセージ性を強く感じた。

もう一つはやはり「友」の存在だ。いくらデュフレーンが鉄の意志を持っていても、レッドという友がいなければ20年に及ぶ監獄生活には耐えられなかっただろう。だからこそ、デュフレーンは自分が夢見た生活にレッドを呼んだのだ。

脱出用の道具を「調達」してくれた礼の意味もあったかもしれないが、デュフレーンが居なくなったあとの刑務所にレッドが虚無感を感じていたように、レッドの居ない生活に寂しさを感じることがデュフレーンには分かっていたのだろう。

ラスト、青い空と海の元で再会するレッドとデュフレーンのシーンを見て、自分も友人に会いたくなった。希望と友人、本当に大切なものをこの映画は二つも教えてくれるのだから間違いなく名作なのだろう。
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2018
09,16
題名は知ってるけど見たことない映画をどんどん見ようシリーズ。

3時間に及ぶ再生時間に二の足を踏んでいたのだけど、やっぱり見てよかった。2は200分あるらしいのだけど、見てみたいという気持ちになっている。

長時間映画は時間に余裕があるからか、セットアップ部分がタラタラしてる印象があるのだけど、ゴッドファーザーは最初の一分、ドンに「依頼」をしているシーンからもう面白かった。まさにマフィアのボスに裏の仕事を依頼しているテンプレイメージそのもののシーンである。(ただ、この冒頭の「お願い」シーンと結婚式がなんだかんだで30分続くのでセットアップがゆっくりしているのは間違いない)

Wikiを見てようやく理解したのだけど、シチリア人は「娘の結婚式にされた依頼は断れない」というものがあるらしい。だからみんなヴィトーの娘の結婚式にお願いに来てたのだ。結婚式の華やかなシーンと暗い依頼シーンの対比なのかなと思ってた(演出の意図的にはそれもあるんだろうけど)んだけど、それだけではなかったらしい。

こんな感じで、補足説明してくれればもっと分かりやすいのになあという場面が結構出てくる。説明役がセリフで補足をして「くれない」というのは映画がアニメや漫画と違う所だよな、と思う。(してくれる映画もあるけど)

強大な権力を持つ「ゴッドファーザー」、ヴィトーを中心としたコルレオーネファミリーの冷徹なまでの暴力と政治力を用いた「交渉術」、麻薬には手を出さないという信念、息子には堅気でいて欲しい(まあ、ソニーとフレドはもう幹部だったけど)という流れ、マフィア間の抗争などなど、今現在「マフィアの世界」としてイメージしているそのもののシーンがどんどん出てくる。それほどまでにこの作品が後の創作や世間の「イメージ」に与えた影響は大きいのだろう。

個人的にはジョジョへの影響をめちゃくちゃ感じた。最初のファミリーへの依頼シーンは「眠れる奴隷」のブチャラティへの花屋の親父の依頼シーンそのものだし、ファミリーの「ルカ」という名前や、ラストシーンでマイケルが新ボスになり、扉が閉じるシーンはジョルノがボスになってミスタが窓を開けるシーンを彷彿とさせる。

ストーリーもいいが、何といってもキャラがいい。ヴィトーは物腰も落ち着いていて紳士的なのに、瞳の奥に有無を言わさぬ「凄み」を感じさせる。まさにゴッドファーザーのイメージそのものだ。

最初は堅気だったマイケルがヴィトー襲撃を機にマフィアとして染まっていく様子もいい。逃亡先のイタリアでアメリカ時代の婚約者の事をすっかり忘れて現地の娘にいきなり求婚しだしたり、アメリカに戻ったら即座に元の恋人とヨリを戻そうとしたりして女癖は悪かったけど。まあ、イタリアで結婚した娘は暗殺に巻き込まれて死んでるんだけどさあ…。

ファミリーに忠誠を誓う弁護士のトム、短気なソニー、なんだかんだで頼りになるクレメンザなど、ファミリーの面々も良いキャラが揃っている。稼業の冷徹さとは裏腹に、ファミリーの内側に居さえすれば「心地よさそう」と思わせてくれる雰囲気がある。その分、裏切者や敵対者には容赦がない。そんな「マフィアの世界」に映画を通じて浸らせてくれるのだ。

映画は普段とは違う「別世界」を体験させてもらえるものだという事を強く感じた。それゆえの180分なのだ。自分がまるでコルレオーネファミリーの一員になったような「体験」。それを感じさせてくれる「ゴッドファーザー」はやはり世代を超えた名作なのだろう。
2018
09,15
これも例に漏れず題名とドアの隙間から見えるイカれたおっさんの顔だけは知ってるけど、中身は知らなかったので見てみたシリーズ。

色々言いたいことはあるんだけど…すごい作品だとは思う。特に前半の一時間位はこう…「小説家のジャックが小説書く片手間にホテルの留守番役を任されるんだけど、そのホテルは曰く付きで、息子はなんか不思議な力を持ってます」みたいなセットアップが行われるんだけど、ぶっちゃけかなりゆったりめに感じるんだよな。

物語的に大きな動きが無いので気持ち的には節分の豆を延々と食べてるような気分になるんだけど、なんだかんだで興味を引かせられる演出の力がすごい。双子の女の子がポンと出てくるのとか、廊下が血の洪水に飲まれるやつとか、ああいう視覚的に衝撃的なカットを挟むと視聴者の気持ちが途切れにくいのだなと思う。

演出面ではかなり惹かれるものがあったものの、ストーリー的にはかなり微妙。というか、提示された要素が全然生かせてない。結局「シャイニング」がなんだったのかよく分からずに終わってしまったのもかなりモヤモヤする。ダニーが持っている何かの能力、ということ以外なにも分からない。

ハロランも同じ能力を持っていたらしいのだけど、彼は胸騒ぎがして雪上車に乗ってホテルに来てくれたのはいいんだけど、来て早々ジャックに殺されてしまったので、シャイニングが何かを提示しているヒマが無かった。(なにかしてくれそうなハロランが何もせずに退場したのは結構驚いたし、なんだかんだで彼の乗ってきた雪上車に乗ってウェンディとダニーは脱出できたのだから、まあ、この早期退場自体はそこまで悪いものではなかったと思う)

うーん、最初にダニーと会話した時に「アイスが欲しい」と言っていたのが通じたり、おばあちゃんと会話なしに意思の疎通がが出来たというエピソードを見るに、「シャイニング」を持つもの同士は意思の疎通が出来る…とかそんな感じなのかな。ホテルに助けに来てくれたのも、ダニーのピンチを「シャイング」を通じて感じ取って来てくれた…とか?

まあ、結局この作品は「呪われたホテル」(虐殺されたインディアンの呪い?)の呪いがジャックに掛かって狂ったジャックが妻と子供に襲い掛かるというシンプルなストーリーなので、いろいろ目をつぶって「恐怖演出」を楽しめばいいだけな気もするんだけど、一個だけ絶対に許せないのは倉庫に完全に閉じ込めたジャックが超常現象の力で脱出した事なんだよな。

それまでのパーティの様子とかは「幻覚」で済ませられるけど、「倉庫からの脱出」という物理要素を超常の力を借りてやってしまうのは自分の中では「一線を超えた」NG。

めちゃくちゃ頑張って擁護するなら、今回の元凶はホテルそのものなのだから「力」のスタンドの様にホテルそのものが超常に支配されていて、鍵を開けたりすることも可能という解釈が出来ないこともないのだけど、あの倉庫からジャックが脱出した瞬間にこの映画に対する緊張感が解けてしまったのは事実なのでしょうがない。その後の有名シーンである斧でドアをぶち壊すシーンも「はいはい」という感じである。

うーん、先週の「IT」でもうすうす感じていたんだけど、個人的にホラーが苦手なのかもしれない。というのも「ホラー」はかなりシーン単位の驚きが優先されるところがあって、シーン単位を盛り上げることを優先して説明はつかないけど、こういう「画」があったほうが盛り上がるでしょ!というのをぶち込んじゃうんだよな。演出としてそういう手法も当然理解は出来るんだけど、ここは好みの問題で、個人的には描写をしたならちゃんと責任を持ってほしいんだ。

もちろん、劇中で全部説明されると興ざめするというのも分かるので、そこら辺の「さじ加減」が難しすぎるんだよな。個人的には「シャイニング」は説明不足過ぎると感じたけど、逆にこの「説明のなさ」が見た人それぞれの解釈を呼び起こして今に伝わる「名作」になってる気もしている。

ただ、最後の最後に見せてくれたジャックの氷漬けが面白かったので星は一個上乗せ。ジャックの顔芸だけはやっぱり時代を超えてすごかったことだけは間違いない。
2018
09,08
とりあえずあのレインコートの子供が排水溝にいるペニーワイズに引き込まれる、パロされまくってるシーンが冒頭10分で出て来たのでちょっと驚いた。あの場面、こんな冒頭も冒頭だったのか…。

あのパロだと引き込まれた直後に葬式のシーンがあるので、アレっと思ったんだけど、パロされてるのは1990年版の方なんだね。でも、この作品は「行方不明のジョージーを探す」というのがモチベーションになってるので、葬式されちゃったらそのモチベが消失してる気もするんだけど…。話の構成がかなり違うのかな。

ペニーワイズの場面は確かに怖い…怖いんだけど、「大したことない」んだよな。最初のうちは怖いんだけど、段々と「あること」に気が付いてしまう。というのも、ジョージーと不良グループの一人(名前が分からないけど)以外、ペニーワイズのに襲われても死なないんだよな。ベバリーとか、どう考えても洗面所の血だらけ場面で死んでるはずなのに生きてるし、最後のフワフワ浮いてる所とか完全に死んでたのにまだ生きてるし。

エディも二階から落ちてそのまま死んだかと思ったら生きてるし、なによりもビックリしたのは絵におびえてる少年のスタンリーが、ラストダンジョンの排水溝で思いっきり頭からかじられてるのに無傷だったこと。いや、あれは…死んだだろう…。死んでないと…ダメだろ…。

結局のところ「恐怖」っていうのはその根底に「死」がある訳で、どんなにおっかなビックリな演出をされても最終的にノーダメージで終わってしまうとジェットコースターやお化け屋敷的な「安全な」驚きしかない。これではどんなにペニーワイズが頑張っても全然恐怖を感じない。明らかに失敗だと思う。「“それ”が見えたら、終わり」って言ってんのに終わってないんだよな。

でも、これは仕方のない部分もあって、最後に「第一章」と出ていた通り、多分これ続編(大人編)があるんだろうと思う。その前に「またこの街にペニーワイズが出たら集合しよう」みたいな描写があったし。そのためにも、メインの登場人物に欠員が出ることが許されなかったのだ。

不良グループもかなり存在意義に疑問が残る。アメリカのスクールカーストの表現なんだろうけど、必然性をあまり感じない。ペニーワイズ、不良グループ、負け犬クラブの3組による攻防という図式はいいと思うし、不良グループの一人がペニーワイズに襲われた時は「化け物には化け物をぶつける」理論でちょっと面白かったんだけど、意外と…こう…跳ねなかった。あ、でもマイクがペニーワイズに襲われそうになった時に空気の読めない不良の車が邪魔をして助かった場面も良かった。不良グループにはああいう「意外性」を期待していたのに(助かるだけでなく、ペニーワイズを追い込んだのに不良のせいで逃がす…みたいなピンチがあっても良かった)まあ、不良グループもペニーワイズにそそのかされてたね…みたいな…感じで終わってしまったのは勿体なかった。

文句ばっかりなんだけど、ペニーワイズに対するダメージの通り方も微妙。結局のところ、ペニーワイズはどっかの人間のおっさんが仮装してる存在じゃなくて正真正銘のこう…超常的存在なので、こんなところに突っ込むのもアレなんだけど、物理攻撃が効いてるんだか効いてないんだか良く分からない。はっきり言うとダメージで言えば最初の井戸の館に乗り込んだときにベバリーがペニーワイズの頭を棒で貫通した時点で勝負は決まってるはずなのに全然効いてないし、かと思えば最終戦でのみんなの集団リンチシーンでの攻撃は効いてるように見えるし…。良く分からない。

まあ、あれも最終戦ではみんなが一つになったことでペニーワイズへの恐怖が消えて、その立ち向かう心で攻撃してるから効いてるんだろうな…っていうのはなんとなく分かるんだけど、それはそれとしてベバリーのクリティカルヒットがチャラになってるのは納得いかないんだよな…。

ベンのデブなのにすごいイケメンな目をしてるところとか面白かったし、詩とかでベバリー興味を引いてたのも良かったのに、最終的に結局ビルに取られてて、やっぱイケメンには敵わないのか…と釈然としない気持ちになった…。

いや、あの…そいつ浮いてるあんたを放置して弟追っかけてたんですけど…。まあ、ジョージー奪還はこの作品の最重要事項なのでまあ、しょうがないっちゃあしょうがないんだけど、キスで助けてくれたのはベンなんだよ…。なんでなんだよ…。
2018
08,19
冒頭。立ち上げシーンで「身分の違う恋」というこれだけでも一本映画がとれそうなネタを爆速で仕上げていく。軽やかなミュージカルシーンでミュージックビデオを見るように一気にスッとストーリーが入ってきてしまう。ミュージカルの強みだ。

二人は幸せなキスをして終了…からがこの映画の始まりなのだ。上流階級と下流階級。チャリティを手に入れたことで解決したかに見えるこの構図はバーナムにずっと黒い影として付きまとう。

「プロモーターが主人公」というのも新鮮に見える。野球で言う監督ですらない、言うなればオーナー?でもないな。NBPとか…?まあ、とにかくあまり見たことが無い視点から物語が展開する。それだけでも面白い。

バーナム自身の明るいキャラクターと強い意志、ミュージカルシーンに支えられて、暗くなりがちな展開にも関わらず軽快にストーリーが進んでいく。「ユニークを集めたサーカス」というかなりな危険なアイデアも明るく、華やかなものとして描かれている。

ただ、サーカス面子の歌とダンスがすごすぎて、バーナムのバレエをやってる方の娘が「バレエはサーカスとは違って高度な訓練が必要」っていうシーンがあるんだけど、確かに、史実としてのバーナムのサーカス小屋はユニークたちを「見世物」としていた「ショー」とは程遠いものであったはずなので、このセリフは成り立つんだけど劇中のサーカスはマジで現代舞台も真っ青の超高度な舞台に仕上がっていて「いや~、あれは高度な訓練が必要だよお嬢ちゃん…」という気持ちになってしまう。

娘と言えば、二人の娘がキャッキャしてるのは非常に可愛らしいんだけど、バレエをやってない方の子の存在意義というか、必要性があまり感じられなかったんだよな…。史実としてバーナムに二人の娘が居るから~とかかもしれないんだけど、娘一人でも良かったような…気がしないでもない。

正直言うとバーナムがすごい悪いヤツに見えるんだよな。劇中でも触れられているけど、自分の野心…というか、野望のために集った仲間を口先で利用して平気で裏切るような、そんなキャラクターとして描かれてる。それはもちろん、彼自身が幼少期に受けていた身分の低い「仕立て屋の息子」としての扱いに起因するトラウマの様なもの(「上流階級へ認めさせる」ことへの異常なこだわり)なので、結局は彼を虐げた上流と下流というこの社会の構造が原因であるのだけど。あと、演者というか、この…ショービジネスに携わる人間から見たプロモーターのイメージというのが「そういうもの」という皮肉も込められているのかもしれない。

新たに仲間にしたフィリップの戦略は素晴らしかった。えてして「ゲテモノ」扱いを受けていたサーカスに「エリザベス女王の謁見」という箔を付けたのだ。狙うべきは頭から、というこの戦略は実現さえできれば本当に有効なのだ。

しかし、この「箔」を付けるために行った行為は、逆にバーナムとオペラ歌手のジェニーとの出会いを生んでしまう。もちろん、ジェニー自身は悪いキャラクターではない。恵まれた生まれではなかった自分の環境から、慈善事業も積極的に行う善良な人間だ。しかし、バーナムはチャリティの父親(上流社会)を見返すことに躍起になりすぎていて、上流階級で受けそうな出し物(オペラ)に流れてしまう。それまでの彼を支えていたサーカスの出演者たちを隅に追いやるようになるのだ。まるで昔の自分が上流階級の人間に受けていた扱いの様に。ここの心の動きがめちゃくちゃリアルでこれを描くとバーナムが悪いやつになるんだよなあ…っていうのが分かっていながら敢えて描写されている。

それでも、バーナムが主人公としての「格」を失わなかったのは、燃え盛るサーカスの中からフィリップを救い出したからだろう。これはおそらくフィリップでなかったとしても、サーカスの出演者の誰であっても、彼は炎の中に助けに行っただろうという確信を持てるシーンだった。この一点が契機となって彼の評価は逆転していく。

オペラ興業が失敗し、ジェニーとの不倫疑惑で妻も娘も失い、サーカスは焼け、全てを失ったバーナム。その状態になって初めて、彼は自分がショーに何を求めていたのか、なぜ自分がショーをやろうと思ったのか、それを思い出した。それはチャリティと初めて出会った時、上流階級のマナーのしがらみにとらわれていた彼女を「笑わせてやろう」と思った時の、自分の中から自然と湧き出した気持ち、すなわち「人を笑顔に、幸せにしてあげたい」という願いを思い出したのだ。

それが彼の原点であり、ショーにおいて…いや、人が人を楽しませるおよそ「表現」と呼ばれるもの、それらすべてに共通する、最も大切なものなのだ。

思い出の海岸でフィリップと再会するチャリティ。彼女の言葉「私は愛する人だけを求めた」は重い。上流階級の暮らしを捨て、常にバーナムを支え続けた彼女の言葉。最初から最後まで信念を貫き通したのは彼女の方だったのかもしれない。

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