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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
04,25

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2020
02,08
この映画を2020年に見るにあたって、意識しなければならないのは公開が2001年、つまり20年以上前のことだ、ということだろう。冒頭から始まるインターネット掲示板の書き込みに一種の「アングラ感」が残っていた時代だ。リアルで追い詰められている雄一が「自分を出せる」と思っている場所もまた「閉塞感」のある場所なのだ。描写として取り上げられている援助交際や校内での激しいいじめなどが社会現象として本格的に取り上げられていた時代でもあったと思う。今見ると懐かしささえ感じる描写も当時としてはかなり最先端だったと思われる。

それこそ、思春期時代にこれを見たら「他人ごと」とは思えないようなリアルさを感じられたのではないかと思う。もちろん描写としては映画的なデフォルメが行われているので身近で殺人や自殺あったとはではなく、そういう息苦しさは感じられるのではないだろうか。

そういった時代的な要素は排除するとして、この作品のコアは何かというと現実で追い詰められている雄一が歌(創作)を拠り所にし、それを破壊するもの(星野)を許さなかったということだと思う。

星野によるリリイ・シュシュの「破壊」は「CD」と「ライブチケット」の二回行われている。ライブチケットの時は「CD」とは違い、雄一は掲示板「リリフィリア」で得たと思っていた理解者「青猫」をも同時に失っている。理解者だと思っていた「青猫」は自分を追いつめている星野であり、さらに星野はリリイ・シュシュの「破壊者」だった。二度と同じ時間が手に入らない「ライブ」をも破壊された雄一はそれを許すことが出来なかった。

それは、自分を少し頼ってくれた女の子(津田)が自殺しても、自分にリリイ・シュシュを教えてくれた女の子(久野)が強姦されても燃え上がらなかった激情を焚き付けるには十分だった。つまり、二人の女の子よりも、雄一にとっては「リリイ・シュシュ」が上位の存在だったということだ。

「リリイ・シュシュのすべて」が誰をターゲットに作成されたのかは良く分からないけれど、こういう青春邦画を見るような層よりも、「創作を拠り所にしている」という点ではむしろオタク視点の方がストーリーに入りやすいのではないかと思う。

ただ、ラスト、星野という障害を取り除いた雄一は髪を染めて髪を失った久野と改めて向き合う事になるが、彼はきっともう「リリイ・シュシュ」を聞いていないと思う。「拠り所」を必要としなくなったのだろう。いつまでも創作にズブズブ埋まってるオタクとはやっぱりそこが違うんだなと思った。

余談だけど、「リリイ・シュシュ」がチャート一位を獲得するようなメジャー歌手なのはちょっと違う気がするんだよなあ。こういう思春期時代にカルト的にはまるとしたらもっとインディーズの音楽とは洋楽とか「俺だけが分かってる」感のある歌手だと思うんだけどね。
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