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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
04,18

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2020
01,13
タイトルだけなら誰でも知っている現在の「ヤクザ」のイメージのステレオタイプとなった作品なので、一度通して見たいなと思ってたんだけど、初代シリーズだけで5本あるためなかなか腰を上げることが出来なかったのだけど、ようやく通して見ることが出来た。

「実録」という事もあり、物語の構成ととしてはかなり歪というかはっきり言うとストーリーのお約束が全く通用しない。広能が町のチンピラ(にすらもなってない風来坊?)からヤクザの道に入り、のし上がっていくまではともかく山守組で幹部となってからのほとんどの物語の発端は親分(そういえば、「親分」というのは「兄弟分」と一緒で親の分、つまり親↑分↓のはずなんだけど、親↓分↓って発音するのもおかしい気もするけど、もう単語になっちゃってるんだろうね)山守義雄がまさに「仁義」のない、自分の事しか考えず、都合の悪い時だけ泣き落としする最悪の人物であるために発生しているのであって、物語として締めるためには当然、主人公広能によって山守が倒されなければ「ならない」はずなんだけど、結局、山守は一時期の逮捕はあったものの完結編では出所し最後までのうのうと暮していた。カタルシスの開放なく終わって行ったのでここはなかなかすごい。同じようにずる賢く上手い事世渡りをしていた槙原は最後の最後で殺されているだけに余計に山守の「一人勝ち」感が半端じゃない。

初期の戦後の混乱期、広能はヤクザの道に入ったのだけど最初に広能が持っていた能力は殺人を躊躇なく実行する「度胸」だけと言ってしまえばそれだけだった。それでも最初はのし上がる事が出来た。時代が下り、昔の広能のような「度胸だけ」の若者が次々と利用され、犠牲になっていく様は「時代が変わった」という事もあるけど、やはりどんな社会、市場、組織でも「最初に来た奴が強い」のは変わらないということだろう。

個人的に一番好きな「代理戦争」の図式(神戸の神和会と明石組の勢力争いが山守組の内部抗争のそれぞれの後ろ盾となる図)もアメリカとソ連、ロシアが延々と繰り返してきた事と全く同じで、どの時代にも通じる真理が描かれている作品であると思う。

流血のシーンや過激なシーンは確かに多いんだけど、「仁義」の場合、冒頭でいきなりアメリカ兵がレイプしてるわ、日本刀で腕がぶった切られて血が噴き出るシーンが出てくるわで一作目が一番過激な気がする。あと嘔吐のシーンも妙にリアリティがあるので、あれはマジなんじゃないかと思う。なんというかシリーズを重ねると前作よりも過激なシーンを入れないといけないみたな強迫観念が生まれやすい中で、流血シーンがエスカレートしなかったのは誰かが抑えていたのかなと思った。

大友勝利は第二部の時だけでも強烈なキャラクター性を発揮していたんだけど、「完結編」での再登場時、時代が変わってきていてものすごい空回りをしてるのも印象深い。大友自身の気質は変わっていないにも関わらず、第二部の時のギラつきが全く受け入れられなくなってしまっているのだ。時の流れの残酷さを感じる。その時その時に輝くキャラクター性というものがあるのだろう。本人の気質と時代があうかどうかは完全に運だ。

あと、今だとヤクザで真っ先にイメージに上がる「黒服」がほとんど登場しない。なんというか、権力があり、豪邸があり、「黒服」の舎弟が固めてるというあのイメージはどこから来ているんだろう。「杯」や「兄弟分」などの組織的なつながりは確かに描かれているのだけど、このビジュアルイメージは仁義なき戦いには一切ない。ただ、本当にキャラが殺されまくる上に律儀に葬式シーンが延々と描かれるので、舞台の3割は葬式会場なんじゃないかと思うほど葬式シーンが多い。そうなると確かにみんな黒服(袴も居るけど)で出てくるので、もしかしてこれが黒服のイメージの原型なのかもなあと思った。
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