2018 |
05,06 |
キャプとかで見たことはあるけど、実際に作品は見たことないから潰していこうねシリーズ。
冒頭。オープニングテーマ曲が流れる中、頭を流れ作業で丸められる新兵たちの眼に光は一切ない。見ていてとても不安感を煽られる絵面である。
鬼教官、ハートマン軍曹。彼の暴言の数々はネットによく触れる環境であるならば必ず一度は目にしたことがあるだろう。相手を徹底的にこき下ろし、罵倒する。冒頭で髪の毛を刈り取ったのと同様、訓練の中で新兵たちの「自我」を刈り取っていくのだ。その上で兵士として殺人マシーンとなるように訓練を行っていく。完全に洗脳である。
しかし、始まった当初は強烈に思われたハートマン軍曹の暴言も恐るべきことに10分も経てば「そういうものだ」と慣れてしまう。後半のベトナム戦争の最前線描写もそうだ。最初は特異に映るものでもやがて慣れてしまう、この「慣れ」こそ、この映画のテーマなのではないかと思う。
訓練生のジョーカーは同じ訓練生の中でも劣等生だった「ほほえみデブ」ことレナードのサポート役に任命される。ジョーカーはレナードを良く支え、レナードも訓練を少しずつではあるがこなせるようになっていく。しかし、本来はおそらく心の優しい人物であったレナードはこの日常に「慣れる」事が出来なかった。だからこそ、訓練最終日にハートマンを殺害してしまう。
暴言を吐かれ続け、ヘイトをため続ければこうして爆発してしまう。ある意味で「普通」の反応だ。ハートマンを殺害するときにレナードは弾丸を見つめながら「フルメタル・ジャケット」(完全被甲弾、弾体の鉛を銅などで覆った弾丸のこと)とつぶやく。この作品のタイトルである。しかし、それとは裏腹にレナードはその心を「慣れ」という銅で覆う事が出来なかった。だからこそ、凶行に及んだのだ。
それとは対照的にジョーカーはこの訓練の日常にも慣れ、ベトナム戦争の最前線の様子にも「慣れ」てしまう。心を「慣れ」で「完全被甲弾」としたのだ。それこそがこの「フルメタル・ジャケット」の意味なのだろう。
戦火の最中、兵士たちは「ミッキー・マウス」のテーマを口ずさみながら、まるで散歩にでも出かけるように戦場を進む。それはまさに、戦場と言う「異常」な状態が「日常」となったことを示しているのだろう。正気を失い、狂気に走った方がある意味で「正常」とも呼べる世界の中で正気を保ち続けているのはまさに「狂気」の沙汰なのである。
直接の描写はないものの、そんな彼らがやがて戦争が終わり「正常」な世界へと帰っていったらどうなるのか。彼らの心をガチガチに固めてしまっている「銅の覆い」は、はたして本当に「剥がれて」くれるのか。現実の「ベトナム帰還兵」の問題を考えると、とても難しいように感じてしまう。そんなことを痛烈に感じる映画だった。
冒頭。オープニングテーマ曲が流れる中、頭を流れ作業で丸められる新兵たちの眼に光は一切ない。見ていてとても不安感を煽られる絵面である。
鬼教官、ハートマン軍曹。彼の暴言の数々はネットによく触れる環境であるならば必ず一度は目にしたことがあるだろう。相手を徹底的にこき下ろし、罵倒する。冒頭で髪の毛を刈り取ったのと同様、訓練の中で新兵たちの「自我」を刈り取っていくのだ。その上で兵士として殺人マシーンとなるように訓練を行っていく。完全に洗脳である。
しかし、始まった当初は強烈に思われたハートマン軍曹の暴言も恐るべきことに10分も経てば「そういうものだ」と慣れてしまう。後半のベトナム戦争の最前線描写もそうだ。最初は特異に映るものでもやがて慣れてしまう、この「慣れ」こそ、この映画のテーマなのではないかと思う。
訓練生のジョーカーは同じ訓練生の中でも劣等生だった「ほほえみデブ」ことレナードのサポート役に任命される。ジョーカーはレナードを良く支え、レナードも訓練を少しずつではあるがこなせるようになっていく。しかし、本来はおそらく心の優しい人物であったレナードはこの日常に「慣れる」事が出来なかった。だからこそ、訓練最終日にハートマンを殺害してしまう。
暴言を吐かれ続け、ヘイトをため続ければこうして爆発してしまう。ある意味で「普通」の反応だ。ハートマンを殺害するときにレナードは弾丸を見つめながら「フルメタル・ジャケット」(完全被甲弾、弾体の鉛を銅などで覆った弾丸のこと)とつぶやく。この作品のタイトルである。しかし、それとは裏腹にレナードはその心を「慣れ」という銅で覆う事が出来なかった。だからこそ、凶行に及んだのだ。
それとは対照的にジョーカーはこの訓練の日常にも慣れ、ベトナム戦争の最前線の様子にも「慣れ」てしまう。心を「慣れ」で「完全被甲弾」としたのだ。それこそがこの「フルメタル・ジャケット」の意味なのだろう。
戦火の最中、兵士たちは「ミッキー・マウス」のテーマを口ずさみながら、まるで散歩にでも出かけるように戦場を進む。それはまさに、戦場と言う「異常」な状態が「日常」となったことを示しているのだろう。正気を失い、狂気に走った方がある意味で「正常」とも呼べる世界の中で正気を保ち続けているのはまさに「狂気」の沙汰なのである。
直接の描写はないものの、そんな彼らがやがて戦争が終わり「正常」な世界へと帰っていったらどうなるのか。彼らの心をガチガチに固めてしまっている「銅の覆い」は、はたして本当に「剥がれて」くれるのか。現実の「ベトナム帰還兵」の問題を考えると、とても難しいように感じてしまう。そんなことを痛烈に感じる映画だった。
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