2018 |
05,05 |
総評。
超有名作で題名だけはなんとなく知っていて、かつトリックも東京駅のホームで電車がすっとなくなって線路二つ分向こうのホームが見通せて…っていうのは知っていたのだけど、「見通せたからなんなのか?」とかそこらへんが良く分かってなかったので、一度ちゃんとストーリーというかトリックを理解したくて見てみた。こういう「「題名」と「なんとなくの作品イメージ」は知ってるんだけど…」という作品は多いので、ひとつひとつ機会を作って潰していきたい。
60年も前(2018年現在)の作品なので、もちろん現代とは文化がいろいろ違う。そこらへんも楽しんで見れた。気になったというか明らかに違うのはタバコの量。ものすごい。パッカパカ吸ってる。仕事場でも電車の中でもパカパカ行く。検死を終えた町医者が立ち上がった瞬間に一本吸う。しかもこの町医者、検死の際に素手で死体を触るは遺留品を触るはで、「あれっ…??指紋の概念ってまだ無いんだっけ???」という気持ちになる。最後に亮子が青酸カリで安田と心中を図る場面でも、ねるねるねるねを作るのか?っていうくらいに青酸カリ(?)の粉をビールを入れる前のコップにたっぷりと入れていたりする。
また、「前日まで九州に居た人間が翌日に北海道にいるわけがない」というアリバイの答えが「飛行機」というのも時代を感じる。当時としては「飛行機を使う」という発想がすでに斬新だったのだろう。劇中の乗客数を見ていると50人とかそこらで、この時代に飛行機が一般的でないことが分かる。まあ、もちろんなんかこう…電車の乗り継ぎの妙で解決するのかと思っていたので、「飛行機、アリなのか…」という気持ちになったのも事実。でも、逆から言えば現代においては、散々「時刻表を使ったトリック!」という固定観念をすでに知った上で見ているので、飛行機が「盲点」になっていた面もある。
そんなわけで時代を感じる場面も多い(当たり前)のだけど、その中でも現代でも十分通じる部分がある。
前述の、この作品の目玉ともいえる「東京駅の13番線ホームから15番線ホームを見た時にお時と佐山が電車に乗り込むところを目撃させる」というトリック。多くの電車が行き交う東京駅で「4分半」のみ13番線ホームから15番線ホームが見通せる、この「わずかな時間」。それがトリックに使用されているんだけど、そんな「4分半」の間に事件のアリバイに出来るような目撃がなされるのは「おかしい」という疑念。これは現代でも通用する考え方だと思う。
この「疑念」はおそらくこのトリックを考えたであろう亮子が「机上の空論」として考えたものであったために発生したのだ。計画を布団の中で考える「だけ」だった亮子には、その計画を誰かが疑うのではないか?という視点が欠けていたのは当然ともいえる。
安田のアリバイが「完璧すぎる」ゆえにその疑惑がどんどん深くなっていく、というのも同様の考え方だろう。
なにより、この事件の真犯人とも言うべき亮子の「動機」。病弱ゆえに夫の安田に対して「妻の務めが出来ていない」という後ろめたさから愛人である「お時」の存在を許してはいたものの、それでも内心は殺してやりたいと常々思っていたという「嫉妬心」。愛人を持つ安田には行かないで「お時」の方に怒りが向くというのも歪んでいるし、時刻表を眺めてどうにか「お時」を殺せないかとずっと考えていたと考えると狂気を感じる。最後に安田と心中したのも、ある意味で彼女にとってはハッピーエンドだろう。勝ち逃げと言っていい状態なのかもしれない。
結局、文化や時代が移り変わったとしても、出来すぎの状況に対する「疑念」や誰かに対する「嫉妬心」と言った人間の「感情」は時代を超えても不変なのだ、という事なのだろう。
補足。
トリックでどうしても分からない所があって、
東京駅で佐山とお時が目撃される
超有名作で題名だけはなんとなく知っていて、かつトリックも東京駅のホームで電車がすっとなくなって線路二つ分向こうのホームが見通せて…っていうのは知っていたのだけど、「見通せたからなんなのか?」とかそこらへんが良く分かってなかったので、一度ちゃんとストーリーというかトリックを理解したくて見てみた。こういう「「題名」と「なんとなくの作品イメージ」は知ってるんだけど…」という作品は多いので、ひとつひとつ機会を作って潰していきたい。
60年も前(2018年現在)の作品なので、もちろん現代とは文化がいろいろ違う。そこらへんも楽しんで見れた。気になったというか明らかに違うのはタバコの量。ものすごい。パッカパカ吸ってる。仕事場でも電車の中でもパカパカ行く。検死を終えた町医者が立ち上がった瞬間に一本吸う。しかもこの町医者、検死の際に素手で死体を触るは遺留品を触るはで、「あれっ…??指紋の概念ってまだ無いんだっけ???」という気持ちになる。最後に亮子が青酸カリで安田と心中を図る場面でも、ねるねるねるねを作るのか?っていうくらいに青酸カリ(?)の粉をビールを入れる前のコップにたっぷりと入れていたりする。
また、「前日まで九州に居た人間が翌日に北海道にいるわけがない」というアリバイの答えが「飛行機」というのも時代を感じる。当時としては「飛行機を使う」という発想がすでに斬新だったのだろう。劇中の乗客数を見ていると50人とかそこらで、この時代に飛行機が一般的でないことが分かる。まあ、もちろんなんかこう…電車の乗り継ぎの妙で解決するのかと思っていたので、「飛行機、アリなのか…」という気持ちになったのも事実。でも、逆から言えば現代においては、散々「時刻表を使ったトリック!」という固定観念をすでに知った上で見ているので、飛行機が「盲点」になっていた面もある。
そんなわけで時代を感じる場面も多い(当たり前)のだけど、その中でも現代でも十分通じる部分がある。
前述の、この作品の目玉ともいえる「東京駅の13番線ホームから15番線ホームを見た時にお時と佐山が電車に乗り込むところを目撃させる」というトリック。多くの電車が行き交う東京駅で「4分半」のみ13番線ホームから15番線ホームが見通せる、この「わずかな時間」。それがトリックに使用されているんだけど、そんな「4分半」の間に事件のアリバイに出来るような目撃がなされるのは「おかしい」という疑念。これは現代でも通用する考え方だと思う。
この「疑念」はおそらくこのトリックを考えたであろう亮子が「机上の空論」として考えたものであったために発生したのだ。計画を布団の中で考える「だけ」だった亮子には、その計画を誰かが疑うのではないか?という視点が欠けていたのは当然ともいえる。
安田のアリバイが「完璧すぎる」ゆえにその疑惑がどんどん深くなっていく、というのも同様の考え方だろう。
なにより、この事件の真犯人とも言うべき亮子の「動機」。病弱ゆえに夫の安田に対して「妻の務めが出来ていない」という後ろめたさから愛人である「お時」の存在を許してはいたものの、それでも内心は殺してやりたいと常々思っていたという「嫉妬心」。愛人を持つ安田には行かないで「お時」の方に怒りが向くというのも歪んでいるし、時刻表を眺めてどうにか「お時」を殺せないかとずっと考えていたと考えると狂気を感じる。最後に安田と心中したのも、ある意味で彼女にとってはハッピーエンドだろう。勝ち逃げと言っていい状態なのかもしれない。
結局、文化や時代が移り変わったとしても、出来すぎの状況に対する「疑念」や誰かに対する「嫉妬心」と言った人間の「感情」は時代を超えても不変なのだ、という事なのだろう。
補足。
トリックでどうしても分からない所があって、
東京駅で佐山とお時が目撃される
↓
どこか(食堂車に佐山が行く前に)お時と佐山別れる
↓
安田はお時と、佐山は亮子と事件現場に向かう
↓
殺害
という流れだと思うんだけど、安田とお時はともかく、佐山はどうして亮子とホイホイ海岸なんて行ったんだろう…と思ってたんだけど、亮子は安田の「代理」として佐山に会ってたのね。それなら確かに奥さんだし面識くらいはあったからホイホイ付いて行くのもあり得るかな…という感じだった。サンキュー、知恵袋!(と、同じ疑問をもって知恵袋に投稿してくれた人!)
という流れだと思うんだけど、安田とお時はともかく、佐山はどうして亮子とホイホイ海岸なんて行ったんだろう…と思ってたんだけど、亮子は安田の「代理」として佐山に会ってたのね。それなら確かに奥さんだし面識くらいはあったからホイホイ付いて行くのもあり得るかな…という感じだった。サンキュー、知恵袋!(と、同じ疑問をもって知恵袋に投稿してくれた人!)
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