2018 |
04,22 |
ほとんど初めて恋愛モノに手を出してみたわけだけど、ミュージカルでの味付けはあるものの、かなり基本に忠実なストーリー運びをしているなという印象を受けた。夢に向かってそれぞれ努力や挫折を繰り返す中で出会う二人が共感し、やがて恋に落ちる。心の揺れ動きというものは自分自身の立場や方向性が定まっていないと、それに呼応するように発生するものだと思う。そういった意味でも「夢を追っている時間」というものは恋愛が発生しやすい時期なのだろう。
自分の演技(というか女優への才能)に自信が持てないミアに対してなんどもセブが「君は大丈夫」「才能ある」と声を掛ける。もちろん明確な根拠があるわけでもなく、ただの言葉に過ぎないものではあるのだけど、それがどれだけの支えになるだろう。その言葉一つ一つに勇気付けられ、やがて愛おしさを感じるのも分かる。きっと、セブもミアが自分の弾くピアノが好きだと言ってくれることに対して、同じ感情を抱いていたと思う。
観客の反応が気になるというミアに対してセブが言った「ほっとけ」は創作する際に心に留めておきたい名言である。
セブがミアとの結婚を視野に入れて(?)安定を求めて入ったバンドが成功してしまう、という望まぬ形での成功と衝突。夢と現実との折り合いの中でケンカするシーンでセブの言った「俺を見下したいからつきあってたのだろう?」はとてもいいセリフだった。もちろん、いつもはそうは思っていないだろうし、口が滑ってしまったのだろう。でも、心の本当に奥底の方でずっと秘めている卑屈な感情というものはあると思う。それが出てしまった場面だと思った。
私が好きなあとがきの一つ、東京ラブストーリーのあとがきに「ゆらゆらと蝶のように揺れ動く、木漏れ日のような心の動きを紙に留めておきたいのです」(記憶違いがたぶんあるけどこんな感じの意図)というものがあるのだけど、恋愛映画の究極に描きたいものは何かと言えば場面単位での「心の動き」なのだと思う。前後の整合性や伏線、ラストなどよりも、その場その場で登場人物たちがどう感じ、何を思って、どう判断するのか?それが見たいのだ。その「心の動き」はそれまでに用意されたシチュエーション、積み重ねられた時間とキャラの重なり合いによって生まれるものであり、「その映画」でしか見ることはできない。
もちろん「安定を求めて入ったバンドが望まぬ成功をする」なんていうシチュエーションは100億回は繰り返してきた鉄板シチュエーションだ。それでも、そのシチュエーションに乗って「セブがミアに対してこれまで自分でも気付かなかったような本心を吐露してしまう」という「心の動き」は「ラ・ラ・ランド」にしかない。これが恋愛映画が言ってしまえば「男女の関係」のみしか描いていないワンパターンなジャンルだとしても幾億もの作品が生み出されている最大の理由なのだろう。
ラスト、ミアはセブ以外の男性と結婚して子供をもうけ、女優として大成功を収める。一方セブも自分の店を構える。それぞれの夢を現実のものとしたのだ。そこで偶然ミアはセブの店をそことは知らずに訪れて彼の演奏を聴く。
その時に「セブと付き合っていれば」という「IF」が流れる。そこにはミアの夢を完全サポートするセブの姿が描かれる。二人が結ばれるという事はセブは夢をあきらめるという事だったのだろう。逆に言えば、二人が結ばれ、かつセブの夢がかなった場合はミアのサポートが必要になりミアの夢が叶わない、という意味だ。
お互いの夢を叶えるためには別れるしかなかったが、それでも「愛して」はいる。それが最後のお互いの笑みに現れていた。
夢と愛、もちろんこれは映画なのでどちらも手に入れられるラストを用意することは簡単だっただろう。でも、それをあえてしなかった。だれからこそ、最後にお互いが手に入れた「夢」とその過程で生まれたもう一つの「夢」のような恋愛の時間、それが輝くのだと思う。
自分の演技(というか女優への才能)に自信が持てないミアに対してなんどもセブが「君は大丈夫」「才能ある」と声を掛ける。もちろん明確な根拠があるわけでもなく、ただの言葉に過ぎないものではあるのだけど、それがどれだけの支えになるだろう。その言葉一つ一つに勇気付けられ、やがて愛おしさを感じるのも分かる。きっと、セブもミアが自分の弾くピアノが好きだと言ってくれることに対して、同じ感情を抱いていたと思う。
観客の反応が気になるというミアに対してセブが言った「ほっとけ」は創作する際に心に留めておきたい名言である。
セブがミアとの結婚を視野に入れて(?)安定を求めて入ったバンドが成功してしまう、という望まぬ形での成功と衝突。夢と現実との折り合いの中でケンカするシーンでセブの言った「俺を見下したいからつきあってたのだろう?」はとてもいいセリフだった。もちろん、いつもはそうは思っていないだろうし、口が滑ってしまったのだろう。でも、心の本当に奥底の方でずっと秘めている卑屈な感情というものはあると思う。それが出てしまった場面だと思った。
私が好きなあとがきの一つ、東京ラブストーリーのあとがきに「ゆらゆらと蝶のように揺れ動く、木漏れ日のような心の動きを紙に留めておきたいのです」(記憶違いがたぶんあるけどこんな感じの意図)というものがあるのだけど、恋愛映画の究極に描きたいものは何かと言えば場面単位での「心の動き」なのだと思う。前後の整合性や伏線、ラストなどよりも、その場その場で登場人物たちがどう感じ、何を思って、どう判断するのか?それが見たいのだ。その「心の動き」はそれまでに用意されたシチュエーション、積み重ねられた時間とキャラの重なり合いによって生まれるものであり、「その映画」でしか見ることはできない。
もちろん「安定を求めて入ったバンドが望まぬ成功をする」なんていうシチュエーションは100億回は繰り返してきた鉄板シチュエーションだ。それでも、そのシチュエーションに乗って「セブがミアに対してこれまで自分でも気付かなかったような本心を吐露してしまう」という「心の動き」は「ラ・ラ・ランド」にしかない。これが恋愛映画が言ってしまえば「男女の関係」のみしか描いていないワンパターンなジャンルだとしても幾億もの作品が生み出されている最大の理由なのだろう。
ラスト、ミアはセブ以外の男性と結婚して子供をもうけ、女優として大成功を収める。一方セブも自分の店を構える。それぞれの夢を現実のものとしたのだ。そこで偶然ミアはセブの店をそことは知らずに訪れて彼の演奏を聴く。
その時に「セブと付き合っていれば」という「IF」が流れる。そこにはミアの夢を完全サポートするセブの姿が描かれる。二人が結ばれるという事はセブは夢をあきらめるという事だったのだろう。逆に言えば、二人が結ばれ、かつセブの夢がかなった場合はミアのサポートが必要になりミアの夢が叶わない、という意味だ。
お互いの夢を叶えるためには別れるしかなかったが、それでも「愛して」はいる。それが最後のお互いの笑みに現れていた。
夢と愛、もちろんこれは映画なのでどちらも手に入れられるラストを用意することは簡単だっただろう。でも、それをあえてしなかった。だれからこそ、最後にお互いが手に入れた「夢」とその過程で生まれたもう一つの「夢」のような恋愛の時間、それが輝くのだと思う。
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