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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
04,26

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2018
08,19
冒頭。立ち上げシーンで「身分の違う恋」というこれだけでも一本映画がとれそうなネタを爆速で仕上げていく。軽やかなミュージカルシーンでミュージックビデオを見るように一気にスッとストーリーが入ってきてしまう。ミュージカルの強みだ。

二人は幸せなキスをして終了…からがこの映画の始まりなのだ。上流階級と下流階級。チャリティを手に入れたことで解決したかに見えるこの構図はバーナムにずっと黒い影として付きまとう。

「プロモーターが主人公」というのも新鮮に見える。野球で言う監督ですらない、言うなればオーナー?でもないな。NBPとか…?まあ、とにかくあまり見たことが無い視点から物語が展開する。それだけでも面白い。

バーナム自身の明るいキャラクターと強い意志、ミュージカルシーンに支えられて、暗くなりがちな展開にも関わらず軽快にストーリーが進んでいく。「ユニークを集めたサーカス」というかなりな危険なアイデアも明るく、華やかなものとして描かれている。

ただ、サーカス面子の歌とダンスがすごすぎて、バーナムのバレエをやってる方の娘が「バレエはサーカスとは違って高度な訓練が必要」っていうシーンがあるんだけど、確かに、史実としてのバーナムのサーカス小屋はユニークたちを「見世物」としていた「ショー」とは程遠いものであったはずなので、このセリフは成り立つんだけど劇中のサーカスはマジで現代舞台も真っ青の超高度な舞台に仕上がっていて「いや~、あれは高度な訓練が必要だよお嬢ちゃん…」という気持ちになってしまう。

娘と言えば、二人の娘がキャッキャしてるのは非常に可愛らしいんだけど、バレエをやってない方の子の存在意義というか、必要性があまり感じられなかったんだよな…。史実としてバーナムに二人の娘が居るから~とかかもしれないんだけど、娘一人でも良かったような…気がしないでもない。

正直言うとバーナムがすごい悪いヤツに見えるんだよな。劇中でも触れられているけど、自分の野心…というか、野望のために集った仲間を口先で利用して平気で裏切るような、そんなキャラクターとして描かれてる。それはもちろん、彼自身が幼少期に受けていた身分の低い「仕立て屋の息子」としての扱いに起因するトラウマの様なもの(「上流階級へ認めさせる」ことへの異常なこだわり)なので、結局は彼を虐げた上流と下流というこの社会の構造が原因であるのだけど。あと、演者というか、この…ショービジネスに携わる人間から見たプロモーターのイメージというのが「そういうもの」という皮肉も込められているのかもしれない。

新たに仲間にしたフィリップの戦略は素晴らしかった。えてして「ゲテモノ」扱いを受けていたサーカスに「エリザベス女王の謁見」という箔を付けたのだ。狙うべきは頭から、というこの戦略は実現さえできれば本当に有効なのだ。

しかし、この「箔」を付けるために行った行為は、逆にバーナムとオペラ歌手のジェニーとの出会いを生んでしまう。もちろん、ジェニー自身は悪いキャラクターではない。恵まれた生まれではなかった自分の環境から、慈善事業も積極的に行う善良な人間だ。しかし、バーナムはチャリティの父親(上流社会)を見返すことに躍起になりすぎていて、上流階級で受けそうな出し物(オペラ)に流れてしまう。それまでの彼を支えていたサーカスの出演者たちを隅に追いやるようになるのだ。まるで昔の自分が上流階級の人間に受けていた扱いの様に。ここの心の動きがめちゃくちゃリアルでこれを描くとバーナムが悪いやつになるんだよなあ…っていうのが分かっていながら敢えて描写されている。

それでも、バーナムが主人公としての「格」を失わなかったのは、燃え盛るサーカスの中からフィリップを救い出したからだろう。これはおそらくフィリップでなかったとしても、サーカスの出演者の誰であっても、彼は炎の中に助けに行っただろうという確信を持てるシーンだった。この一点が契機となって彼の評価は逆転していく。

オペラ興業が失敗し、ジェニーとの不倫疑惑で妻も娘も失い、サーカスは焼け、全てを失ったバーナム。その状態になって初めて、彼は自分がショーに何を求めていたのか、なぜ自分がショーをやろうと思ったのか、それを思い出した。それはチャリティと初めて出会った時、上流階級のマナーのしがらみにとらわれていた彼女を「笑わせてやろう」と思った時の、自分の中から自然と湧き出した気持ち、すなわち「人を笑顔に、幸せにしてあげたい」という願いを思い出したのだ。

それが彼の原点であり、ショーにおいて…いや、人が人を楽しませるおよそ「表現」と呼ばれるもの、それらすべてに共通する、最も大切なものなのだ。

思い出の海岸でフィリップと再会するチャリティ。彼女の言葉「私は愛する人だけを求めた」は重い。上流階級の暮らしを捨て、常にバーナムを支え続けた彼女の言葉。最初から最後まで信念を貫き通したのは彼女の方だったのかもしれない。
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2018
08,19
いや~、これ話題にはなってたんだけど、決定打だったのは好きな作家さんが「何も事前情報入れないで見に行って」というオススメをしていたからなんだけど、本当に事前情報なにも入れないでおいて良かった…。正直、なにも情報を入れないで映画館に映画を見に行くのってかなりリスキーなんだけど、それまでの「信頼」だけでそれをやらせてくれる人っていうのは大事だよな…。

まあ、もうこんな辺境の地にまで文を見に来るってことは当然視聴済なものとして、ネタバレガンガンで書いていきますよ。

前半のゾンビ映画パート。正直、開始早々からこの映画は「ゾンビ映画を撮ってたら本物が現れてパニックになるんだけど、それはフェイクで、そのパニックを利用して映画を撮っていた」っていうオチかと思ってたんだけど、真相はさらにそのもう一枚上だった。

だから、監督が「これが本物の映画だぜ~!!」って乱入してきて映画を劇中で「撮り始めた」時に、「そのオチじゃないのか…」とちょっと驚いた。驚いたんだけど、最初の予想がそのまま的中するようではオススメしてないだろうな、という妙な信頼感もあり、そのままゾンビシーンが流れていった。

不自然な個所はあった。ケガを延々と気にしたり(パニックになって支離滅裂になってるのかな…)とか、「ちょっと」って言って外に出る人とか。カメラが思いっきり地面に落ちたり、ナタが不自然に落ちてたり。最後におばさんが立ち上がって「なにあれ」って言ったり。ゾンビ映画シーンをあえて真面目に評するなら「妙に臨場感だけはあるけど、勢いだけのむちゃくちゃな映画」という感じだと思う。

それが一転、制作パートに入ってから、すべての違和感に合点が行くように出来ていた。まず出演していたはずのおばさんが監督のただの奥さん役で出ていたのもびっくりしたり、なにより監督が役と全く違う温厚な人物だったのもめちゃくちゃ上手かった。監督は本当にすごい。キャラを立てるというのはこういうことなのか…という感じである。

ゾンビ映画パートの勢いだけ感とは裏腹に制作パート編の緻密さは特筆に値する。とにかく無駄なシーンがないのだ。すべてが伏線、すべてに意味があるように出来ている。ここでいう「意味」とはゾンビ映画パートで発生した違和感に対する「回答」だ。

正直言って制作パートの無駄の無さは神懸かり的である。なにせ、この映画は三部構成で「ゾンビ映画編」はおそらく劇中の放送時間と同じく30分。(思い返せばゾンビ映画のテンプレートをそこそこのクオリティで30分に収めたのもかなりすごい)この映画の全体の上映時間は96分しかないので、「制作パート編」「ゾンビ映画裏側編」と合わせても66分しかないのだ。

その中で、番組の成り立ち、監督の葛藤、娘の上手く行かない感じ、母親の過去、細田さんの酒、クロちゃん(違う)の神経質な様子…etcを全て説明しきらなければならないのだ。ここで、時間が無い中で伏線を張り巡らせるために「複合伏線」が貼られることになる。つまり、酒のせいで家族関係の上手く行っていない細田さんの話の中に「娘の写真」を出すことで、ベロベロ出演の伏線とラストの決め手(組体操の着想)になった監督の「娘の写真」の伏線を融合させてしまっているのだ。細田さんが娘の写真を見て元気をだしているのと同様に、監督も娘の写真を見て元気をだしていた。いつも見ていた娘の写真に写っていた肩車、それが最後の決め手の着想になったのだ。もお~、素晴らしい。マジかよ。

おそらくこのような伏線の整理と複合が行われることで極めてスピーディかつ正確にラストの「ゾンビ映画裏側編」へと繋がる描写が積み重ねられていったのだ。しかも、これが一番重要なのだけど、それを感じさせない。ものすごいコメディタッチで描いていて、見ている方に「伏線の積み込み」を感じさせないのだ。全くストレスなく伏線描写を積み重ねていくその様子はまさに神業。

そのような神業の先に待つ「ゾンビ映画裏側編」はさながら答え合わせの様相を呈している。最初の「ゾンビ映画編」で感じた「違和感」がどんどん消化されていくのだ。見ていて気持ちがいい。「あそこの違和感はどんな裏側がまっていたのかな?」とどんどん「次」が見たくなっていく。ものすごいカタルシスだ。

ケガのシーンは実際に場を持たせていただけだし、「ちょっと」と言って出ていくクロちゃん。「本名言っちゃったよ」の名ギャグ。ゲロはNGと言ってたけど思い切り吹かれてたよな…とか、交代した瞬間にやりたいって言ってた「アップとズームを繰り返す」をやったりとか、階段で執拗に撮っていた逢花の尻のシーンについてはスルーか…とか。

現場の生放送という極限の状況下において登場人物が必死であればあるほどに生まれる「シリアスな笑い」。自分の見た劇場でも、「ゾンビ映画裏側編」では各所で笑いが起こっていた。

でも、おれは全然笑う事が出来なかった。もちろん、シリアスな笑いとして描かれていたし、他の人の「笑う」というリアクションが「正解」であることに間違いはないと思うんだけど、登場人物全員(酒飲んでた細田さん除く)がこの生放送を乗り切ろうと奮闘している様子に本当に胸を打たれた。無数に起こるトラブルにその場その場の判断で対処していくスタッフたち。

「ゾンビ映画編」で小屋で逢花が息を潜めてやりすごしたものすごい緊張感のあるシーン。あそこでは一体何が起こってたんだろうと思ってったら、斧回収のカンペが提示されていただけだった。ずっこけるよ!ずっこけるけど、なんかもう勢いで使っちゃった斧もラストで必要だからどっかで再入手させないといけない…とかリアルタイムで事態が迫っているのだ。「なんとかするんだ」というまさに戦場のような緊張感。

そしてラスト。一番気になってたおばさんの「なにあれ」の回答。これが本当に素晴らしい。前述の写真の伏線を生かした「組体操」。その前の、それまで妥協に妥協を重ねてきた監督が「ここだけは譲れない」とした血の魔方陣を映すシーン。「これを映さないとこの映画なんだったのってなるでしょ!?」というシーン、あるよね…。あるんだよ…。分かる…分かるよ…!!ディレクターの「そんなの誰も気にしてない」っていう言葉もさ…分かるよ…でもさ、やっぱり映さなきゃいけない場面ってあるんだよ!監督のそれまでに溜めに溜めた妥協が一気に反転したシーン!!

しかもその組体操ってのがまたいいんだ…!スタッフ総出で、まさに「みんなで作り上げた」この映画の象徴の様な組体操。もうね、本当に素晴らしい。これ以上にないラストシーンだった。

なんというか、話題では「低予算の映画がすごいヒット!」みたいな扱いをしてたんだけど、これ低予算関係ないよね。カツカツになるまで練りに練った脚本の勝利。そして、劇中の人物たち同様に「なんかあっと驚かせてるものを作ろう!」というスタッフの熱意の勝利だと思う。

そして、なにより「おれを信じてなにも聞かずに見て来いよ」と言ってくれる人のありがたさ。それを実感した映画だった。
2018
08,11
見る前の予備知識は「スーツの男がスタイリッシュアクションを決める映画」くらいしかなかったのだけど、まあ、大体あってた。キングスマンとなった後もスーツに「着られてる」感のあるエグジーはやっぱりどことなく頼りない。やはりハリーの方がキングスマンとして「これだよな」という感じがある。「紳士的なふるまいというのはカッコイイな」と素直に思える立ち居振る舞いだった。

キングスマンの仕立て屋にあった数々のガジェットもワクワクするものでいっぱいだ。最後の決め手になった仕込み刃の付いた靴や全男子憧れの防弾傘、スタンガン機能の付いた指輪などなど。こういう小物がいっぱいあると嬉しい。あと、こう…パキッと決まったスーツもそうなんだけど、いちいち「ビシッ」としてるんだよな。ガジェットも銃弾一個に至るまで絶対に煩雑に置かれる事がなくキチンと並べられている。こういう所にもスタイリッシュ感が溢れている。

「キングスマン」というプロ集団のミッションがずっと続くかと思いきや、エグジーやロキシーたちの候補生編が入ったのは結構驚いた。ただ、これをやることで「キングスマン」たちがいかに過酷な訓練を受けて来たかが分かるので、掘り下げの手法としては常套手段なのだろう。ロキシーが「ランスロット」を埋めて、ハリーが退場した後にエグジーがその穴を埋めるという流れも綺麗だったし、他の脱落した候補生(上流階級の人間)がラストのヴァレンタインの基地に居て、エグジーが危機に陥るのも上手かった。

そういえばこう、何の説明もなくキングスマン達に円卓の騎士のコードネームが与えられてるんだけど、このあまりの自然さっぷりというか「アーサー王伝説くらい当然知ってるよな?」という感覚がすごくイギリスって感じがしてよかった。これ、日本で言ったらマジで桃太郎のお供と言ったら「犬・猿・雉」だろうという位「常識」なんだろう。

「プリティ・ウーマン」とか「マイフェア・レディ」とか他の映画作品の名前が出てくるのもちょっと驚いた。あまり劇中で他作品のタイトルを出してる場面を見たことがなかったので、なんだろう…こういう「教養」というか「こういうのは抑えてるよな?」というのもイギリス感覚なんだろうか。イギリス人、オタク的なネタ会話(その元ネタ知ってないと楽しめない会話)好きそう。

あと、映画なのに「映画ならここで」とか「これは映画じゃない」とかZZのOPみたいなことを言いまくるのも、あれはなんなんだろう…こう…漫画なら劇中で「これは映画じゃない」とかいうのも分かるんだけど、映画なのに「映画じゃない」と言われても、支離滅裂な思考・発言の顔をしてしまう。

最初のOPで吹っ飛んだガレキでクレジットが作られるのを見て、ひょっとして思ってた以上にコメディ映画なのでは…?と感じたんだけど、ヴァレンタインの計画のガバガバぶりや電話一本で気軽に動かせる衛星、なにより最後の頭部大花火を見ても分かるように完全にコメディ映画だった。これはたぶん「キングスマン」という組織スパイの設定のゆるさを隠すためには敵がもっと大きくならなくてはいけなかったんだろうな。「シリアスになりすぎないスパイアクション」というテーマを考えれば納得だけど、「思ってたのと違うな…」と感じる可能性はなくはない。


しかし、キングスマンはなによりも大切なことを我々に教えてくれている。それは「格安SIM」には気を付けろ、ということだ。
2018
06,24
いやあ~、なんというか、公開が2004年なので、実に14年もの間ラスト死体が起き上がる瞬間のネタバレを避け続けて生きてこられた事に幸運を感じざるを得ない…。あれ、めちゃくちゃ衝撃的なシーンでネタにしやすいし、「デスノでLが死ぬ」位にネタバレをネタバレとして扱われなくなってても不思議じゃないのにな…。

ミステリの基本として冒頭に死体を転がしておくのはよくある事なんだけど、まさか(偽装された)死体自体が犯人とは…。しかも、「犯人は近くで犯行(というかゲーム)を見るのが好き」という伏線も張ってあって、まさに特等席である。あのモニター越しで見ていたのがゼップなのだとすると、そのモニターを見ていないはずの犯人には電撃を食らわせるタイミングとかが全く分からないはずだもんな。まあ、モニター映像をマルチで別のモニターに飛ばす…とかも出来るんだろうけど、そんな事をする必要すらなかった。

毒タバコの三文芝居も電気を消したところで犯人の頭の上で作戦を伝えあっていたのだから状況だけ見たら完全にマヌケにしか見えない。(もちろん、そんなトリックが分かっていなければ有効な作戦ではあった。芝居のクオリティはともかく)

部屋の中で閉じ込められた二人が体の周りのアイテムを使っていろいろと試行錯誤するシーンが面白い。もうちょっとだけ手が届かないテープレコーダーを引き寄せるためにシャツを脱いで引き寄せようとして、それでもまだ足りないから紐を巻き付けて…とか、アイテムを活用するために鍵とかテープをお互いの所に投げ合うのも面白い。

「心に従え」というメッセージからハートマークの付いてるトイレを探したり、「目を閉じた方が見えることもある」というメッセージを元に電気を消して「X」の文字を見つけたり、もう、完全にゼルダである。アダムのことは正直、短絡的で暴力的な頭の足りないヤツだと思ってたんだけど、「目を閉じた方が見えることもある」で「電気を消す」発想は正直、自分じゃ絶対詰まってたと思うので、この時点でだいぶアダムの事を見直した。いやだって、目を閉じろって言われたら目を閉じるじゃん!?電気とかないわ…。Wiki見てるわ…。

最初は冷静なローレンスがどんどんやつれてくのは、映画の緊迫感が高まって良い。最後の最後、アダムがいきなり失敗した「ノコギリで鎖を切る」をもう一回試すところとかも錯乱感が出てていいよな…。すでに失敗が確定している方法をそれでも「もう一回」とやってしまう心理の絶望感がすごい。まあ、一回失敗した方法でも、加える力が足りなかったとか、別の個所を切ればいけたとかあるので一概に間違いとも言えないのだけど。鋸を一本ずつ使うんじゃなくて二本を同じ鎖に使えばいけたのではないか…とも思うんだけど、なかなかそんな協力は出来ないよな。アダムが素直にもう一本の鋸をローレンスに与えたのが意外だったんだけど、あの時点でそこまで考えてなかったんだろう。最終的には「これをやればいけるけど、やらんだろう」としていた足の切断を敢行したのも痛々しい。

実際にこの映画を見るまでは、「白い部屋でなんかやる」という情報しか知らなかったので、てっきりずーっとあの白い部屋で何か謎解きをやりつづけるんだと思ってたんだけど、実際は部屋の外の描写もかなり多い。部屋に閉じ込められた経緯やそれまでに起こった事実を教えてくれる。

たぶん今回のゲームの「対象者」はローレンスなんだよな。犯人のジョンはローレンスに末期がん(だっけ?)のさじを投げられたのを逆恨み…というか、「そんなに簡単にあきらめるなよ、命大切にしろよ!!」という事を伝えたくて犯行に及んだわけで、アダムは完全にとばっちりなんだよな。まあ、パパラッチをしていたとはいえ、依頼されたのがたまたまアダムだっただけで、アダムじゃなくても別に良かったわけだ。アダム可哀想…。

可哀想といえばジップの可哀想だよな。まあ、ローレンスにバカにされて恨んでたので、自分から嬉々として手を貸してた面もあったとはいえ、病院ではジョンの世話をしてあげてたわけだし。ただ、あの「ちょっとだけ出てた清掃員」という登場の仕方はめちゃくちゃ真犯人っぽかった。

まあ、ジップは犯人と思わせておいて真犯人に操られていたやつなんだけど、やっぱりジップは真犯人にしては仕事が雑すぎるんだよな。これを仕組んだ犯人なら、6:00になった瞬間にローレンスの家族を射殺するくらいの正確さが必要なのに、「お、6:00なったやんけ~!殺すか」というあのモソモソぶりは「こいつ犯人じゃないわ…」と思わせるに十分な描写だった。

一回見ただけでは正直、良く分からない事実のつながり(アダムがタップ刑事の依頼でローレンスをパパラッチしてたのはいいとして、モニカ(妻)がアダムの事を知っていたのはなぜなのだろう…)とか、実際矛盾になってる描写とかあるんだろうけど、全体的に緊張感があって、かなり楽しめた。やっぱ名作って言われてるものは名作なんだよな。(語彙)
2018
06,23
最初に見た時に微妙な違和感はあった。その後はあまり気にならなくて最後まで見ちゃって、エンドロールでがしゃどくろの撮影をストップモーションでやってる所が写ってて、もしかして…と思って調べてみたら全編ストップモーションの映画だった…。まじか…もう凄すぎて3Dとあまり見分けがつかないよな…。

でも、それを意識して見てみると服とかたしかに3DCGじゃ出ない布っぽい質感が出てるんだよな。いやでも、それにしたってなんかこう…鳥とか浮いてたし…まあ、さすがに人形劇って訳じゃないしワイヤーとかを消す処理はしてるんだよ思うんだけど。

映画を見るときはあまり事前に情報を入れないようにしてるんだけど、これはちゃんと事前にストップモーションで撮った映画だよという事を知った後に見れば良かったかなあ。確かにな~んかカサカサしてるなとは思ってたんだけど、折り紙がテーマの一つの作品だし、和紙っぽいテクスチャでも入れてるのかな~って思ってたんだけど、そんな単純な話じゃなかった。

バーフバリで五連弓打ってる場面でもそうだったけど、なにかというとゼルダを連想するのをやめたい。でもがしゃどくろ戦は完全にスタルヒノックスだったね…。抜いた刀を片っ端から折って本物かどうか確かめるところとか、同じ場面に自分が遭遇したら絶対同じ戦法取るわ…と思って見てた。あと、クワガタが四つん這い(手足六本あるけど)になった時のカサカサ感すごいね…完全にゴキ…と思って見てた。

ストーリーは良く言えば幻想的な感じ。ストーリーの流れも三種の神器集めなので分かりやすい。ただ、クボが狙われてる理由(「目を狙われてる」というのは分かるんだけど、その「目」をなんで狙ってるのかが良く分からない)とか、結局「月の民」は地上に何しに来たんだろう…とか、いろいろと置き去りにされている部分はあったと思う。

ただ、わりと珍しいパターンなんだけど、ストーリーは難解でもテーマは分かりやすかったんだよな。折り紙が、一度折られてもまた元に戻って別の形を象れるように、形は変わっても本質は変わらないということ。母親がお猿になったり、父上がクワガタになっても両親の愛はそこにあるという事、そしてたとえこの世から去ってしまったとしても、思い出は常に心にあるということ。

変わりゆくものと変わらないもの。ストップモーションで描かれたこの映画の制作過程にはデジタルとは違う実際のセットや人形があり、たくさんの「変わったもの」と「変わらなかったもの」があったと思う。それが作品のテーマに厚みを与えているのは間違いない。

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