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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
04,17

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2018
06,09
二人乗りロボットによるパートナーとの別れ、新パートナーとの諍いからの和解、司令官の搭乗などなど、日本のスーパーロボット系のアニメで「お約束」的なことを全部ぶち込んできたなという印象。この映画に対する「期待」にはきちんと応えていたと思う。

印象的だったのは、最初の「KAIJU」を壊滅的な被害が出たとはいえちゃんとアメリカ陸海空軍で撃退できているところ。これは絶対に日本ではない表現だと思う。日本だったら必ず自衛隊は壊滅して、その後にその作品固有の兵器で敵を撃退するのがお約束なんだけど、地上最強のアメリカ軍は例え未知の脅威であろうと敗北することは許されないのだ。「トランスフォーマー」だって一作目の段階ではアメリカ軍もちゃんと「パートナー」として機能していた。

とにかく美味しい要素がてんこ盛り。最後の敵がそれまで最強だったのカテゴリー「4」を超える「5」だったり、手動で自爆スイッチを押したりで電子系統がダウンしたけど、主人公機だけは旧式(?)だったので無事~!とか。

兄以外とはシンクロしないと言っていたローリーがなんでマコとシンクロする気になったのかは全く分からないけど、あれはきっとマコのタンクトップ姿が股間にクリーンヒットしたからだろう。

そういえばマコがネイティブであるはずの日本語の発音がカタコトだった事には一応理由はある(アメリカ暮らしが長くて発音を忘れた…的な)んだけど、いや、あの表現って普段は日本語→英語で喋っているのがあまりにも必死でつい「口をついて」出てしまうという表現なので、発音を忘れたような言語が口をつくだろうか…という感じはする。まあ、「カタコト」の方が英語圏の人の「聞き取りやすい日本語」になっているんだろうなあとは思う。とはいえ、この表現は多用するとくどい(というか回数が少ない方が効果的)のでせいぜい1、2回に留めるべきだった。

ツッコミ所は無数にある。「自爆スイッチ手動で押さないといけないとか正気か!?」とか「幼生の「KAIJU」とシンクロしても、記憶ないのでは…??」「ペントコストさんパイロット復帰しても訓練時間0秒はさすがにキツいのでは…??」「訓練中にプラズマキャスターが暴発しそうになった時に指令室のコード抜くと止まる(マジか)」など細かく気になるところは沢山あるのだか、そこは速やかに目をつぶるべきだろう。カッコイイロボット達がおぞましい「KAIJU」を撃破する、これ以上に大切なことはこの映画には存在しないのだ。

…最終決戦は海の中って分かってたのに全く水中戦に適用しようとしてないロボットフォルムは一体…いや、もうよすんだ。
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2018
05,25
典型的な「ああ~~そっちに行っちゃうのおおお??」という映画だった。

一家惨殺された家の地下から傷一つない正体不明の死体が発見されて、それを解剖医親子が検死するというストーリー。「冒頭に死体を転がしておけ」のミステリ基本戦術に乗っかったオープニングだ。

死体を解剖するシーンは生々しいものの、リアリティがあって見ごたえがある。そして、死体を解剖すると次々に明らかになる「異常な事態」。女性の死体に付けられた「内側からの傷」、丸ごと飲み込ませられた花、儀式に使われる布…などなど。外見には傷一つないのに内部がめちゃくちゃに荒らされている、これは一体どういうことなのか…?

謎が提示されると、当然次に思い浮かぶのは「どんな鮮やかなトリックで外傷無く内部の拷問が行われたのか」という事だろう。いやが上にも緊張感が盛り上がっていく。しかし、そこに現れたのは…ホラーだった…。

いや、ほんと…惜しい…。なんかこう…前半の盛り上げが上手かっただけに、見慣れぬ人影とか猫の惨殺とか「第三者」の存在が匂わされて、死体が安置所から消えて作品が徐々にホラーにシフトしていくところとか「やめろ…やめてくれ…!」という気持ちでいっぱいだった。

まあ…ねえ…あんだけ肉体内部に刻印とか入れまくって外見無傷ってなったらもう超常の力に頼るしかないんだけど、そうじゃないだろう…と。それアリだったらなんでもアリじゃないか…になっちゃうんだよな。

推理モノを読んでいて「密室から脱出したのは犯人がテレポート能力を持っていたからだ」とか言われるようなもんなんだよな。

たしかに成り立つ。成り立つよ。お話なんだから。でもなあ~こう…う~ん…アンフェア…という言葉を使ってもいいのだろうか。

前述の密室テレポートだって、ドキッ☆能力者だらけの推理大会!とかの「前提」があれば密室からテレポートで脱出するのもOKだろう。それはそういう「推理」が成り立つからだ。

でも、これは違うよな…。外傷がなかったのは「魔法で治していたからです」って…。この残念感はぜひとも教訓として生かしていきたい。作品の方向性は必ず一致させなければならない。恋愛映画だと思ってたら急にバトル物になったり、兄を失った悲しみから立ち直るヒューマンドラマだと思って見てたら急にヒーロー物になったりしてはいけないのだ。

…いけなくはないが、視聴者の「とまどい」を生んでしまう。その「とまどい」を上手く「面白さ」に変換できれば良いのだが、これはかなり難しい。「思ってたのとは違う」はかなりのマイナスファクターだ。特に映画のような短期決戦の作品形態では視聴者が見てる間に体制を立て直すのが難しい。連載漫画のような作品を咀嚼する時間が十分に取れる媒体ならば立て直しも可能だろう。

ただ、ラストにジェーン・ドゥの遺体の傷が完全に治り、この惨劇が「犯人のいない一家惨殺」の様になっていたのは上手かった。そう、冒頭の一家もこの映画本編と同様の事が起こったのだな…という「謎」がちゃんと解けたからだ。

謎の核心である「魔法」に納得は行かないものの、この展開にはちゃんと「納得」があった。それはこの作品がラストには完全にホラーにスライドした証なのだろうと思う。
2018
05,19
正直、最初の修行パートは「いや…そんなに激しくたたいたらそれを治療しなくちゃいけなくなるから、ますます稽古が遅れるのでは…?」とか、そもそも最初の指をぶったぎるシーンが意味不明で(後でWikiを調べてやっと蝶衣がもともと六本指でそれを切り落としたのだと分かった。六本指を主張するシーンが短すぎたのか、もしくは日本版でなにかカットが成されてるような感じがする)指が四本になったら困るのでは…??など、数々の疑問が頭を巡りこの映画をどう見ていいのか良く分からなかったのだけど、中盤を過ぎて権力が中国から日本軍に移り変わったあたりで、ようやくこの作品の見方が分かって、あとはスムーズに見ることが出来た。

うーーーーん、あの激しい折檻を伴う修行シーンな…。あれはどう…なんだろう。まあ、多分本当にああいう激しい体罰を伴う指導っていうのは過去にあったのだと思うけど、人道的な理由はもちろん、普通に効率悪くないか…?と思う。手の皮がむけるほどたたいたりしたら練習できないし、後遺症とか残ったらどうなるんだ…?という感じである。しかも、あの折檻シーンが特に「問題」とされてるフシもなくて、蝶衣も小楼も師匠に普通に感謝してるみたいだし、まあここら辺は文化の違いもあるかもしれない。

ただ、本当に恐ろしかったのは蝶衣が小四に折檻をしてる場面で、やっぱり自分が成された指導を後輩にもしてしまうのか…という因果を感じずにはいられなかった。結局、蝶衣が「人を説得する」方法を折檻以外に知らなかったために古い体制に反発する小四には折檻が効かず、それ以外に説得の手段を持たない蝶衣はそれ以上のコミュニケーションを取ることが出来なかった。最終的にそれが小四の裏切りを引き起こし、京劇の崩壊につながったと考えると皮肉めいたものを感じる。

この映画の大きな見どころはおそらく二つで、激動の時代の中で翻弄される「京劇」と、小楼の男女を問わないめくりめく愛憎劇なのだろう。

時代(統治者)が移り変わっても、「京劇」というか文化は常に重宝されるんだよな。結局、幼いころの激しい修行の末に身に着けた芸は蝶衣と小楼を生涯に渡って救い続けた(「救い」…というか、経済的に困窮することは無かったというべきか)し、最後に自分の力になってくれるのは頼りになるパトロンや地位ではなく自分自身のスキルなのだという事を教えてくれる。現代日本…いや、全時代的に通じる真理だろう。

しかし、香港・中国の合作映画とはいえ、「観戦態度は日本兵の方がマシだった」という描写がなれていたのは本当に驚いた。まあ、作劇上の問題もあるし、それをいうなら「権力者の移り変わりで価値観というものはいかようにも変容する」というこの思想自体、かなり危険なものであるとも言える。

愛憎劇の方は、やっぱり蝶衣(レスリー・チャン)のお顔が良いので耽美、耽美という感じである。袁四爺からの剣♂の贈り物も意味深である。

ただ、正直小楼がな…。本当に蝶衣がこう…求めるほどの人物だったのかな…。子供の頃からの付き合いがあるとはいえお調子者で思慮が浅くてすぐにカッとなって…とあまりにも良いところがない。うーーん、まあ、阿片に溺れていた蝶衣を救ったのは功績だとしても、やっぱりあの弾圧の時に状況的に仕方がなかったとはいえ、本当の妻の菊仙の事も蝶衣の事も守ることが出来なかったのが決定的だった。

菊仙はその直後に自殺してしまうけど、蝶衣は生き残る。菊仙と同じように小楼に失望したものの、おそらく「虞美人」として死にたかったのだろう。ラストに覇王別姫のリハーサルを行った際に年老いてキレの無くなった小楼に対し、当時のままの姿を保っていた蝶衣。あの弾圧からずっと、この役で死にたいとある意味で「死ぬために」生きてきた期間は彼の時間を進めなかったのだ。

現実の小楼には失望したものの、それでも今目の前にいるのは項羽としての小楼だ。自分が愛した現実の小楼に別れを告げ、役の中の王である小楼と共に永遠を生きることを選んだのだ。あまりにも悲しいラストに思えるが、かつて自分が「女」で無いゆえに菊仙に小楼を奪われた小楼は、今、「虞美人」として永遠に女性になる事が出来たと考えると、蝶衣としては本望だったのかもしれない。
2018
05,12
見る前は180分超という長さに尻込みをしてたけれど、見終わってしまえば、たしかに長さに合うだけの「間」やエピソードの多さなどそれに見合うリターンはあったかなという感じである。

ただ、エピソードは多いものの、双子の死の真相や所長の奥さんの病気など、用意されたタネが最初からタネに期待されてる以上の効果が無いというか、いわゆる「伏線」になってないんだよな。ウォートンとか来た瞬間に双子を殺した本当の犯人だって分かるし、所長の奥さんもゆくゆくはコーフィの能力で治すんだろうな~というのは分かるんだけど、それが成された時に「あ、このネタ消化したな」以上の感情があまり沸かない。ネタの消化と同時にこれはこう繋がるのか…という感じが無い。驚きが無いといった方がいいのかもしれない。

とはいえ、エピソード自体のつながりが雑と言う訳ではない。むしろあまりにもネタが整いすぎていてベルトコンベアで消化してる感が強い。長大な原作を何とか映画の形に落とし込んだ弊害のようにも感じる。

所長の奥さんの腫瘍を治すのも、おそらく原作ではもっと尺が割かれてるんだとは思うんだけど映画だけで見るとポールたちがクビを懸けてまで治してあげるほどの人物なのかな…という気になってしまう。囚人を外に連れ出すとか、劇中にもあったけど普通に彼らの方が収監されるほどの事態だ。それほどのリスクを犯すほどの動機づけが薄いんだよな。

なにせ、コーフィの能力を待ち望んでいる人たちはなにも所長の奥さんだけではないのだ。それこそ、世界中の人たちが同じように大切な人たちの難病に直面し、どうしようもない絶望感に包まれている。その中で彼女だけを救う理由はあまり納得できなかった。もちろん、目に入る人たちだけでも守りたい、自分に出来ることがあるならやりたいというポールの感情は理解できる。

ポールの尿路感染症は本当に辛そうだったので、治った時は素直に、心から良かったなあと思えたんだけど。

コーフィの能力は超常のものであるけれど、あのリアルな世界観にコーフィの能力を浮かせることなく馴染ませることが出来たのはそれ以外の描写(獄中描写)はのリアルさによるものだろう。大きなウソを混ぜるときはその嘘以外をリアルで固めなければならないのだ。

ただ、コーフィが所長の奥さんから吸い取った病気…というか悪いもの(?)をパーシーに移して錯乱させてウォートンを撃たせたのはあまりにも能力が飛躍しすぎていてちょっと理解が追いつかなかった。コーフィの能力は「病気を治す」のではなく、根本的には別の作用なんだけど、見た目上は「病気を治している」ように見える。その根本の能力を理解したうえで使用すると別の使用方法も出来る…というような描写あれば良かったのだけど、あれだと、こう…「悪いものを同士討ちさせたかったのでさせた」以上のものを感じることが出来なかった。

パーシーのおしおきはともかく、ウォートンの死刑はもうすでに決定事項なので別にパーシーを使わなくても良かったのでは…という気もしている。

ポールはコーフィの無実を知りながら、それでも無罪にすることは出来ずに死刑にせざるを得なかった。そして長命を「罰」として受けいれ、その長命ゆえにこの過去を何度も振り返り、悔恨しなければならなくなってしまった。あまりにも辛いラストである。劇中のポールは常に紳士的であり、正義感も強い好人物だっただけに、もうちょっと救いがあって欲しかった。
2018
05,06
キャプとかで見たことはあるけど、実際に作品は見たことないから潰していこうねシリーズ。

冒頭。オープニングテーマ曲が流れる中、頭を流れ作業で丸められる新兵たちの眼に光は一切ない。見ていてとても不安感を煽られる絵面である。

鬼教官、ハートマン軍曹。彼の暴言の数々はネットによく触れる環境であるならば必ず一度は目にしたことがあるだろう。相手を徹底的にこき下ろし、罵倒する。冒頭で髪の毛を刈り取ったのと同様、訓練の中で新兵たちの「自我」を刈り取っていくのだ。その上で兵士として殺人マシーンとなるように訓練を行っていく。完全に洗脳である。

しかし、始まった当初は強烈に思われたハートマン軍曹の暴言も恐るべきことに10分も経てば「そういうものだ」と慣れてしまう。後半のベトナム戦争の最前線描写もそうだ。最初は特異に映るものでもやがて慣れてしまう、この「慣れ」こそ、この映画のテーマなのではないかと思う。

訓練生のジョーカーは同じ訓練生の中でも劣等生だった「ほほえみデブ」ことレナードのサポート役に任命される。ジョーカーはレナードを良く支え、レナードも訓練を少しずつではあるがこなせるようになっていく。しかし、本来はおそらく心の優しい人物であったレナードはこの日常に「慣れる」事が出来なかった。だからこそ、訓練最終日にハートマンを殺害してしまう。

暴言を吐かれ続け、ヘイトをため続ければこうして爆発してしまう。ある意味で「普通」の反応だ。ハートマンを殺害するときにレナードは弾丸を見つめながら「フルメタル・ジャケット」(完全被甲弾、弾体の鉛を銅などで覆った弾丸のこと)とつぶやく。この作品のタイトルである。しかし、それとは裏腹にレナードはその心を「慣れ」という銅で覆う事が出来なかった。だからこそ、凶行に及んだのだ。

それとは対照的にジョーカーはこの訓練の日常にも慣れ、ベトナム戦争の最前線の様子にも「慣れ」てしまう。心を「慣れ」で「完全被甲弾」としたのだ。それこそがこの「フルメタル・ジャケット」の意味なのだろう。

戦火の最中、兵士たちは「ミッキー・マウス」のテーマを口ずさみながら、まるで散歩にでも出かけるように戦場を進む。それはまさに、戦場と言う「異常」な状態が「日常」となったことを示しているのだろう。正気を失い、狂気に走った方がある意味で「正常」とも呼べる世界の中で正気を保ち続けているのはまさに「狂気」の沙汰なのである。

直接の描写はないものの、そんな彼らがやがて戦争が終わり「正常」な世界へと帰っていったらどうなるのか。彼らの心をガチガチに固めてしまっている「銅の覆い」は、はたして本当に「剥がれて」くれるのか。現実の「ベトナム帰還兵」の問題を考えると、とても難しいように感じてしまう。そんなことを痛烈に感じる映画だった。

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