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吉良吉影は静かに暮らしたい

2024
04,30

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2018
05,05
総評。

超有名作で題名だけはなんとなく知っていて、かつトリックも東京駅のホームで電車がすっとなくなって線路二つ分向こうのホームが見通せて…っていうのは知っていたのだけど、「見通せたからなんなのか?」とかそこらへんが良く分かってなかったので、一度ちゃんとストーリーというかトリックを理解したくて見てみた。こういう「「題名」と「なんとなくの作品イメージ」は知ってるんだけど…」という作品は多いので、ひとつひとつ機会を作って潰していきたい。

60年も前(2018年現在)の作品なので、もちろん現代とは文化がいろいろ違う。そこらへんも楽しんで見れた。気になったというか明らかに違うのはタバコの量。ものすごい。パッカパカ吸ってる。仕事場でも電車の中でもパカパカ行く。検死を終えた町医者が立ち上がった瞬間に一本吸う。しかもこの町医者、検死の際に素手で死体を触るは遺留品を触るはで、「あれっ…??指紋の概念ってまだ無いんだっけ???」という気持ちになる。最後に亮子が青酸カリで安田と心中を図る場面でも、ねるねるねるねを作るのか?っていうくらいに青酸カリ(?)の粉をビールを入れる前のコップにたっぷりと入れていたりする。

また、「前日まで九州に居た人間が翌日に北海道にいるわけがない」というアリバイの答えが「飛行機」というのも時代を感じる。当時としては「飛行機を使う」という発想がすでに斬新だったのだろう。劇中の乗客数を見ていると50人とかそこらで、この時代に飛行機が一般的でないことが分かる。まあ、もちろんなんかこう…電車の乗り継ぎの妙で解決するのかと思っていたので、「飛行機、アリなのか…」という気持ちになったのも事実。でも、逆から言えば現代においては、散々「時刻表を使ったトリック!」という固定観念をすでに知った上で見ているので、飛行機が「盲点」になっていた面もある。

そんなわけで時代を感じる場面も多い(当たり前)のだけど、その中でも現代でも十分通じる部分がある。

前述の、この作品の目玉ともいえる「東京駅の13番線ホームから15番線ホームを見た時にお時と佐山が電車に乗り込むところを目撃させる」というトリック。多くの電車が行き交う東京駅で「4分半」のみ13番線ホームから15番線ホームが見通せる、この「わずかな時間」。それがトリックに使用されているんだけど、そんな「4分半」の間に事件のアリバイに出来るような目撃がなされるのは「おかしい」という疑念。これは現代でも通用する考え方だと思う。

この「疑念」はおそらくこのトリックを考えたであろう亮子が「机上の空論」として考えたものであったために発生したのだ。計画を布団の中で考える「だけ」だった亮子には、その計画を誰かが疑うのではないか?という視点が欠けていたのは当然ともいえる。

安田のアリバイが「完璧すぎる」ゆえにその疑惑がどんどん深くなっていく、というのも同様の考え方だろう。

なにより、この事件の真犯人とも言うべき亮子の「動機」。病弱ゆえに夫の安田に対して「妻の務めが出来ていない」という後ろめたさから愛人である「お時」の存在を許してはいたものの、それでも内心は殺してやりたいと常々思っていたという「嫉妬心」。愛人を持つ安田には行かないで「お時」の方に怒りが向くというのも歪んでいるし、時刻表を眺めてどうにか「お時」を殺せないかとずっと考えていたと考えると狂気を感じる。最後に安田と心中したのも、ある意味で彼女にとってはハッピーエンドだろう。勝ち逃げと言っていい状態なのかもしれない。

結局、文化や時代が移り変わったとしても、出来すぎの状況に対する「疑念」や誰かに対する「嫉妬心」と言った人間の「感情」は時代を超えても不変なのだ、という事なのだろう。

補足。

トリックでどうしても分からない所があって、

東京駅で佐山とお時が目撃される
どこか(食堂車に佐山が行く前に)お時と佐山別れる
安田はお時と、佐山は亮子と事件現場に向かう
殺害

という流れだと思うんだけど、安田とお時はともかく、佐山はどうして亮子とホイホイ海岸なんて行ったんだろう…と思ってたんだけど、亮子は安田の「代理」として佐山に会ってたのね。それなら確かに奥さんだし面識くらいはあったからホイホイ付いて行くのもあり得るかな…という感じだった。サンキュー、知恵袋!(と、同じ疑問をもって知恵袋に投稿してくれた人!)
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2018
04,22
ほとんど初めて恋愛モノに手を出してみたわけだけど、ミュージカルでの味付けはあるものの、かなり基本に忠実なストーリー運びをしているなという印象を受けた。夢に向かってそれぞれ努力や挫折を繰り返す中で出会う二人が共感し、やがて恋に落ちる。心の揺れ動きというものは自分自身の立場や方向性が定まっていないと、それに呼応するように発生するものだと思う。そういった意味でも「夢を追っている時間」というものは恋愛が発生しやすい時期なのだろう。

自分の演技(というか女優への才能)に自信が持てないミアに対してなんどもセブが「君は大丈夫」「才能ある」と声を掛ける。もちろん明確な根拠があるわけでもなく、ただの言葉に過ぎないものではあるのだけど、それがどれだけの支えになるだろう。その言葉一つ一つに勇気付けられ、やがて愛おしさを感じるのも分かる。きっと、セブもミアが自分の弾くピアノが好きだと言ってくれることに対して、同じ感情を抱いていたと思う。

観客の反応が気になるというミアに対してセブが言った「ほっとけ」は創作する際に心に留めておきたい名言である。

セブがミアとの結婚を視野に入れて(?)安定を求めて入ったバンドが成功してしまう、という望まぬ形での成功と衝突。夢と現実との折り合いの中でケンカするシーンでセブの言った「俺を見下したいからつきあってたのだろう?」はとてもいいセリフだった。もちろん、いつもはそうは思っていないだろうし、口が滑ってしまったのだろう。でも、心の本当に奥底の方でずっと秘めている卑屈な感情というものはあると思う。それが出てしまった場面だと思った。

私が好きなあとがきの一つ、東京ラブストーリーのあとがきに「ゆらゆらと蝶のように揺れ動く、木漏れ日のような心の動きを紙に留めておきたいのです」(記憶違いがたぶんあるけどこんな感じの意図)というものがあるのだけど、恋愛映画の究極に描きたいものは何かと言えば場面単位での「心の動き」なのだと思う。前後の整合性や伏線、ラストなどよりも、その場その場で登場人物たちがどう感じ、何を思って、どう判断するのか?それが見たいのだ。その「心の動き」はそれまでに用意されたシチュエーション、積み重ねられた時間とキャラの重なり合いによって生まれるものであり、「その映画」でしか見ることはできない。

もちろん「安定を求めて入ったバンドが望まぬ成功をする」なんていうシチュエーションは100億回は繰り返してきた鉄板シチュエーションだ。それでも、そのシチュエーションに乗って「セブがミアに対してこれまで自分でも気付かなかったような本心を吐露してしまう」という「心の動き」は「ラ・ラ・ランド」にしかない。これが恋愛映画が言ってしまえば「男女の関係」のみしか描いていないワンパターンなジャンルだとしても幾億もの作品が生み出されている最大の理由なのだろう。

ラスト、ミアはセブ以外の男性と結婚して子供をもうけ、女優として大成功を収める。一方セブも自分の店を構える。それぞれの夢を現実のものとしたのだ。そこで偶然ミアはセブの店をそことは知らずに訪れて彼の演奏を聴く。

その時に「セブと付き合っていれば」という「IF」が流れる。そこにはミアの夢を完全サポートするセブの姿が描かれる。二人が結ばれるという事はセブは夢をあきらめるという事だったのだろう。逆に言えば、二人が結ばれ、かつセブの夢がかなった場合はミアのサポートが必要になりミアの夢が叶わない、という意味だ。

お互いの夢を叶えるためには別れるしかなかったが、それでも「愛して」はいる。それが最後のお互いの笑みに現れていた。

夢と愛、もちろんこれは映画なのでどちらも手に入れられるラストを用意することは簡単だっただろう。でも、それをあえてしなかった。だれからこそ、最後にお互いが手に入れた「夢」とその過程で生まれたもう一つの「夢」のような恋愛の時間、それが輝くのだと思う。
2018
04,21
同じ感想200万回くらい言われてると思うけど、魔法少女ケイジ☆マギカだった。

見る前から話題になっていたので、いわゆるループものであるという知識だけは知っていたうえでの視聴。そのため、その設定での「驚き」が少なかったのも原因なのか若干物足りなさを感じたかな。というのも、日本人オタクたち、ループものに慣れすぎてるんだよな。これがアメリカとかだと新鮮に受け入れられた…のかもしれないけど、バタフライ・エフェクトとか普通にあるからなあ。

とはいえ、面白い設定もいくつかある。一番の目玉は何といっても「ループ能力はそもそも敵の能力で、この能力のお陰で敵は人類の戦略を全て知った上(体験した上で)で戦いを行う事が出来る。だから無敵なのだ」という点だろう。「主人公がどうやってループ能力を獲得したのか?」「そもそもループはなぜ起きるのか?」など、ループもので問題になる部分を一気に解決した上で敵の「脅威」も描ける。この一点だけでも見る価値のあるレベルだった。

ありふれた設定(時間ループ)でも、それを「敵が利用している」という別観点を加えることで新鮮な素材として扱う事が出来る。横井軍平の「枯れた技術の水平思考」そのものである。創作にもこの考え方は応用できるのだ。

戦闘用のパワードスーツも良い設定だ。なにせ、ループによって発生する「主観としての無限時間の中でトレーニングをして強くなる」というこの設定を生かすためには「肉体」を鍛えてはダメなのだ。ループの中でいくら肉体を鍛えても意味がない。(ループすることでリセットされてしまう)あくまでも得られるのは知識であり、情報だからだ。それを生かすためには「操作方法を覚えることで強くなる」このパワードスーツが必須なのだ。

最初から答えを提示されていれば「そりゃそうだろう」という感じなのだけど、「ループによって鍛えて強くなる」という設定を具体的にどう落とし込むかを実際に1から考えた場合、このパワードスーツという回答はものすごいクリティカルヒットだったと思う。(ただ、ロックの解除方法とかはともかく「反射」は肉体と密接に関わっているのでループで持ちこせるかな…?と思わなくはないけど、個人的には目をつぶってもいいと思う)

光る設定はあるものの、最初に書いたようにやっぱりループものとしては「プレーンすぎる」という印象がある。「ループを何回しても必ず詰まってしまう」という場面はいくつか出てくるものの、それに対する回答が「なんか今回は上手く行った」という展開が多かった気がする。もちろん「前回はここで弾丸が来たので避けよう」レベルのものはあるのだけど、それはループものでの基本であって、「前回ではこうしたけど、今回はこうやったから上手く行ったのか!」という「驚き」があまりなかった。

将軍が兵器を渡してくれるシーン(最終的には罠だったけど)も、「なぜ将軍が罠を仕掛けるとはいえ渡してくれる気になったのか?」という部分が描かれていない。「二人のうちどちらかが犠牲になる」というシーンもいったん犠牲にしたものの、進めてみたらやっぱり絶対に人手が二人必要な展開になってなんとか助ける展開を考える…とかいろいろやりようはあったと思う。

終盤でループ能力を失うのはいいのだけど、失った後と前で(もう感覚がマヒしてるもかもしれないけど)、死に対する恐怖心があまり変わっていないようにみえるのも勿体ない。それまでは「いざとなればループすればいいや」と視聴者も思ってる訳だから、そこでその能力を失ったことに対する動揺や負荷を描けばもっと感情移入を得られるのになあと思う。

あと、やっぱりラストかな。最後に敵の血を浴びたことで再びループ能力を手に入れてリタもJ分隊も無事な時間に戻りました、オメガはなんか自滅してました…というのがあまりにもハッピーエンドすぎてどうも釈然としないんだよな。

いや、多分オメガは時間を操る能力があったせいで「未来で破壊された影響」が全時間軸に影響して、この時間軸では自滅からスタートしている…んだと思うので、理屈はギリギリ通ってるとは思うんだけど、ここはな~個人で分かれる所かな。

じゃあ、自分はどういう結末が見たかったんだ?という事になると、個人的には「輸血でループ能力を失った」という点をブラフ(輸血量が少なくてあの時点では実は能力を失っていなかった)という事にして、クライマックスではループしないと知りえないような情報を元にオメガを倒す…とかしてくれたら嬉しかったかな。そういうもうひと捻りが欲しい映画だった。
2018
04,15
総評

構図的には劇中にもアレックスが言ってたように「強盗VS殺人・誘拐犯」なので、登場人物全員悪人アウトレイジ感はある。とはいえ、「殺人」に関しては強盗に対する正当防衛なので罪にならないような気がするけど。

目的がシンプルでいい。恐怖じいさん(忍び込む前はそんな事は思いもしなかったけど)の住む家から現金を奪って逃げる。これだけ。ちょっとだけ臭わされる三角関係もマネーの早々の退場で完全にじいさんとの戦いに専念できる。

じいさんの「盲目」設定が新鮮。これのお陰で今までのホラー映画だったらアウトになるような場面でも息をひそめてやり過ごせば、「なんとかなる」場面が多い。ドント・ブリーズ(息をするな)という題名からして、ここが映画のキモになっているのは、製作者側も意図していた所だと思う。この設定のおかげ(?)で、じいさんは普通のホラーの犯人とはちょっと動きが違う。なんというか、ゲームのCPUに近い動きなんだよな。一回捕捉されてもしばらくすると警戒が解けるところとか。この辺りは「視認」とその他の感覚で捕らえた場合の差なのだろうか。物音はなんだかんだで別の要因も考えられるけど、目撃は他の要因考えられないからなあ。

最初のマネーが寝室でじいさんと対面した時も、一瞬じいさんが寝ぼけてマネーをやり過ごしたのかと思ってしまったけど、あれは「盲目」設定を強く印象付ける場面だったのだ。寝室で寝るまで見ていたのが娘の昔のホームビデオというのが物悲しい。

腕力と地の利(自分の家)に優れるが、目が見えないというハンデを負っているじいさんと何が何でもお金を持って帰りたいロッキー、そしてロッキーに惚れてるアレックス。三者三様の制約のお陰で狭い一戸建て(まあ、アメリカナイズだから日本の家とは違うけど)内でちゃんと物語が展開することに違和感はあまりない。特に「自分たちも強盗をやっているせいで警察が呼べない」というのが上手い。事前調査での「人通りもない、向こう四件空き家」という強盗実行において絶好の条件も「他人は誰も助けてくれない」という状況となって自分たちにハネ返ってくる。湖畔の一軒家や嵐の無人島でなくてもクローズド・サークルは可能なのだ。

正直最初は、じいさんの苛烈な反撃もまあ、強盗してるの主人公側だし、それに盲目のじいさんにとってはお金は虎の子だししょうがないかなという部分もあったんだけど、やっぱり転機は地下室に監禁されていたシンディが発見された時。異様なほどに厳重な家の警備は最初から「この家から人を逃がさない」ために行われていたのだ。

そこからは攻守逆転しまくる展開。「あ、ここで終わりかあ…」という場面が何度か訪れても、その度にじいさんが復活してくる。最後、家から脱出してもまだ恐怖が続いたのはさすがに驚いた。

最後、ロッキーが妹と新天地に向かうのだけど、じいさんが生きていたニュースも流れてもはやロッキーにとってはこの世界全てがあの一軒家のように逃げるところのない場所になってしまったのだ、というラストもいい。

元々、血痕とか残りまくりだし警察には追われることになっていたロッキーだけど、そこにじいさんも加わってしまった。じいさんももちろん狂人だったんだけど、それはそれとして狂人からなら金を取ってもいいという理屈にはならない、という事なのだろう。

「盲目」じいさんによる新感覚ホラーを味わえた、という点や登場人物それぞれの設定を上手くかみ合わせて街中でクローズド・サークルを作った点など、かなり丁寧に作り込まれているなという感じの映画だった。

トピックス(とりとめのない感想)

・「盲目」とはいえ、匂いや物音で完全にそんなハンデをものともしないかと思いきや、かなりの「制約」を負ってる感があった。もちろん、それが「制約」となってくれている所がこの映画の見どころなのでそれはいいんだけど、臭いを頻繁に嗅いでいる描写はあるけど、それが実際に功を奏した場面はあまりなく(割と近くでクンクンやってもアレックスたちに気が付かない)、物音を立ててもわりとスルーしている場面も多かった。ロッキーが金庫の暗証番号打ってる電子音とかモロに聞こえてた上にあの場所でしかならないだろう…という感じ。

・アレックスの不死身ぶりがすごい。正直、じいさんよりも肉体的には強靭だったんじゃないかという感じである。まあ、ぶっちゃけメイン人物がロッキーとアレックスしかいないせいで、「ショッキング場面」を演じられるのがアレックスしかいなかったんだよな。暗闇でじいさんに捕まってそのまま闇に消えたり(ここなんで助かったのか良く分からなかった。銃の弾は切れてたけど、完全に捕まったじいさんの腕力から逃げる術はあったのか…??)窓から放り投げられて下に落下するわ、その後に銃でとどめを刺されたはずなのに生きてるわ、じいさんと乱闘の末にハサミでぶった切られる(切られたのはたぶんマネーなので叙述トリックみたいな感じだけど)わで、何度死んだんだお前…。

主体的に盗む気マンマンだったロッキーよりも実は巻き込まれ感がすごい彼だったので生き残りあるかもと思ったけどダメでしたね。まあー、でも彼は生き残っても父親も会社クビになっちゃっただろうし、生きてても良い事なかったかもね…。

・マニーはほんとにどうしようもないヤツなんだけど、最初の犯罪で強盗に入った家で楽しそうに立ち小便してたのがちょっと良かった。なんだろうね、あの描写…。証拠を自分から残すバカです、と言いたかったのか。まあ、ファッション狂人を演じていた彼がじいさんというホンモノの狂人の前では命乞いをするだけの男でしたというかませ的な意味もあったのかもしれない。最後に「忍び込んだのは俺一人」って言って他の二人を逃がしたときはわりとグッと来た。これと対比してアレックス辺りが捕まった時にロッキーを売るかなと思ったけど、そこまでアレックスも腰抜けではなかったようだ。

・冒頭で引きずられていた女性はなんだったんだろう…という気はしてたんだけど、あれはシンディと見せかけてやっぱりロッキーだったのかな。見直せば分かると思うけど、記憶はわりと曖昧なので「女性が引きずられていた」ということしか思い出せない。あの場面は上手かった。

・じいさんの復讐方法はかなりえげつない。それ故にホラー的に言えば良い復讐方法だった。事故の相手を捕まえて監禁させてもう一度娘を作る…。この方法で本当に恐ろしいのはある一定の「理」が通ってるところなんだよな。何の理屈もなくムチャクチャで理不尽な復讐を見せられるよりも、「あー、なるほど…」と一瞬思ってしまう手法。

シンディが死んだときにじいさんが悲しんでいて、なんで悲しんでるか最初は分からなかった(せっかく捕まえたので、もっと拷問とかして苦しめて殺してやりたかったとかかな…とか思ってた)んだけど、それを遥かに超えた計画がじいさんの中にあったのだ。しかも、その計画を聞けば「だから悲しかったのか」と納得も出来てしまう。

もちろん、思いついても普通はしないんだけど、「人の心(理屈)を残しつつも、それでもタガの外れてしまった狂人」というのが一番恐怖を感じる。

「レイプはしないよ」と言いつつ、直接精液をスポイト(?)に入れて種付けをしようとする場面とか「レイプ…とは??」という哲学を感じられる問答で非常に良かった。(良かったの?)
2018
04,08
「2」があることは「1」を見る前から知っていたのだけど、「1」があまりにも綺麗に過不足なく終わったように思っていたので、正直「2」は何をやるんだろう…と思ってた。しかし、「2」を見終わってみるとなるほど、そうなるかという感じだった。積み残し案件の消化、そして新しい「課題」の提示である。

積み残し案件は二つ。ヒックのバイキング頭領跡継ぎ問題。そして母親の問題。

前作の経験から、ドラゴンへの偏見と一緒に頑固な一面もかなり改善されたストイックは、攻守ともにほぼ完全な頭領となっており、村は父親に任せて自分は気ままな冒険に出かけてしまおうヒックのという気持ちも分かる。自分は頭領には向いてない、ストイックに任せることで村は完全に回っているのだからそれでいいじゃないかという事だ。

たしかにヒックの考えは間違ってはいない。しかしそれは現状維持が前提であって、ストイックを「失う」事を考慮していなかった。

ストイックの存在はバーグ島にとってあまりにも大きな柱であったのでそれゆえに「1」の時点で退場するものと思っていた。ストイックが居ると緊張感が欲しい場面であっても「ストイックがいるなら大丈夫だろう…」という安心感が生まれてしまうからだ。

もう一つの積み残しである「母親」との和解を経て、ストイックの役割は完全に終わったという事なのだと思う。間接的とはいえ、トゥースにその引き金を引かせるというのはあまりにも衝撃的な場面だった。

20年間息子をほっぽってドラゴンと一緒に暮らしていた母親の設定はかなり斬新だ。なんというか、これはどちらかというと父親がやりそうな役割なのだけれど、設定のめぐり合わせでこういう形になったのだと思う。雲の中から仮面をかぶったキャラが仁王立ちで出てきて中身が母親だったのだからヒックの混乱ぐあいも頷ける。

母親とはドラゴンの話題を通じて意気投合していたが、この20年間の空白はやはりそこまで簡単に埋まるものとは思えないので、「3」ではもう少し掘り下げがあると思う。

そして、「新しい課題」だ。

話の筋が一本道で明確だった前作とは違い、今作はかなりストーリー展開が激しい。ドラゴン狩りを行う連中の存在、そのドラゴン狩りからさらにドラゴンを盗む第三勢力の存在。そしてヒックたち。この三勢力が形を変えながら複雑に絡み合う。

前作はドラゴンの事を一方的に敵対視していたヒックを含むバイキングたちが、相手(ドラゴン)にも心があり、知性があり、そして村を襲わざるを得ない理由があることを知り、敵対を止めて共存の道を進む話だった。

前回のドラゴンとの一件を経てヒックは種族の違うドラゴンとすら和解出来たのだから同じ人間である今作のラスボス、ドラゴとも話し合いによる解決が図れると一定の自信を持っていた。

しかし、お互いを知ることによって必ず相互理解が出来ると信じていたヒックにとって今作は「敗北」の物語だったと思う。敵であるドラゴを見事追い払い、ヒックは頭領の座に就き、トゥースもまたドラゴンのリーダーとなった。結果だけを見ると一見、「勝利」と言ってもいい状態に見えるかもしれないが「ドラゴとの相互理解」という意味では完全に失敗だったといえよう。

黒い巨大なドラゴンと共に海に消えたドラゴが再び力をためてバーク島に襲い掛かってくることは必須だ。「1」とは違い、続編の「3」が前提である構成なのだろう。

ストイックも母親も立場は違えど「自分と考えの違う人間はいる」という忠告をヒックに行っている。今回の段階ではまさにその忠告が的中した。

「どんな人間・種族とでも相互理解出来るはず」という「1」で得た「理想」を今回砕かれたヒック。それでも他人との付き合いは行っていかなければならない。自分と考えが違う人間が現れた時「相互理解」とは違う別の回答を出さなければならない。

ドラゴとの「相互理解」は難しいだろう。それが叶うのならば「3」へつなげる必要はない。新しい他人との繋がりの形が必要だ。それが何であるのかが「新しい課題」。次回作でその答えを見せてくれることを期待している。

※ おまけ 文中に入れられなかった感想。

ちびドラゴンは「リーダーの命令を聞かない」という設定が、全ドラゴンが新リーダーに連れ去られ、ヒックたちがバーグ島に帰る手段が無くなった時のアンサーとして機能していたのはよかった。子供ドラゴンの話をすることで母親がヒックの子供時代を思い出しているのだろうな、というのと単純に微笑ましい話題だったので、伏線として完全に隠れていた。

何度も失敗していたヒックの単独飛行とトゥースとの連携行動が、母親からのアドバイスによる背びれの動きで解決し、最後の決め手になるのもよかった。王道と言えば王道なんだけど、劇中でなんども失敗していたことが最後の最後で成功するのはやはり気持ちいい。

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