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吉良吉影は静かに暮らしたい

2018
05,19
正直、最初の修行パートは「いや…そんなに激しくたたいたらそれを治療しなくちゃいけなくなるから、ますます稽古が遅れるのでは…?」とか、そもそも最初の指をぶったぎるシーンが意味不明で(後でWikiを調べてやっと蝶衣がもともと六本指でそれを切り落としたのだと分かった。六本指を主張するシーンが短すぎたのか、もしくは日本版でなにかカットが成されてるような感じがする)指が四本になったら困るのでは…??など、数々の疑問が頭を巡りこの映画をどう見ていいのか良く分からなかったのだけど、中盤を過ぎて権力が中国から日本軍に移り変わったあたりで、ようやくこの作品の見方が分かって、あとはスムーズに見ることが出来た。

うーーーーん、あの激しい折檻を伴う修行シーンな…。あれはどう…なんだろう。まあ、多分本当にああいう激しい体罰を伴う指導っていうのは過去にあったのだと思うけど、人道的な理由はもちろん、普通に効率悪くないか…?と思う。手の皮がむけるほどたたいたりしたら練習できないし、後遺症とか残ったらどうなるんだ…?という感じである。しかも、あの折檻シーンが特に「問題」とされてるフシもなくて、蝶衣も小楼も師匠に普通に感謝してるみたいだし、まあここら辺は文化の違いもあるかもしれない。

ただ、本当に恐ろしかったのは蝶衣が小四に折檻をしてる場面で、やっぱり自分が成された指導を後輩にもしてしまうのか…という因果を感じずにはいられなかった。結局、蝶衣が「人を説得する」方法を折檻以外に知らなかったために古い体制に反発する小四には折檻が効かず、それ以外に説得の手段を持たない蝶衣はそれ以上のコミュニケーションを取ることが出来なかった。最終的にそれが小四の裏切りを引き起こし、京劇の崩壊につながったと考えると皮肉めいたものを感じる。

この映画の大きな見どころはおそらく二つで、激動の時代の中で翻弄される「京劇」と、小楼の男女を問わないめくりめく愛憎劇なのだろう。

時代(統治者)が移り変わっても、「京劇」というか文化は常に重宝されるんだよな。結局、幼いころの激しい修行の末に身に着けた芸は蝶衣と小楼を生涯に渡って救い続けた(「救い」…というか、経済的に困窮することは無かったというべきか)し、最後に自分の力になってくれるのは頼りになるパトロンや地位ではなく自分自身のスキルなのだという事を教えてくれる。現代日本…いや、全時代的に通じる真理だろう。

しかし、香港・中国の合作映画とはいえ、「観戦態度は日本兵の方がマシだった」という描写がなれていたのは本当に驚いた。まあ、作劇上の問題もあるし、それをいうなら「権力者の移り変わりで価値観というものはいかようにも変容する」というこの思想自体、かなり危険なものであるとも言える。

愛憎劇の方は、やっぱり蝶衣(レスリー・チャン)のお顔が良いので耽美、耽美という感じである。袁四爺からの剣♂の贈り物も意味深である。

ただ、正直小楼がな…。本当に蝶衣がこう…求めるほどの人物だったのかな…。子供の頃からの付き合いがあるとはいえお調子者で思慮が浅くてすぐにカッとなって…とあまりにも良いところがない。うーーん、まあ、阿片に溺れていた蝶衣を救ったのは功績だとしても、やっぱりあの弾圧の時に状況的に仕方がなかったとはいえ、本当の妻の菊仙の事も蝶衣の事も守ることが出来なかったのが決定的だった。

菊仙はその直後に自殺してしまうけど、蝶衣は生き残る。菊仙と同じように小楼に失望したものの、おそらく「虞美人」として死にたかったのだろう。ラストに覇王別姫のリハーサルを行った際に年老いてキレの無くなった小楼に対し、当時のままの姿を保っていた蝶衣。あの弾圧からずっと、この役で死にたいとある意味で「死ぬために」生きてきた期間は彼の時間を進めなかったのだ。

現実の小楼には失望したものの、それでも今目の前にいるのは項羽としての小楼だ。自分が愛した現実の小楼に別れを告げ、役の中の王である小楼と共に永遠を生きることを選んだのだ。あまりにも悲しいラストに思えるが、かつて自分が「女」で無いゆえに菊仙に小楼を奪われた小楼は、今、「虞美人」として永遠に女性になる事が出来たと考えると、蝶衣としては本望だったのかもしれない。
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2018
05,12
見る前は180分超という長さに尻込みをしてたけれど、見終わってしまえば、たしかに長さに合うだけの「間」やエピソードの多さなどそれに見合うリターンはあったかなという感じである。

ただ、エピソードは多いものの、双子の死の真相や所長の奥さんの病気など、用意されたタネが最初からタネに期待されてる以上の効果が無いというか、いわゆる「伏線」になってないんだよな。ウォートンとか来た瞬間に双子を殺した本当の犯人だって分かるし、所長の奥さんもゆくゆくはコーフィの能力で治すんだろうな~というのは分かるんだけど、それが成された時に「あ、このネタ消化したな」以上の感情があまり沸かない。ネタの消化と同時にこれはこう繋がるのか…という感じが無い。驚きが無いといった方がいいのかもしれない。

とはいえ、エピソード自体のつながりが雑と言う訳ではない。むしろあまりにもネタが整いすぎていてベルトコンベアで消化してる感が強い。長大な原作を何とか映画の形に落とし込んだ弊害のようにも感じる。

所長の奥さんの腫瘍を治すのも、おそらく原作ではもっと尺が割かれてるんだとは思うんだけど映画だけで見るとポールたちがクビを懸けてまで治してあげるほどの人物なのかな…という気になってしまう。囚人を外に連れ出すとか、劇中にもあったけど普通に彼らの方が収監されるほどの事態だ。それほどのリスクを犯すほどの動機づけが薄いんだよな。

なにせ、コーフィの能力を待ち望んでいる人たちはなにも所長の奥さんだけではないのだ。それこそ、世界中の人たちが同じように大切な人たちの難病に直面し、どうしようもない絶望感に包まれている。その中で彼女だけを救う理由はあまり納得できなかった。もちろん、目に入る人たちだけでも守りたい、自分に出来ることがあるならやりたいというポールの感情は理解できる。

ポールの尿路感染症は本当に辛そうだったので、治った時は素直に、心から良かったなあと思えたんだけど。

コーフィの能力は超常のものであるけれど、あのリアルな世界観にコーフィの能力を浮かせることなく馴染ませることが出来たのはそれ以外の描写(獄中描写)はのリアルさによるものだろう。大きなウソを混ぜるときはその嘘以外をリアルで固めなければならないのだ。

ただ、コーフィが所長の奥さんから吸い取った病気…というか悪いもの(?)をパーシーに移して錯乱させてウォートンを撃たせたのはあまりにも能力が飛躍しすぎていてちょっと理解が追いつかなかった。コーフィの能力は「病気を治す」のではなく、根本的には別の作用なんだけど、見た目上は「病気を治している」ように見える。その根本の能力を理解したうえで使用すると別の使用方法も出来る…というような描写あれば良かったのだけど、あれだと、こう…「悪いものを同士討ちさせたかったのでさせた」以上のものを感じることが出来なかった。

パーシーのおしおきはともかく、ウォートンの死刑はもうすでに決定事項なので別にパーシーを使わなくても良かったのでは…という気もしている。

ポールはコーフィの無実を知りながら、それでも無罪にすることは出来ずに死刑にせざるを得なかった。そして長命を「罰」として受けいれ、その長命ゆえにこの過去を何度も振り返り、悔恨しなければならなくなってしまった。あまりにも辛いラストである。劇中のポールは常に紳士的であり、正義感も強い好人物だっただけに、もうちょっと救いがあって欲しかった。
2018
05,06
キャプとかで見たことはあるけど、実際に作品は見たことないから潰していこうねシリーズ。

冒頭。オープニングテーマ曲が流れる中、頭を流れ作業で丸められる新兵たちの眼に光は一切ない。見ていてとても不安感を煽られる絵面である。

鬼教官、ハートマン軍曹。彼の暴言の数々はネットによく触れる環境であるならば必ず一度は目にしたことがあるだろう。相手を徹底的にこき下ろし、罵倒する。冒頭で髪の毛を刈り取ったのと同様、訓練の中で新兵たちの「自我」を刈り取っていくのだ。その上で兵士として殺人マシーンとなるように訓練を行っていく。完全に洗脳である。

しかし、始まった当初は強烈に思われたハートマン軍曹の暴言も恐るべきことに10分も経てば「そういうものだ」と慣れてしまう。後半のベトナム戦争の最前線描写もそうだ。最初は特異に映るものでもやがて慣れてしまう、この「慣れ」こそ、この映画のテーマなのではないかと思う。

訓練生のジョーカーは同じ訓練生の中でも劣等生だった「ほほえみデブ」ことレナードのサポート役に任命される。ジョーカーはレナードを良く支え、レナードも訓練を少しずつではあるがこなせるようになっていく。しかし、本来はおそらく心の優しい人物であったレナードはこの日常に「慣れる」事が出来なかった。だからこそ、訓練最終日にハートマンを殺害してしまう。

暴言を吐かれ続け、ヘイトをため続ければこうして爆発してしまう。ある意味で「普通」の反応だ。ハートマンを殺害するときにレナードは弾丸を見つめながら「フルメタル・ジャケット」(完全被甲弾、弾体の鉛を銅などで覆った弾丸のこと)とつぶやく。この作品のタイトルである。しかし、それとは裏腹にレナードはその心を「慣れ」という銅で覆う事が出来なかった。だからこそ、凶行に及んだのだ。

それとは対照的にジョーカーはこの訓練の日常にも慣れ、ベトナム戦争の最前線の様子にも「慣れ」てしまう。心を「慣れ」で「完全被甲弾」としたのだ。それこそがこの「フルメタル・ジャケット」の意味なのだろう。

戦火の最中、兵士たちは「ミッキー・マウス」のテーマを口ずさみながら、まるで散歩にでも出かけるように戦場を進む。それはまさに、戦場と言う「異常」な状態が「日常」となったことを示しているのだろう。正気を失い、狂気に走った方がある意味で「正常」とも呼べる世界の中で正気を保ち続けているのはまさに「狂気」の沙汰なのである。

直接の描写はないものの、そんな彼らがやがて戦争が終わり「正常」な世界へと帰っていったらどうなるのか。彼らの心をガチガチに固めてしまっている「銅の覆い」は、はたして本当に「剥がれて」くれるのか。現実の「ベトナム帰還兵」の問題を考えると、とても難しいように感じてしまう。そんなことを痛烈に感じる映画だった。
2018
05,05
総評。

超有名作で題名だけはなんとなく知っていて、かつトリックも東京駅のホームで電車がすっとなくなって線路二つ分向こうのホームが見通せて…っていうのは知っていたのだけど、「見通せたからなんなのか?」とかそこらへんが良く分かってなかったので、一度ちゃんとストーリーというかトリックを理解したくて見てみた。こういう「「題名」と「なんとなくの作品イメージ」は知ってるんだけど…」という作品は多いので、ひとつひとつ機会を作って潰していきたい。

60年も前(2018年現在)の作品なので、もちろん現代とは文化がいろいろ違う。そこらへんも楽しんで見れた。気になったというか明らかに違うのはタバコの量。ものすごい。パッカパカ吸ってる。仕事場でも電車の中でもパカパカ行く。検死を終えた町医者が立ち上がった瞬間に一本吸う。しかもこの町医者、検死の際に素手で死体を触るは遺留品を触るはで、「あれっ…??指紋の概念ってまだ無いんだっけ???」という気持ちになる。最後に亮子が青酸カリで安田と心中を図る場面でも、ねるねるねるねを作るのか?っていうくらいに青酸カリ(?)の粉をビールを入れる前のコップにたっぷりと入れていたりする。

また、「前日まで九州に居た人間が翌日に北海道にいるわけがない」というアリバイの答えが「飛行機」というのも時代を感じる。当時としては「飛行機を使う」という発想がすでに斬新だったのだろう。劇中の乗客数を見ていると50人とかそこらで、この時代に飛行機が一般的でないことが分かる。まあ、もちろんなんかこう…電車の乗り継ぎの妙で解決するのかと思っていたので、「飛行機、アリなのか…」という気持ちになったのも事実。でも、逆から言えば現代においては、散々「時刻表を使ったトリック!」という固定観念をすでに知った上で見ているので、飛行機が「盲点」になっていた面もある。

そんなわけで時代を感じる場面も多い(当たり前)のだけど、その中でも現代でも十分通じる部分がある。

前述の、この作品の目玉ともいえる「東京駅の13番線ホームから15番線ホームを見た時にお時と佐山が電車に乗り込むところを目撃させる」というトリック。多くの電車が行き交う東京駅で「4分半」のみ13番線ホームから15番線ホームが見通せる、この「わずかな時間」。それがトリックに使用されているんだけど、そんな「4分半」の間に事件のアリバイに出来るような目撃がなされるのは「おかしい」という疑念。これは現代でも通用する考え方だと思う。

この「疑念」はおそらくこのトリックを考えたであろう亮子が「机上の空論」として考えたものであったために発生したのだ。計画を布団の中で考える「だけ」だった亮子には、その計画を誰かが疑うのではないか?という視点が欠けていたのは当然ともいえる。

安田のアリバイが「完璧すぎる」ゆえにその疑惑がどんどん深くなっていく、というのも同様の考え方だろう。

なにより、この事件の真犯人とも言うべき亮子の「動機」。病弱ゆえに夫の安田に対して「妻の務めが出来ていない」という後ろめたさから愛人である「お時」の存在を許してはいたものの、それでも内心は殺してやりたいと常々思っていたという「嫉妬心」。愛人を持つ安田には行かないで「お時」の方に怒りが向くというのも歪んでいるし、時刻表を眺めてどうにか「お時」を殺せないかとずっと考えていたと考えると狂気を感じる。最後に安田と心中したのも、ある意味で彼女にとってはハッピーエンドだろう。勝ち逃げと言っていい状態なのかもしれない。

結局、文化や時代が移り変わったとしても、出来すぎの状況に対する「疑念」や誰かに対する「嫉妬心」と言った人間の「感情」は時代を超えても不変なのだ、という事なのだろう。

補足。

トリックでどうしても分からない所があって、

東京駅で佐山とお時が目撃される
どこか(食堂車に佐山が行く前に)お時と佐山別れる
安田はお時と、佐山は亮子と事件現場に向かう
殺害

という流れだと思うんだけど、安田とお時はともかく、佐山はどうして亮子とホイホイ海岸なんて行ったんだろう…と思ってたんだけど、亮子は安田の「代理」として佐山に会ってたのね。それなら確かに奥さんだし面識くらいはあったからホイホイ付いて行くのもあり得るかな…という感じだった。サンキュー、知恵袋!(と、同じ疑問をもって知恵袋に投稿してくれた人!)
2018
04,22
ほとんど初めて恋愛モノに手を出してみたわけだけど、ミュージカルでの味付けはあるものの、かなり基本に忠実なストーリー運びをしているなという印象を受けた。夢に向かってそれぞれ努力や挫折を繰り返す中で出会う二人が共感し、やがて恋に落ちる。心の揺れ動きというものは自分自身の立場や方向性が定まっていないと、それに呼応するように発生するものだと思う。そういった意味でも「夢を追っている時間」というものは恋愛が発生しやすい時期なのだろう。

自分の演技(というか女優への才能)に自信が持てないミアに対してなんどもセブが「君は大丈夫」「才能ある」と声を掛ける。もちろん明確な根拠があるわけでもなく、ただの言葉に過ぎないものではあるのだけど、それがどれだけの支えになるだろう。その言葉一つ一つに勇気付けられ、やがて愛おしさを感じるのも分かる。きっと、セブもミアが自分の弾くピアノが好きだと言ってくれることに対して、同じ感情を抱いていたと思う。

観客の反応が気になるというミアに対してセブが言った「ほっとけ」は創作する際に心に留めておきたい名言である。

セブがミアとの結婚を視野に入れて(?)安定を求めて入ったバンドが成功してしまう、という望まぬ形での成功と衝突。夢と現実との折り合いの中でケンカするシーンでセブの言った「俺を見下したいからつきあってたのだろう?」はとてもいいセリフだった。もちろん、いつもはそうは思っていないだろうし、口が滑ってしまったのだろう。でも、心の本当に奥底の方でずっと秘めている卑屈な感情というものはあると思う。それが出てしまった場面だと思った。

私が好きなあとがきの一つ、東京ラブストーリーのあとがきに「ゆらゆらと蝶のように揺れ動く、木漏れ日のような心の動きを紙に留めておきたいのです」(記憶違いがたぶんあるけどこんな感じの意図)というものがあるのだけど、恋愛映画の究極に描きたいものは何かと言えば場面単位での「心の動き」なのだと思う。前後の整合性や伏線、ラストなどよりも、その場その場で登場人物たちがどう感じ、何を思って、どう判断するのか?それが見たいのだ。その「心の動き」はそれまでに用意されたシチュエーション、積み重ねられた時間とキャラの重なり合いによって生まれるものであり、「その映画」でしか見ることはできない。

もちろん「安定を求めて入ったバンドが望まぬ成功をする」なんていうシチュエーションは100億回は繰り返してきた鉄板シチュエーションだ。それでも、そのシチュエーションに乗って「セブがミアに対してこれまで自分でも気付かなかったような本心を吐露してしまう」という「心の動き」は「ラ・ラ・ランド」にしかない。これが恋愛映画が言ってしまえば「男女の関係」のみしか描いていないワンパターンなジャンルだとしても幾億もの作品が生み出されている最大の理由なのだろう。

ラスト、ミアはセブ以外の男性と結婚して子供をもうけ、女優として大成功を収める。一方セブも自分の店を構える。それぞれの夢を現実のものとしたのだ。そこで偶然ミアはセブの店をそことは知らずに訪れて彼の演奏を聴く。

その時に「セブと付き合っていれば」という「IF」が流れる。そこにはミアの夢を完全サポートするセブの姿が描かれる。二人が結ばれるという事はセブは夢をあきらめるという事だったのだろう。逆に言えば、二人が結ばれ、かつセブの夢がかなった場合はミアのサポートが必要になりミアの夢が叶わない、という意味だ。

お互いの夢を叶えるためには別れるしかなかったが、それでも「愛して」はいる。それが最後のお互いの笑みに現れていた。

夢と愛、もちろんこれは映画なのでどちらも手に入れられるラストを用意することは簡単だっただろう。でも、それをあえてしなかった。だれからこそ、最後にお互いが手に入れた「夢」とその過程で生まれたもう一つの「夢」のような恋愛の時間、それが輝くのだと思う。

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