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吉良吉影は静かに暮らしたい

2018
11,11
いやその、なんだ…。この…人生において「見たことのある映画」というのはある意味で「味方」に入るという感覚があるんだよな。「この映画見たことないな」という場面に「よく」出くわす映画というのはあるもので、今年に入ってから映画を何本も見ているのはそういった映画をなるべく無くすという趣旨もある。なので、見る映画が必然的に「有名」で「昔の映画」に偏っているという自覚はある。「2001年宇宙の旅」はその象徴の様な映画だ。

様々な作品に影響を与え、パロディされたりするこの作品。見る前から「モノリス」の存在、コンピューターによる反乱…などなどの「ネタ」を知った状態で見たものの、やっぱりちゃんと本編は見てみてよかったな、と思う。今後幾度となく出くわすであろう「2001年宇宙の旅見たことないな」が二時間半程度でつぶせるのならやってしまうべきだ…と個人的には考えている。

とりあえず驚いたのは冒頭。真っ黒な画面に音楽だけが延々と流れたせいで(アマプラで見たんだけど)、普通に映像が流れない故障かと思ってしまった。いや…あれは…体感では5分くらいあったと思うんだけど、故障なのか演出なのか分からなかったので確かめようかそのまま見続けようか困惑してしまった。しびれを切らしてしばらく先にサーチしてみたら映像が流れていたので「こういう演出なのか…」と理解はしたけど、なんかもう冒頭からすごいな…という感じであった。ここで言う「すごいな…」はあまりい意味ではない。「こりゃ置いてきぼりにされるな」という感覚である。

お猿が暴れまわってる冒頭30分は公開当時あまり評判が良くなかったらしい。当時のプロモーションがどんな風に行われていたのかは分からないけど、確かにあんなSF感バリバリの宇宙ステーションがドンと描かれたポスターに惹かれて見てみたら冒頭5分真っ暗で、それが開けたらお猿が延々暴れまわってるんだから普通にキレると思う。ただ、出来と言うか「言いたい事」は後半部に比べれば分かるので「見にくさ」はない。モノリスに触れたお猿が「道具」を使う事を覚えて進化し、別のお猿集団を退けて(殺害して)水場を奪ったのだ。「モノリス」とはあの石柱の事ではなく(あれは視覚的なイメージで)、エポックメイキングを意味するのだろう。「道具」の獲得である。

舞台は一気に飛び(ここが2001年なのか…??)、月面でモノリスが発見される。まあ、それはそれとして人類は木星を目指す。この流れは後々整理してみれば「ああなるほど」という感じになる。

木星を目指す過程で有名なコンピューター「HAL9000の反乱」がある。すなわちコンピューターによる人間の殺害だ。最初はモノリスの出現によってエポックメイキングが再び起こって人類にとって代わる存在としてコンピューターが選ばれて、その象徴として「人類の殺害」が行われた(お猿時代に起こった争いの中の殺害みたいな感じ)のかと思っていたけど、どうやら違ったらしい。

「HAL9000」には他の乗務員に知らされていない極秘ミッション(月面で掘り起こされたモノリスが「木星に向け強力な磁気を発していた = 木星に向かうことの示唆及びその調査」)が託されていた。それを歪曲した「HAL9000」は「他の乗務員に知らせてはならない = だったら全員殺そう」というヤンデレ回答に行きついてしまう。

「HAL9000」がヤンデレ気質だったことを見抜けなかった事も問題だが、やはりコンピューターに「間違い」は無く、間違いがあったのは「他の乗務員に知らせてはならない」という入力をした人間の方だったのだ。「知られてはならない」が「調査はしなければならない」。コンピューターである「HAL9000」が人の眼を盗んで調査をする事は不可能だ。この相反する矛盾のあるミッションを与えたことが「間違い」だったのだ。「ユニットに故障がある」という「間違った」判断も乗務員殺害への布石だったのだから、「HAL9000」は「故障」をしていなかったのだと思う。
「HAL9000」の反乱(?)を沈め、モノリスの示す通りに木星に辿り着いた人類は真のエポックメイキングである人類超越の儀(「道具」の獲得と同様?)を経てでっかい綾波(違う)と化して地球に帰還…??というか地球を見つめる赤ちゃんになるのだった。

よし待ってくれ。決しておれの気が狂った訳じゃなくて本当にこの通りなんだ。正直、「お猿編」と「HAL9000反乱編」はちゃんと付いていけたんだけど最終章は本当にムリだった。特にモノリスと接触して「白い部屋」(これはいろんなパロの元ネタな気がする)に到達するまでのエフェクト映像(CGも無いと考えるとあのイメージ映像はかなりすごいな…)の連続が本当に眠くて眠くて半分夢心地になりながら見てたんだけど、あのエフェクトが一種のトリップ状態を引き起こすために流されていたのならば、半分眠りながら見るのが正解の様な気がする。

実際、カッチリ見たとしての最終章の流れはサッパリ分からないんだろうから、それならいっそ「薄れゆく意識の中で、なんかこう…白い部屋…とかあって…デッカイ緑色(?)の赤ちゃんが地球を見つめてるんだ…」みたいな感じでボンヤリ捕らえることこそが「2001年宇宙の旅」のレジェンド感を最高に味わえるというものではないだろうか。(康一君が途中で寝たのはある意味で正しい視聴方法だったようにも思える)
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2018
11,10
あああ~!!ああ……。もうね、無理。おれは絶対にディズニーを映画館に見に行けない。いや、もうマジで本当にヤバイわ。プロスペクターが裏切った(本性を出した)瞬間、めちゃくちゃ叫んでしまった。

いや、ほんとさ!そうなんだよ!!あのプロスペクターじいさんは「箱」に入ってるから品物の「格」としては上なんだよな。特にオタクにとっては箱に入ってた方が「嬉しい」訳じゃん。おれにもその気持ちが凄く良く分かる。だから、あの「箱」に関しては「そうなんだ」位にしか思ってなかった。でもさ~、違うんだよな~!!あの「箱」って要素がめちゃくちゃ上手く機能してるんだよな。

まず、箱に入ってるって事はウッディやジェシーの様に「子供と遊んだ幸せな記憶」が無いんだ。あの「不幸」が描かれているジェシー(後述)ですらも、その「不幸」はエミリーと遊んだという幸せな記憶の上に成り立っている。だからジェシーはウッディが最終的にアンディの元に帰るのを止めはしない。自分は捨てられてしまったが、待っている子供がいてくれるのなら、帰るべきだという事を経験で理解しているからだ。

でもプロスペクターは違う。その記憶が「無い」んだ。生まれてから箱の中から出されて遊ばれたことがなく、ずっと在庫処分に並んでいた。もうさ、プロスペクターが在庫処分に並んでるってところで本当にシビれるよな。マジで売れ残りそうなポジションしてんだよ、プロスペクター…!

そのずっと虐げられていたプロスペクターが「マニアの展示品になる」というオモチャ本来の役割から外れることになったとしても、「自分を必要とされたい」という気持ちからウッディを強制的に引き留めようとする気持ちも痛いほど分かる…。必要とされてえよなあ…!!分かるよ…!!しかもその条件がウッディやジェシーが揃ってる事ってのも泣けるよな…!自分だけじゃ需要が無いんだぜ…??だから、必死でウッディを引き留めてるんだ、泣ける。泣けるよプロスペクター…!!

でも、プロスペクターはある意味で可哀想な奴だったからちゃんと救いもあったと思うんだよな。ラスト、顔にいたずら書きしちゃう女の子の元に運ばれて、プロスペクター自身はイヤな顔してるんだけど、彼はようやく「箱」の中から出て子供の元に「おもちゃ」として存在する事が出来たんだ。箱越しの「コレクション」ではなく、「おもちゃ」本来の役割が果たせるんだ。それはきっと、彼にとっては幸福なことなんじゃないかな。

対して「盗み」という正真正銘の悪事を行ったアルは精神崩壊??の末に店のおもちゃを全品1ドルで放出するという「末路」を辿っている。この映画での悪役はこの二人だったと思うけど、ラストの描かれ方がこうも違う。やっぱり、スタッフとしてもプロスペクターには同情の余地アリと判断されたんじゃないかなあ。

ジェシーの描かれ方も良かった。まずは陽気な新キャラとして登場するものの、ウッディが自分の家に帰ろうとすると「暗闇が怖い」と言ったのが良かった。暗闇、怖いよね。そう、この「暗闇が怖い」という単純な理由は、それ故にシンプルだ。彼女に関してはあの時点ではまだ出たての新キャラだ。その彼女の内面から発せられる理由よりも「暗闇が怖い」という普遍的な理由に根拠を置いた方が感情移入がしやすい。

それからしばらくたって、ジェシーの描写時間が増えてから、ジェシーのトラウマを描く。仲の良かった、ずっと遊んでくれると思っていたエミリーとの別れ。めちゃくちゃ泣ける。というか、トイ・ストーリー全体に言える事なんだけど、「忘れていたあのころ大切だったおもちゃ」という誰もが持っている記憶にダイレクトに訴えているのがこの作品の最大のキモなんだ。誰もが強い共感を得られる題材。これを手にした瞬間に、その作品は成功が約束されるといっていい。共感は感情移入を生み、感情移入は感動を呼ぶからだ。

ジェシーとエミリーの話は来るべきウッディとアンディの別れも示唆している。今回もウッディは「アンディの元に戻る」という動機の元に行動をしているけれど、その根本、もしこの先「アンディがウッディを必要としないときが来たらどうなるのか?」という問いかけをしているのだ。(そしてこの問題はおそらく「3」で描かれている)

とはいえ、今回のところはウッディはアンディの元に帰ってきた。修理師の修繕した腕は完璧だったが、ウッディにとってはアンディは修復してくれた太めの腕の方が「喜び」を与えれくれる。将来(アンディの成長)を意識しつつもあえて「今はこれで良い」と言ったウッディ。完璧である。

ピクサーの映画を見ると、シナリオにおいて「共感」がいかに重要かを改めて感じることが出来る。ドキドキハラハラしたシーンも、結局は「そのキャラが助かって欲しい」という感情が無ければ楽しむことはできない。

ただ、全く無駄の無いピクサーのシナリオにおいて、今回は「二体目のバズ」があまり有効に機能しているように思えなかった。二体バズが必要だった意味は何だったんだろう…。あと、スター・ウォーズのパロをやり過ぎてそこまで入れないでも…?という気がしないでもなかった。今(2018年)となっては同じ会社になっちゃったなあ~という笑い話にはなるかもだけど。

「3」があんまりにも待ち遠しくて一気に見てしまおうかと思ったけど、ぐっとこらえて来週にする。約束された最高映画「3」をこんなに一気呵成に見てしまっては勿体ないだろう。
2018
11,04
「II」でマフィアとして確固たる地位と権力を保持しつつも兄のフレドを暗殺し、嫁からも恐れられ、子供も離れてしまったマイケル。正直、2のラストはあまりにもマイケルに救いが無さ過ぎて、まあ、もちろんマフィアという稼業上、それで幸せをつかみました!悪行、サイコー!!という語り口もどうなんだろう…となるので、あのラストは仕方のない面はあるとは思うものの、やっぱり、孫と戯れて穏やかに逝ったヴィトーに比べてマイケルがあまりにも可哀想だったな…というのが正直な感想だったので、マイケルの晩年を描いた3では、ちょっとこう…救いみたいなものがあるのかなと思ってたんだけど、いやあ~、全然でしたね!

3において描かれた死のシーンにおいても結局マイケルは全く救われておらず、それどころか緑と光に囲まれて孫と戯れながら死んでいたヴィトーの晩年と対比するまでも無く、廃墟で寂しく、痩せた犬が一匹だけ傍らにいる状態で死んだマイケルはあまりにも寂しい。これが血の粛清を続けて来たマイケルの代償なのだろう。

作品として見ると「2」での主題(マフィアやってても幸福になれない)が「3」でも再度語られたような状況になっており、「別にこれ3なくても良かったのでは…?」という気持ちになるのだけど、もともと「3」はナンバリングタイトルではなく、1・2の後日談としてマイケルの内面を語った外伝的に作成された物語という事で、ある程度の納得はできる。

確かに今回の作中で幾度となくマイケルはフレドの暗殺をずっと後悔していた事が明らかになったのは良かったと思う。正直、フレドの事など毛ほども気に留めずに暗殺した(「2」のマイケルの冷徹さならありえる)ものだと思っていたのだけど、どうやらそうではなかったらしい。もしくは時間の経過とともに自分のした事(ヴィトーが決してやらなかったであろう身内(血縁)の粛清)の重大さを身に染みて感じていったのかもしれない。

2で辣腕を振るっていたマイケルも、晩年になり病気を患い過去を思い起こすことが多くなったのかもしれない。ケイとの関係修復を試みたのもその一環だろう。

しかし、ゴットファーザーは本当に悪い癖があるんだけど、過去の重要キャラを告知無しで消さないでほしい。いや、これはもちろん「出演者」というものが存在する映画である以上仕方のない事なのかもしれないけど、それにしたって、トムほどの重要キャラをサラッと退場させないでほしい。息子は出ていたけど、それはそれとしてトムが死んだなら死んだともっとハッキリと言っておいて欲しかった。おかげで中盤くらいまで「トムどうしたんだろう…」って思いながら見るハメになってしまった。

トムはどう考えてもこの作品におけるマイケルの次くらいに重要なキャラであったはずで、2のマイケルがギリギリ人としてのタガを持てていたのはトムの存在によるところが大きい。たとえ死亡したという設定であっても、「トムが居てくれれば…」くらいのセリフがあっても良かったと思う。

2の時もクレメンザが唐突に消えて、クレメンザのシマを引き継いだのがフランクなんだけど、あの時もどうかと思ったんだよな…。ただ、フランクの時は裏切りで行ったり来たりする人物だったので、あの役をクレメンザにやらせるのはどうかな…?と思案した結果のキャラ交代として考えればギリギリ分からなくもなかったのだけど、今回のトムの突然の失踪はかなりマイナスだったと思う。

回想のラスト、マイケルと共に踊った過去の女性たちケイ、アポロニア、メアリーの全員がマイケルの元から去って行っていた(ケイ、メアリーは暗殺で死亡。メアリーを失うことになったケイとの関係修復は不可)のはあまりにも寂しい。やはりマイケルに必要だったのはパートナーだったのではないだろうか。

トムさえ生きていれば、最晩年をあそこまで寂しく過ごすこともなかった。作中人物が言ってくれなくても、おれが言うよ。「トムが居てくれれば…」と。
2018
10,21
ようやくというか、なんというか「まだ見たことなかったの!?よく回避して生きてこられたな!?」って感じだと思うんですけど、マジで今年に入るまで全然映画を見る人じゃなかったので…。

今見ると、さすがに人間のキャラのCGには厳しさを感じるけど、おもちゃたちに関しては違和感はほとんどない。やはり人間をCGで違和感なく作るのは難しいのだ。この映画のメインキャラクターにおもちゃが採用されているのはそういった面もあるのだと思う。

という訳でトイ・ストーリー。う~ん、すごい。全編ハラハラドキドキの81分。は、81分!?体感時間は短いのに、濃厚なメッセージとストーリーが詰まっている。久々にキッズアニメを見たからか、感情移入がしやすくてすごい見やすい。そして面白い。前々から思ってたけど、ストーリーテリングの技術はキッズ向け映画の方が優れてるように感じるんだよな。

「子供でも分かる様に、飽きさせないようにする工夫」というのはそのまま映画の「面白さ」を伝える努力に直結してるように思う。いくつもの思惑が交錯し、劇中で語られない設定があり、映画を見た後にあらすじを読んでようやく、「ああ、あれそういう事だったのか…」と気付くようじゃダメなんだ。いや、これはその…もちろん、見てる自分の理解力が足りていない場合も多くあるので、製作者側を一方的に非難してる訳じゃないんだけど、子供向けの方がそういった方面に力を入れていて作るのが難しいというのはあると思う。

「子供だまし」という言葉は二面性を持っていて、確かに子供は単純でなんでも信じてくれるところはある。でも、そこに甘えず真摯に分かりやすく、面白さを伝えようという努力を続けている作品もある…というか、そういう作品の方が多いという事を忘れてはいけない。

81分という極めて短い中に収めるため、カットするところは徹底的にカットされている。例えば、シドなんていう悪ガキを置いたなら、アンディの事をいじめてそうな設定もありそうなものだけどそれをやりだすと尺が長くなってしまうので、隣同士の家であるにも関わらず関係は完全カット。深めるところと切るところのメリハリをつけて、見せたいとおもうテーマに焦点を絞る。これも見やすさ、分かりやすさに繋がっている。

劇中のバズのCM、めちゃくちゃいい。あれの煽り方はすごいバズのおもちゃが欲しくなる。バズ・ライトイヤー!!バズ・ライトイヤー!!

バズの存在はしっていたけど、まさか一作目から登場しているとは思わなかった。いや、ほら、一作目とか「オモチャって誰も見てない所では動いてるんですよ」という設定だけでも一作なんかやれそうじゃん?そのネタで持たせるのは最初の10分足らずで、それが過ぎたら「バズ」という新人がやってきて、それまで持ち主のアンディの寵愛を一身に受け、リーダーとして仲間からの信頼も篤かったアンディの苦悩と嫉妬を描く…というこのスピード感がすごい。このアンディの悩みは現実世界にも直結する悩みにもなる。

つまるところ、キッズ目線で言えば新しいお友達が来て、それまでの自分の友達とかがとられちゃったりしてなんか面白くない…という状況は往々にしてあることだろう。大人だって起こる。いや、正直言うと子供よりも大人の方が人間関係の入れ替わりが激しい職場や環境に居る人も多いだろう。そういう事が起こった時、どうやって自分の気持ちに折り合いを付ければ良いのか?そういった繊細な問題を、オモチャという世界を通じて自然と考えさせてくれるようになっているのだ。

確かにバズが来なければウッディの「世界」は平和そのものだっただろう。穏やかな日々が続いていたとは思う。ただ、クリスマスや誕生日が来るたびに新しい「侵略者」におびえる日々を過ごさなければならなかったのも事実だ。今回、バズが来たことでウッディの世界は一度崩壊した。しかし、その体験を乗り越えたことでどんな新人でも迎え入れることが出来るようになったのだ。

ラストのクリスマス。最初のシーンと対比するように穏やかな表情で…とはいかないまでも、不安はあるけれど、それでも最初の様な徒な不安は抱いていないウッディ。年に二回来る「不安」が取り除かれた真に平和な世界を彼は手に入れたのだ。最高の相棒と共に。
メッセージ性とストーリー構成、そしてエンターテイメント性の極めて高いレベルの融合、ピクサーの神髄はすでに完成されていた。
2018
10,20
200分に渡る超大作である。それもそのはず、「ヴィトーがゴッドファーザーとしてのし上がるまで」(過去編)と「ゴッドファーザーを引き継いだマイケルのその後」(現代編)の二本の軸が同時に展開していくので、「続編」として描かれることが良くあるシチュエーションの映画二本分がぎゅっと凝縮されているのだ。そのため、間延び感はあまりない。一本当たりだと100分になるのでそこそこ普通程度の長さになる。

ヴィトーの過去で2、マイケルのその後で3という分け方でも十分映画としては「持った」とは思うけど、同時展開する事で映画のテーマは確かにくっきりと浮かび上がってくる。つまり、ヴィトーとマイケルの対比だ。

ゴッドファーザーとしてどんどんのし上がり、仲間も家族も増えていくヴィトーとゴッドファーザーとしての権力を維持するために裏切った仲間を抹殺し、妻からも去られていくマイケル。

ケイの、「身ごもっていたマイケルの子供を産みたく無さ過ぎて堕ろした」という告白は衝撃的だった。ヴィトーの妻カルネラがヴィトー亡き後もファミリーの絆として機能していたのとはあまりにも対照的だ。

やはり、2は殺伐としすぎていたように思う。1のコルレオーネファミリーにあった「暖かさ」の様なものが一切失われていた。ラストシーン、過去編と現代編がマイケルの回想の中で交わるヴィトーのある誕生日のシーン、家族に暖かく迎えられるヴィトーとついに実の兄であるフレドを暗殺し、トム以外の家族(子供以外)を失い部屋の中で一人になるマイケルのシーンも印象的だった。(あれっ、コニーは生きてたか…)

結局のところ、ヴィトーのマイケルに跡目を継がせたくない( = マフィアとして生きても幸せにはなれない)という予測は当たってしまった形になった。もちろん、マイケルは全く善人ではないので因果応報と言えばそれまでだ。ただ、犯罪に手を染めていたのはヴィトーも同じ。二人が生きた時代が違うといえばそれまでだが、やはりその決定的な違いは「家族への愛」だったと思う。ヴィトーは息子の病気を心配そうに見つめ、マイケルはクリスマスプレゼントをトムに任せていた。細かい点だが、こういった積み重ねが対比となっていったのだと思う。

ヴィトーが「家族」を守るために作った「ファミリー」。その「ファミリー」を守る(発展)させるために「家族」(フレド)を殺したマイケル。ここが二人の決定的な違いであり、ラストシーンの対比に繋がったのだろう。

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